episode6:夢見薬
ローレンスの研究室は、家から少し離れた場所にある。
危険な術式や魔法薬を扱うために建てられた石造りの小さな建物で、壁一面の棚には薬草や鉱石、用途の分からない瓶が所狭しと並んでいる。中央には大きな作業台があり、その奥には魔法陣を刻んだ調合炉が据えられていた。
フィオナも幼い頃から何度となく出入りしているが、勝手に触れていいものは未だに半分もない。
「師匠」
「うん?」
「これ、なんですか」
作業台の端に置かれていた紙を持ち上げる。
窓辺で本を読んでいたローレンスが、ちらりとこちらを見た。
「ああ。夢見薬の注文書」
「それは読めば分かります。納品日、明後日って書いてありますけど」
「そうだね」
「どこにあります?」
「何が?」
「納品する夢見薬です」
「まだないよ」
フィオナは注文書から顔を上げた。
「……作ってないんですか?」
「材料は揃ってるよ」
「それを作ってないって言うんです」
「明日でも間に合うから」
「師匠の明日は信用できません」
「僕、そんなに信用ない?」
「こういうことに関してはありません」
ローレンスは少し傷ついたような顔をしたが、フィオナは無視した。
注文は十二本。王都の魔法薬店から定期的に入るものらしい。
夢見薬は、その名の通り夢を見るための魔法薬だ。
眠る前にほんの数滴を舌に落とし、見たいものを強く思い浮かべる。すると眠りについたあと、その願いに沿った夢を見ることができる。
会いたい人に会う者もいれば、遠い故郷へ帰る者もいる。もう一度見たい景色や、叶わなかった未来を見る者もいるという。
作り方そのものは広く知られているが、調合の最後に細かな魔力操作が必要になるため、質のいいものを作れる魔法使いは多くない。
「じゃあ、フィオナが作ってみる?」
思いがけない言葉に、フィオナは瞬いた。
「私が?」
「うん」
「一人でですか?」
「僕が教えるよ」
夢見薬の調合を手伝ったことは何度かある。けれど、最初から最後まで自分で作ったことはない。
「失敗したらどうするんです?」
「もう一回作ればいい」
「納品、明後日ですよね?」
「まだ二日もある」
「師匠って、たまに時間の感覚おかしいですよね」
「たまに?」
「……今のは聞かなかったことにしてください」
ローレンスが笑った。
「大丈夫。フィオナならできるよ」
あまりにも簡単に言う。
昔から、この人はそうだった。
初めて魔法を使った日も、初めて難しい術式を見せられた日も、「できるよ」と笑っていた。
その根拠がどこにあるのか、フィオナには未だに分からない。
「失敗しても知りませんからね」
「そのときは僕がなんとかする」
「最初から師匠が作った方が早いんじゃないですか?」
「それじゃフィオナが覚えられないでしょう」
そう言われてしまうと、断れなかった。
◇
材料の一部は、裏庭の温室にある。
ラベンダーとカモミールを摘み、研究室へ戻る。そこへ蜂蜜と蒸留水、それからローレンスが棚の奥から取り出した小さな鉱石を加えた。
乳白色の石の中に、淡い光が閉じ込められている。
「月光石?」
「正解」
「ずいぶん綺麗ですね」
「満月の夜に魔力を吸わせたものだからね。削りすぎないで。ほんの少しでいいよ」
言われた通り、細かな粉にした月光石を薬匙の先ほど加える。
調合炉の上では、ラベンダーとカモミールを煮出した液体が静かに揺れていた。甘い花の香りに蜂蜜が混じり、研究室の中に柔らかな匂いが広がっていく。
「次は?」
「魔力を流して」
「どのくらいです?」
「ほんの少し。水面を撫でるくらい」
「それ、量の説明になってませんよ」
「やれば分かるよ」
「師匠のそういう教え方、嫌いです」
「僕は好きだけどなあ」
「聞いてません」
フィオナは息を整え、指先から魔力を流した。
液体の表面に淡い光が浮かぶ。
「強い」
「これでも?」
「もっと弱く」
少し絞る。
「まだ」
「……これ以上弱くしたら止まりそうです」
「止めないで」
「無茶言わないでください」
「力を抜いて。魔力を入れようとしなくていいから」
「入れろって言ったの師匠でしょう」
「言葉って難しいね」
「今それ言います?」
集中が切れそうになった、そのときだった。
背後にローレンスの気配が近づいた。
「ここ」
右手を取られる。
長い指がフィオナの手に重なり、そのままほんのわずかな魔力が流れ込んできた。
「ちょっと、師匠」
「手元見て」
「見てます」
「僕じゃなくて?」
「見ません!」
耳が熱い。
こんなに近づかなくても教えられるでしょう、と言いたかったが、魔力が重なった瞬間、液体の中で何かが変わった。
自分が流し込んだ魔力とは違う。
鍋の中にもともとあった微かな魔力が、眠りから目覚めるようにゆっくりと動き始める。
「あ……」
「分かった?」
「少し」
「自分でやってみて」
ローレンスの手が離れる。
名残惜しいと思ってしまった自分を叱りつけながら、フィオナはもう一度鍋へ意識を戻した。
魔力を押し込むのではなく、触れる。
呼び起こす。
今度は液体の中から、小さな光がいくつも浮かび上がった。
透明だった薬が、ゆっくりと薄紫色へ変わっていく。
夜と朝の間にだけ見える空のような色だった。
「できた……?」
「まだ」
「まだあるんですか」
「一番大事なところが残ってる」
ローレンスは楽しそうに笑った。
「夢を入れるんだよ」
「夢?」
「夢見薬は、最後に作り手が一つだけ、見たいものを思い浮かべる。それを核にして薬を安定させるんだ」
「なんでもいいんですか?」
「なんでも。会いたい人でも、行きたい場所でも、食べたいものでも」
「食べ物でもいいんです?」
「フィオナならありそうだなと思って」
「失礼ですね」
「じゃあ、何が見たい?」
そう聞かれて、フィオナは困った。
見たいもの。
叶うなら、何を夢に見るだろう。
「師匠は?」
「僕?」
「いつも何を思い浮かべてるんですか」
何気なく尋ねただけだった。
けれど、ローレンスはすぐには答えなかった。
いつもなら何でも軽く返す人が、ほんの少しだけ黙る。
「……秘密」
やがて、笑ってそう言った。
「ずるい」
「夢くらい秘密にさせてよ」
「じゃあ私も秘密です」
「僕にも?」
「師匠にもです」
「残念だなあ」
フィオナは目を閉じた。
何か特別なものを思い浮かべようとして、やめた。
浮かんできたのは、いつもの居間だった。
朝の光が差し込む窓。二人分の朝食が並んだ木の机。読みかけの本と、湯気を立てる紅茶。
向かいには、ローレンスがいる。
それだけだった。
けれど、不思議とほかには何も思いつかなかった。
その景色を胸の中に留めたまま、ゆっくりと魔力を流す。
薄紫色の液体に銀色の光が混じり、やがて静かに溶けて消えた。
「もういいよ」
目を開ける。
ローレンスが薬を小瓶に取り、窓から差し込む光に透かした。
「うん。綺麗にできてる」
「本当に?」
「僕が初めて作ったときより上手」
「嘘でしょう」
「本当だよ」
「師匠の本当も信用できないんですよね」
「ひどい弟子だなあ」
そう言いながらも、ローレンスはどこか嬉しそうだった。
「これなら僕が作ったことにして納品しても分からないね」
「だめに決まってるでしょう」
「じゃあ、フィオナ・ベルティエ作って書いておく?」
「それもやめてください」
「どうして? ちゃんと売り物になるよ」
その言葉に、フィオナは小瓶を見る。
自分の魔力で作った、初めての夢見薬。
「……本当に?」
「うん」
今度の返事は、軽くなかった。
「もう僕が手を出さなくても作れるね」
嬉しいはずなのに、その言葉は胸の中へ静かに沈んだ。
一人でできることが、また一つ増えた。
「一本、試してみる?」
ローレンスが小瓶を揺らす。
「嫌です」
「即答?」
「納品するんでしょう」
「一本くらい余るよ」
「師匠が飲めばいいじゃないですか」
「僕はいいかな」
「見たい夢、ないんです?」
「どうだろうね」
ローレンスは曖昧に笑って、小瓶をほかのものと一緒に並べた。
その横顔を見ながら、フィオナは先ほど自分が思い浮かべた景色を思い出す。
夢の中なら、何を望んでも許される。
ローレンスが自分を弟子ではなく、一人の女性として好きになってくれる夢だって、きっと見られるのだろう。
けれど、そんなものはいらない。
夢の中で叶ってしまったら、朝が来るのが嫌になる。
フィオナは薄紫色の小瓶から目を逸らした。
見たい夢ほど、見ない方がいいこともある。
少なくとも今のフィオナには、その方がよかった。
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