episode5:師匠の機嫌
家へ戻る頃には、空が薄い茜色に染まっていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり、フィオナ。遅かったね」
居間の長椅子で本を読んでいたローレンスが顔を上げる。いつもと変わらない穏やかな笑顔だった。
「そうですか?」
「そうだよ。僕はずっと待ってたから」
「夕食を?」
「フィオナを」
さらりと言われて、フィオナは上着を脱ぐ手を止めた。
「……そういうこと、軽々しく言わないでください」
「本当なのに」
「はいはい」
いつもの言葉だ。いちいち相手にしていたら身がもたない。
買ってきたものを机へ置いていると、背後で本の閉じる音がした。
「楽しかった?」
「何がです?」
「王都」
フィオナは振り返った。
「私、今日王都に行くって言いましたっけ」
「言ってなかった?」
「言ってません」
「じゃあ勘かな」
ローレンスは笑っている。
その顔をしばらく見つめたものの、何か隠しているときも、何も隠していないときも、この人は大体こんな顔をしている。
「……まあ、いいですけど」
「楽しかった?」
「楽しかったというか、友達に相談を」
「テオ?」
今度こそ、フィオナは黙った。
ローレンスも黙った。
夕暮れの光が差し込む居間で、妙な沈黙だけが二人の間に落ちる。
「師匠」
「うん?」
「どうしてテオだって知ってるんです?」
「なんとなく?」
「なんとなくで人の交友関係を当てないでください」
「昔から知ってる仲だろう?」
「そうですけど……」
納得はできない。
けれど問い詰めたところで、この人が素直に答えるとも思えなかった。
フィオナが荷物を片づけ始めると、ローレンスは何気ない調子で続けた。
「テオは元気だった?」
「元気でしたよ。仕事は忙しそうでしたけど」
「二人でお茶してたみたいだね」
また、手が止まった。
「……師匠」
「なに?」
「私、そこまで言いました?」
ほんのわずかに間があった。
「相談したって言ったから」
「相談したら必ずお茶するんですか?」
「フィオナならするかなって」
「どういう意味です?」
「甘いもの好きでしょう?」
にこにこと笑っている。理屈になっているような、なっていないような。
フィオナは眉を寄せたが、ローレンスはもう別のことを考えているようだった。
「テオって、まだ独身だったよね」
「知りませんよ」
「恋人は?」
「それも知りません」
「聞かなかったの?」
「どうして聞くんですか」
ローレンスは頬杖をついたまま、少しだけ目を細めた。
「昨日、フィオナがお嫁に行くかもしれないって言ったから」
ようやく腑に落ちた。
「あれ、まだ気にしてたんですか?」
「気にしてないよ」
「気にしてる人の質問ですよ、それ」
「そうかな」
「そうです」
呆れてため息をつくと、ローレンスは楽しそうに笑った。けれど、どこかいつもと違う。笑い方ではなく、その奥にあるものが。
「安心してください。テオじゃありません」
「そうなの?」
「そうです。昔からの友達です」
「そっか」
たったそれだけ。
なのに、先ほどまでわずかに張っていた何かが、ふっと緩んだように見えた。
「……嬉しそうですね」
「僕が?」
「はい」
「気のせいじゃない?」
また笑う。
フィオナはじっとその顔を見た。
整った顔立ちも、穏やかな目元も、昔から何ひとつ変わらない。七歳の頃からずっと、自分を見守ってきた顔だ。
だから、きっとそうなのだろう。
昨日、嫁に行くかもしれないなんて言ったから、急に心配になっただけ。娘のように育てた弟子が、知らないうちに誰かのものになってしまうのが寂しいだけ。
「師匠」
「なに?」
「私が誰かと結婚したら、寂しいですか?」
聞いてから、少しだけ後悔した。
ローレンスは笑わなかった。
ほんの一瞬だった。それでも、フィオナには妙に長く感じられた。
「寂しいよ」
やがて返ってきた声は、いつもより静かだった。
「だから、どこにもやりたくない」
胸の奥が、ひとつ大きく鳴った。
けれど次の瞬間には、ローレンスはいつもの笑顔に戻っている。
「ずっと僕のそばにいればいいのに」
「……また、そういうこと言う」
「嫌?」
「嫌じゃないから困るんです」
思わず本音がこぼれて、フィオナは目を逸らした。
「夕食、作ってきます」
「フィオナ」
「なんです?」
「好きだよ」
振り返らなかった。
「……知ってます」
台所へ逃げ込んでから、フィオナは小さく息を吐いた。
あの人の「好き」に深い意味なんてない。それは十六年も一緒にいる自分が、一番よく知っている。
それなのに。
今日の「どこにもやりたくない」だけは、いつもの軽口として聞き流すには、少しだけ声が優しすぎた。




