episode3:未来の庭
ローレンスの家には、二つの庭がある。
居間の大きな窓から見える中庭には季節の花が咲き、家の裏手には小さな家庭菜園と薬草畑、その奥には古いガラス張りの温室がある。中庭が眺めるための庭なら、裏庭は暮らすための庭だ。
春を迎えた今日は、二人でその裏庭を整えていた。
「師匠、そこ踏まないで!」
「え?」
「足元!」
ローレンスが慌てて足を引く。靴のすぐ横には、昨日ようやく土から顔を出したばかりの小さな芽があった。
「危なかった」
「危なかった、じゃありません。私が言わなかったら踏んでました」
「でも言ってくれた」
「そういう問題じゃありません」
世界でも指折りの大魔法使いが、足元の芽には気づかない。魔力の流れなら離れた場所からでも感じ取れるくせに、どうして自分の靴の先は見えないのだろう。
「やっぱり僕、庭仕事には向いてないなあ」
「向いてないんじゃなくて、やる気がないだけです」
「フィオナが得意だから任せてるんだよ」
「私だって最初から得意だったわけじゃありません」
土をならしながら、ふと昔のことを思い出す。
孤児院にいた頃も、春になると皆で小さな畑に野菜を植えた。何を植えるかは大人が決めて、子どもたちは言われたとおりに苗を植えるだけだった。
この家へ来て初めての春、ローレンスに何を植えたいかと聞かれたときも、「なんでもいいです」と答えた。
「なんでも、が一番困るんだけどなあ」
あの頃は、その言葉の意味が分からなかった。自分が何を好きかなんて、考える必要もなかったから。
「フィオナ?」
「はい?」
「ぼんやりしてる」
「昔のことを思い出してました」
「僕、何かした?」
「しましたけど、覚えてないならいいです」
「気になるなあ」
「十六年前のことですよ」
「じゃあ覚えてないね」
「即答しないでください」
今なら、トマトを植えたいと言える。去年よりじゃがいもを増やしたいとか、バジルは温室のこちら側がいいとか、ローレンスはそこに立つなとか、頼まれてもいないことまでいくらでも言える。
十六年というのは、人をずいぶん図々しくするらしい。
「今年もトマトは六株でいい?」
「多いです。去年、最後の方は毎日トマトでしたよ」
「僕は好きだったけど」
「師匠は食べるだけでしょう」
「フィオナが作るトマト料理、好きだよ」
「はいはい」
「だから六株」
「それとこれとは別です」
結局、五株にした。
じゃがいもは去年より少し多め。葉物は時期をずらして植える。夏になったらバジルも増やしたい。
そんな話をしているうちに、気づけば今年の畑が出来上がっていく。
「来年は何植えようか」
苗を植えながら、ローレンスが何気なく言った。
フィオナの手が止まった。
「……もう来年の話ですか?」
「だって今年は決まったでしょう」
「気が早いですよ」
「じゃあトマト八株」
「増やさないでください」
「六株?」
「今年五株にした意味あります?」
ローレンスが笑う。
いつもの会話だった。
けれど、来年、という言葉だけが妙に耳に残った。
来年も自分はここにいて、ローレンスと畑を作るのだろうか。
そう考えた瞬間、あまりにも簡単にその景色を想像できてしまった。
春になれば土を耕して、夏にはトマトを収穫する。秋には温室を整え、冬になれば居間の暖炉の前で次の春を待つ。
その隣には、当然のようにローレンスがいる。
十六年、そうやって暮らしてきた。
何もしなければ、きっと来年も同じなのだろう。
「フィオナ?」
「なんです?」
「今度はトマト見ながらぼんやりしてる」
「師匠のせいです」
「僕、何した?」
「来年の話なんてするからです」
「嫌だった?」
少しだけ声が変わった気がして、フィオナは顔を上げた。
「嫌じゃありませんよ」
「じゃあよかった」
ローレンスはそれだけで満足したらしく、また土へ視線を戻した。
嫌ではない。
むしろ、それが困るのだ。
◇
畑を終えると、今度は温室へ入った。
何度も修理された古いガラス越しに春の日差しが入り、棚に並んだ鉢を柔らかく照らしている。ローズマリーの青い香りと、湿った土の匂い。冬を越した薬草の新芽も伸び始めていた。
「師匠、水やりお願いします」
「フィオナがやった方が早いよ」
「たまにはやってください」
「僕が枯らしたら?」
「怒ります」
「怖いなあ」
言いながらも、ローレンスは素直に水差しを受け取った。
「どれくらい?」
「ローズマリーは土が乾いてから。バジルは乾かしすぎないように」
「覚えること多くない?」
「二つです」
「もう多い」
「大魔法使いでしょう」
「魔法と植物は別だよ」
危なっかしい手つきを見ながら、フィオナはため息をついた。
「私がいなくなったら、全部枯らしそうですね」
何気なく口にした言葉だった。
ローレンスの手が止まる。
「いなくなるの?」
「たとえばの話です」
「たとえば?」
「私だって、そのうちお嫁に行くかもしれないでしょう」
冗談めかして言うと、ローレンスが一度だけ瞬きをした。
「それは困るなあ」
「何がです?」
「フィオナがお嫁に行ったら、僕が困る」
「だから今のうちに覚えてくださいって話です」
「じゃあ、お嫁に行かなければいいんじゃない?」
「なんでそうなるんですか」
ローレンスは水差しを置くと、さも名案を思いついたように笑った。
「ずっとここにいればいいよ」
「よくありません」
「僕は嬉しいけどなあ」
「師匠が嬉しくてもだめです」
「フィオナは嬉しくない?」
返事が、一瞬遅れた。
「……そういう問題じゃありません」
「そう?」
「そうです」
かわいい、好きだ、大事だ。ずっとここにいればいい。
昔から惜しげもなく口にする人だから、いちいち真に受けていたら身がもたない。
「ほら、水やり続けてください」
「はーい」
ローレンスがまた水差しを傾ける。
その隣で、フィオナは伸びすぎたローズマリーの枝を切った。
ずっとここにいればいい。
それができたら、どれほど楽だろう。
好きな人のそばで、今までと同じように暮らしていく。朝になれば同じ机で食事をして、庭を整え、夜になれば同じ家へ帰る。
けれど、その人がいつか別の誰かを好きになったら。
その人の隣に、自分ではない誰かが立つようになったら。
弟子としてこの家に残ったまま、それを見ていられる自信はなかった。
だからいつかは、ここを出なければならない。
そう思っていたはずなのに、具体的に考えたことは一度もなかった。
昨日までは。
研究院から届いた一通の手紙が、鞄の中に入っている。
試験を受けるかどうかも、まだ決めていない。
ただ、その手紙を受け取って初めて、フィオナは自分にもこの家とは違う未来があるのだと知った。
「フィオナ」
「なんです?」
「来年もバジル植えようね」
あまりにも当然のように言われて、胸が痛んだ。
「……気が早いですって」
「予約」
「何の予約ですか」
「来年のフィオナ」
「勝手に予約しないでください」
笑って返すと、ローレンスも笑った。
春の光が古いガラスを通り、二人の間へ柔らかく落ちている。
来年もここにいたい。
そんな未来を簡単に思い描けてしまうからこそ、フィオナは初めて、その先にある別の道を意識した。
この家はもう、とっくに帰る場所になっている。
だからきっと、出ていくと決めるのは、どこかへ行くことよりずっと難しい。




