episode2:秘密のお使い
王立魔法研究院を訪れるのは、これが初めてではない。
資料を届けてほしい。借りた本を返してほしい。ついでにこれも聞いてきて。
ローレンスのお使いで、フィオナは昔から何度もこの白い石造りの建物を訪れていた。
「フィオナさん。お待ちしていました」
「ハインツさん、お久しぶりです」
案内された部屋で待っていたのは、古代術式研究部門の主任、アルベルト・ハインツだった。四十代も半ばを過ぎた頃だろうか。フィオナがまだ十代だった頃から顔を合わせている研究者で、ローレンスとも長い付き合いがある。
「わざわざ来てもらってすみません」
「いえ。ちょうど街へ出る予定もありましたから」
「クロウリー先生には?」
「買い物に行くとだけ」
「なるほど」
ハインツはそれ以上尋ねず、手元の書類をフィオナの前へ差し出した。
「では今日は、クロウリー先生のお弟子さんとしてではなく、フィオナ・ベルティエさんご自身にお話をさせてください」
その言葉に、フィオナはわずかに姿勢を正した。
「先日お送りした、採用試験のご案内についてです」
机の上に置かれたのは、見覚えのある書類だった。
王立魔法研究院、採用試験の案内。
「今回の採用試験は公募ではありません。各部門から候補者を挙げ、その方にだけ個別にご案内しています」
「どうして私に?」
「あなたの研究を拝見したからですよ」
迷いのない返事だった。
「もちろん、クロウリー先生のもとで長く学んでいることも評価の一つです。ただ、それだけで採用試験にお呼びすることはありません」
「……本当ですか?」
「そこを疑いますか」
「だって、師匠の名前って便利なんですよ」
「本人が聞いたら泣きますよ」
「泣きませんよ、あの人は」
「では拗ねますね」
「それはあるかもしれません」
思わず笑った。
けれど、胸の奥では別の感情がじわじわと広がっていた。
ローレンス・クロウリーの弟子。
その肩書きには、これまで何度も助けられてきた。誇らしくもある。
それでも、いつかその名前がなくても自分を見てもらいたいと思っていた。
自分の研究を見て、自分に声をかけてもらえた。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
「試験は一か月後を予定しています。受験される場合は、七日以内にお返事を」
「七日……」
「急かすようで申し訳ありません」
「いえ」
フィオナは書類へ目を落とした。
一か月後。
受けるかどうかを決めるまで、七日。
もし受けて、合格したなら。
ここで働くことになる。
ローレンスの弟子としてではなく、一人の魔法使いとして。
王都で部屋を借りて、一人で暮らす。
毎朝同じテーブルで朝食を食べることも、夕食を忘れた師匠に小言を言うこともなくなる。
そしてきっと、このどうしようもない恋からも少しずつ離れていける。
「今日はお返事いただかなくて構いません。よく考えてください」
「……はい」
フィオナは書類を鞄へしまった。
それから少し迷って、ハインツを見る。
「あの、ハインツさん」
「はい?」
「このことなんですけど……師匠には、まだ黙っていてもらえますか」
ハインツがわずかに眉を上げた。
「クロウリー先生に?」
「はい。自分でちゃんと決めてから話したくて」
「なるほど」
当然、理由を聞かれると思った。
けれどハインツはそれ以上踏み込まず、ただ頷いた。
「分かりました。採用に関することは、もともと外部へ話すものではありませんから」
「ありがとうございます」
「ご自分で話したくなったときに、話せばいいでしょう」
「……そうします」
いつ話すことになるのかは、まだ分からなかった。
◇
「ああ、そうだ。フィオナさん」
帰ろうとしたところで、ハインツに呼び止められた。
「これ、クロウリー先生にお願いできますか?」
「師匠に?」
一通の封筒を差し出される。
「先日、魔法便で送ったんですが、届いていないようでして」
「あー……」
心当たりしかない。
「結界ですね」
「おそらく。こちらから送るのは初めてだったので、うまく通らなかったようです」
ローレンスの家には、彼自身が張った結界が幾重にも重なっている。害意のある人間や魔法はもちろん、初めてやり取りする相手からの魔法便まで、時折勝手に弾いてしまう。
そのくせ庭の猫は好き勝手に出入りしているのだから、よく分からない結界である。
「すみません。師匠には言っておきます」
「助かります」
封筒を受け取って、フィオナは苦笑した。
「結局、今日もお使いですね」
「クロウリー先生のお弟子さんですから」
「そろそろお使いくらい自分で行ってほしいんですけどね」
「それは難しいでしょうねえ」
「即答しないでください」
ハインツの笑い声に見送られ、フィオナは研究院をあとにした。
◇
帰り道、予定どおり買い物を済ませた。
夕食用の肉と明日のパン。それから菓子店の前で少し迷って、結局、小さな包みも一つ買った。
頼まれたからではない。
気が向いただけだ。
「ただいま」
「おかえり」
家へ帰ると、居間からいつもの声がした。
フィオナは買ってきたものをキッチンへ置き、鞄から一通の封筒だけを取り出す。
「師匠、これ」
「なに?」
「研究院からです」
本を読んでいたローレンスが顔を上げた。
「研究院?」
「手紙です」
「フィオナ、研究院に行ったの?」
「買い物のついでに寄ってきましたよ」
「僕、お使い頼んでたっけ?」
「頼まれてません」
「じゃあ、どうして?」
「師匠が借りっぱなしにしてる本のことで、代わりに謝ってきたんです」
「あれはまだ読んでる途中」
「半年も?」
「長い本だから」
「それ、私じゃなくて研究院の人に言ってください」
「フィオナが謝ってくれたなら大丈夫じゃない?」
「大丈夫じゃありません。早く返してください」
「はーい」
まったく反省していない返事に、フィオナはため息をついて封筒を押しつけた。
「それとこれ。直接送ろうとしたらしいんですけど、結界に弾かれたみたいですよ」
「ああ」
「ああ、じゃないです。先方が困ってました」
「最初は通らないことがあるんだよね」
「なんとかしてください」
「フィオナが持ってきてくれるなら、このままでもいいかな」
「よくありません」
「でも持ってきてくれた」
「今日だけです」
「ありがとう。好きだよ」
「安いお礼ですね」
「僕としてはかなり高いつもりなんだけどなあ」
いつもの調子で笑うローレンスから目を逸らし、フィオナはキッチンへ向かった。
「あ、師匠」
「うん?」
「これも」
菓子店の包みを差し出す。
途端にローレンスの顔が明るくなった。
「買ってきてくれたの?」
「気が向いたので」
「やっぱりフィオナは僕のこと好きだね」
「師匠として」
「そこ、今も必要?」
「必要です」
笑いながら、フィオナは夕食の支度を始めた。
鞄の中には、もう一通。
ローレンスには見せていない封筒が入っている。
返事をするまで、あと七日。
試験までは、一か月。
受けるかどうかは、まだ決めていない。
けれど、受けることを選べば。
十六年間暮らしたこの家を出る未来が、ほんの少しだけ近づく。
「フィオナ、これ食べていい?」
「夕食のあとです!」
「一個だけ」
「だめです」
「半分」
「交渉しないでください」
いつもの声が、いつもの家に響く。
フィオナは鍋に火をつけた。
自分で答えを出すまでは、師匠には秘密。
そのくらいのわがままは、きっと許されるだろう。




