episode1:いつもの「好き」
「フィオナ、好きだよ」
「はいはい」
朝一番に聞く言葉としては、もう少しありがたみがあってもいいはずなのに、十六年も聞かされ続ければ、どんな言葉だって日常になる。
フィオナは焼いたパンと卵を二人分の皿に分け、向かいに座る男を見た。ローレンスは食事をする席にまで本を持ち込み、片手でページをめくっている。
「師匠、本を閉じてください」
「読んでないよ」
「では、それは?」
「本だね」
「閉じてください」
「はい」
素直に本を閉じるあたり、反省しているのかいないのか分からない。
灰がかった黒髪は無造作に後ろで束ねられ、穏やかな目元にはいつも薄い笑みが浮かんでいる。見た目だけなら四十代の初めほどだろうか。実際の年齢を尋ねても、三十だったり百だったり、その日の気分で答えが変わるので、フィオナはとっくに聞くのをやめた。
黙っていれば、たいそう格好いい。
「なに?」
「寝癖を探してました」
「どうして?」
「腹が立つので」
「朝から理不尽だなあ」
笑った顔まで格好いいのだから、さらに腹が立つ。
大魔法使いローレンス・クロウリー。魔法使いなら名前くらいは知っているほどの人物で、王宮から何度声がかかってもろくに応じず、古い時代の魔法については研究院の学者たちまで彼を頼る。
そんな男が今は、半熟の卵を眺めながら「今日は綺麗にできてるね」などと言っている。
「昨日の夕食は?」
「食べたよ」
「何を?」
「……お茶は飲んだ」
「食べ物を聞いてます」
「焼き菓子もあったね」
嫌な予感が当たった。
「それはおやつです」
「三つ食べたよ」
「数の問題じゃありません」
「でもお腹いっぱいになった」
「もっと悪いです」
フィオナが眉を寄せると、ローレンスは悪びれるでもなく笑った。
「やっぱりフィオナがいないと生きていけないなあ」
「私が来る前はどうやって生きてたんです?」
「昔すぎて忘れた」
「便利ですね、その言葉」
「フィオナがずっといてくれれば問題ないよ」
卵を切ろうとしていた手が、ほんの一瞬だけ止まった。
こういうところが嫌いだ。
嫌いになれたらよかった、という意味で。
「……師匠はそうやって、すぐ適当なことを言いますよね」
「適当じゃないよ」
「昨日は庭に来てた猫にも、ずっとうちにいていいって言ってました」
「あの子、かわいいから」
「ほら」
「フィオナの方がかわいいよ」
「比較しなくていいです」
「世界で一番かわいい」
「規模を大きくしないでください」
「じゃあ僕の世界で一番」
「もっと悪くなりました」
昔からこうだ。
好きだ、かわいい、大事だと、ローレンスは惜しげもなく口にする。七歳だった頃は、その一つ一つが嬉しかった。ここにいていいのだと、何度も確かめるように受け取っていた。
今は、少し困る。
「師匠」
「なに?」
「私のこと好きですか」
「好きだよ」
「あまりにも早い」
「考える必要ある?」
「そういうところです」
「フィオナは?」
「好きですよ」
ローレンスの目元が嬉しそうに緩む。それを見ると胸が騒ぐ自分が悔しくて、フィオナはわざと一拍置いた。
「師匠として」
「そこ、毎回つける必要ある?」
「大事なところなので」
「僕はつけてないのに」
「師匠は昔からそうでしょう」
「……そうだけど」
熱い紅茶を一口飲んだ。
師匠として好きだった頃は、もっと簡単だった。
そばにいられるだけでよかったし、頭を撫でてもらえば嬉しかった。けれど成長するにつれて、それだけでは足りなくなった。はっきりと自覚したのは十八の頃だから、もう五年になる。
ローレンスの言葉は何も変わらない。
変わってしまったのは、フィオナの方だ。
家をくれた。家族になってくれた。魔法を教え、育ててくれた。そのうえ一人の女性として愛してほしいなんて、いくらなんでも欲張りすぎる。
だから、この気持ちは自分の中だけに置いておけばいい。
そう思って五年が過ぎた。
「フィオナ?」
「はい?」
「またぼんやりしてる」
「師匠のせいです」
「僕、何かした?」
「存在してます」
「そこから?」
「そこからです」
ローレンスが可笑しそうに笑う。
こうして笑っている顔を見ていると、五年前から何も変わっていないような気がする。きっと明日の朝も、その次の日も、同じ机を挟んで同じような話をするのだろう。
それは幸福で、同時に少しだけ苦しかった。
「今日は街に出るの?」
「はい。買い物してきます」
「何か甘いもの買ってきて」
「昨日も焼き菓子食べたんでしょう?」
「昨日食べたから、今日食べちゃいけないの?」
「夕食代わりにしなければいいです」
「じゃあお願い」
「気が向いたら」
「フィオナが選んでくれるものなら、なんでも好きだよ」
「はいはい」
また始まった、と聞き流して席を立つ。
けれど今日は、いつもの買い物だけではなかった。
自室の机、その引き出しの奥に一通の封筒がしまってある。
差出人は、王立魔法研究院。
数日前に届いたその手紙には、一般には公募されていない採用試験について話をしたい、とだけ記されていた。受験するかどうかを決めるのは、詳しい説明を聞いてからで構わないという。
なぜ自分に届いたのかも、どんな試験なのかも、まだ知らない。
ローレンスにも話していなかった。
隠すつもりがあるわけではない。ただ、自分宛てに届いたものだから、まずは自分で聞いてみたかった。
それだけだ。
「フィオナ」
食器を持ったまま振り返る。
「なに?」
「好きだよ」
またそれだ。
「はいはい。知ってます」
いつもの言葉に、いつもの返事。
けれどその日、フィオナの鞄の中には、師匠の知らない一通の手紙が入っていた。




