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episode13:終わらない春


 温室の扉が開いても、ヴィクトルはすぐには中へ入らせなかった。


 テオが鞄から銀色の円盤を取り出し、入口の前へ置く。表面には細かな文字が同心円状に刻まれていて、魔力を流すと淡い白光を帯びながらゆっくり回り始めた。


「魔力濃度、少し高いです。毒性反応なし。精神干渉も検出されません」


「空気は?」


「問題ありません」


「内部の術式に変化は」


「扉を開けた直後に一度だけ上昇しましたが、今は安定しています」


 テオが一つずつ確認し、ヴィクトルが頷く。その隣ではローレンスが退屈そうに扉へ寄りかかっていた。


「ほら、大丈夫だったでしょう?」


「結果が分かる前に入ろうとした人間が言うな」


「僕なら平気だよ」


「君が平気かどうかの話ではない」


「ヴィクトルは心配性だなあ」


「君が無頓着すぎるだけだ」


 たぶんこの二人は、昔からこうなのだろう。


 フィオナが笑いを堪えていると、ようやくヴィクトルから許可が出た。


「入るぞ。ただし、内部のものには勝手に触れるな」


「師匠、聞きました?」


「なんで僕だけ?」


「一番触りそうなので」


「フィオナまで……」


 ローレンスの嘆きを置いて、ヴィクトルが先に扉をくぐる。テオが続き、フィオナも一歩を踏み出したところで、思わず足を止めた。


 夜だった。


 外ではまだ午前の陽が降り注いでいるはずなのに、扉一枚を隔てたこちら側には深い藍色の空が広がり、無数の星が瞬いている。ガラス張りだったはずの天井はどこにも見えず、見上げても夜空がどこまでも続いていた。


「……すごい」


 声が自然と小さくなる。


 足元には背の低い草が生い茂り、その間を青白い光が蛍のように漂っている。左右には花壇が続き、見たことのない花も、よく知る薬草も、季節など忘れたように同じ場所で葉を広げていた。


 風まである。


 どこから吹いているのか分からないほど微かな風が頬を撫で、湿った土と若葉の匂いを運んでいく。


「外より暖かいな」


 テオが呟いた。


「春の夜くらいでしょうか」


 フィオナが答えながら、足元の草へ目を向ける。露をまとった葉が星明かりを受けて細かく輝いていた。


 百年以上閉ざされていた場所には見えない。


 むしろ今、この瞬間も誰かが丁寧に手入れをしている庭のようだった。


「幻影ではないんですよね?」


「ああ」


 ヴィクトルが天井――だったはずの夜空を見上げる。


「視覚だけを欺いているなら説明は簡単だった。だが、ここでは温度も湿度も外部と異なる。風まで発生している」


「星は?」


「分からん」


「触れないんですか?」


「フィオナ、星は普通触れないぞ」


 横からテオに言われて、思わず睨む。


「そういう意味じゃないです」


「分かってる」


「テオ」


「悪かったって」


 そのやり取りの向こうで、ローレンスだけが黙っていた。


 珍しい。


 彼は少し離れた場所に立ち、空ではなく花壇を見ている。


「師匠?」


「フィオナ、これ分かる?」


 呼ばれて近づくと、ローレンスが指した先に小さな白い花が咲いていた。


「触っていいんですか?」


「見るだけ」


 後ろからヴィクトルの視線を感じる。律儀に約束を守っているらしい。


 フィオナはしゃがみ込み、花を観察した。


「……月白草?」


「たぶんね」


「でも、おかしくないですか?」


 魔法薬にも使われる植物だから、フィオナも知っている。月白草は冬の終わりから春先に咲き、暖かくなれば花を落とす。今の王都周辺では、もうほとんど花期を終えているはずだった。


 その隣へ目を向けて、さらに眉を寄せる。


「こっちはラベンダー……?」


 少し先には、まだ小さいながら蕾をつけた株がある。


「時期が合わない」


「うん」


 ローレンスが笑った。


 フィオナは立ち上がり、周囲を見渡す。


 春先に咲く花。初夏へ向かう植物。まだ芽を出したばかりのもの。そのすべてが、同じ庭の中で不自然なほど健やかに育っている。


「季節が混ざってる?」


「近い」


「違うんですか?」


「たぶん、混ざってるんじゃない」


 ローレンスが足元へ視線を落とした。


「それぞれに必要な季節が与えられてる」


 フィオナは意味を理解するまで少し時間がかかった。


「植物ごとに?」


「うん」


 そこでヴィクトルが近づいてくる。


「根拠は?」


「温度」


「ここはほぼ一定だ」


「人間にはね」


 ローレンスが花壇の上へ手を翳す。触れてはいない。ただ、指先にごく薄い魔力を集めると、周囲の空気がそれに応えるように揺れた。


「ここ、少し冷たいでしょう?」


 フィオナも掌を近づける。


「……本当だ」


 月白草の周囲だけ、わずかに空気が冷えている。


 隣のラベンダーへ移れば、今度は少し暖かい。


「一つの温室の中に、小さな季節がいくつもある……?」


「たぶんそういうこと」


 テオがすぐにしゃがみ込み、測定器を花壇へ近づけた。


「先生。局所的に魔力の性質が違います」


「範囲を測れ」


「はい」


 ヴィクトルも資料を開き、何かを書き込み始める。


 フィオナはもう一度、夜空を見上げた。


「じゃあ、あの星も植物のため?」


「いいところに気づいたね」


 ローレンスの声が弾む。


「夜にしか咲かない花もある。月光を必要とするものもね」


「でも、あれは月じゃなくて星でしょう?」


「だから調べるんだよ」


 分からないことを前にしているのに、楽しそうだった。


 フィオナはそんな横顔を見て、少しだけ笑う。


 家で本を読みながら朝食を取り、夕食を焼き菓子で済ませようとする人と同じには見えない。知らない魔法を前にしたローレンスは、普段よりずっと静かで、それなのにどこか子どものように目を輝かせていた。


「クロウリー」


 ヴィクトルが呼ぶ。


「これを見ろ」


 温室の中央近く、蔦に半ば隠れた石柱の根元に、古い魔法文字が刻まれていた。


 四人で近づく。


 文字は風化していたが、ところどころ淡い金色の光が残っている。


「読めるか?」


「ちょっと待って」


 ローレンスがしゃがみ込んだ。


 指先で文字をなぞるように視線を動かし、しばらく黙り込む。


 その横顔から、いつもの笑みが消えた。


「古いですね」


 フィオナが呟く。


「かなりね。今の魔法文字とは文法そのものが違う」


「どれくらい前です?」


「少なくとも四百……いや、もっとかな」


「記録上、この温室が造られたのは百八十六年前だ」


 ヴィクトルの言葉に、ローレンスが首を振る。


「じゃあ、ここにあった術式を利用して温室を建てたんだと思う」


「元から?」


「たぶん」


 テオが眉を寄せた。


「じゃあ、この場所自体がもっと古い魔法施設だった?」


「可能性はあるね」


 ローレンスは再び文字へ目を落とした。


 フィオナには読めない。


 ところどころ知っている文字に似た形はあるのに、繋げても意味にならなかった。


「何て書いてあるんです?」


「全部はまだ分からない。でも――」


 ローレンスの指が、一つの文字で止まる。


「これは『春』」


 少し離れた場所を指す。


「こっちは『留める』に近いかな」


「春を、留める……?」


 フィオナが呟く。


 ローレンスは答えず、さらに文字を追っていく。


 その間にテオが立ち上がった。


「先生、測れました。月白草の周囲は外気より三・七度低い。ラベンダー側は二・一度高いです。それと湿度も違う」


「やはり局所制御か」


「でも、これを百年以上?」


 フィオナは周囲を見渡した。


 温度だけではない。湿度、光、風、土の状態、それぞれの植物に必要なものを、この巨大な術式が与え続けているのだとしたら。


「そんな魔法、可能なんですか?」


「現代術式では、これだけの規模を百年単位で維持するのは現実的ではない」


 答えたのはヴィクトルだった。


「必要な魔力量が大きすぎる。仮に外部から供給しているなら、その痕跡があるはずだ」


「でも動いてる」


「ああ。だから我々がここにいる」


 そのときだった。


「……違う」


 ローレンスが小さく呟いた。


 三人の視線が集まる。


「何がだ」


「百年じゃない」


 ローレンスは石柱を見たまま、静かに言った。


「この術式、ずっと動いてたわけじゃないよ」


「どういう意味だ?」


「眠ってたんだ」


 指先が、石に刻まれた文字の一つを示す。


「必要なときだけ目を覚まして、季節を作る。役目が終わったらまた眠る。それを何度も繰り返すように組まれてる」


「では、なぜ今になって起動した」


「それはまだ分からない」


 ローレンスが立ち上がる。


「でも、ヴィクトル」


「なんだ」


「これ、壊れかけてる」


 温室の空気が、ほんの少し揺れた。


 それまで穏やかに吹いていた風が止まる。


 フィオナが顔を上げた瞬間、頭上の星が一つ消えた。


「……え?」


 もう一つ。


 さらに一つ。


 星空の一角が、墨を流したように暗くなっていく。


 同時に、花壇のどこかで葉の擦れる音がした。


「先生」


 テオの声が低くなる。


「魔力濃度、下がってます」


「全員、入口へ戻れ」


 ヴィクトルの声から迷いが消えた。


 フィオナも動こうとした、そのとき。


「待って」


 ローレンスが言った。


 いつもの軽さはなかった。


 暗くなっていく夜空を見上げ、それから温室の奥へ視線を向ける。


「たぶん、入口じゃない」


「何?」


「術式の中心が別にある」


 星が、また一つ消える。


 その暗闇のさらに奥で。


 何かが淡く光った。


 青でも白でもない、柔らかな金色。


 花壇の間を縫うように、細い光の筋が温室の奥へ続いている。


「……呼んでる」


 フィオナが呟く。


 なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。


 けれどローレンスは否定しなかった。


「そうかもしれないね」


 百年以上眠っていた温室の奥で、金色の光がもう一度、ゆっくりと瞬いた。


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