episode12:眠りから覚めた温室
旧王立魔法植物園は、王都から馬車で一時間ほど離れた丘陵地にあった。
かつては王家の管理下で薬草や魔法植物の研究が行われていたというが、百年以上前に閉鎖され、今では敷地を囲う石壁にも蔦が絡んでいる。正門に掲げられた紋章は風雨に削られ、門の向こうへ続く石畳の隙間からは春の草が伸びていた。
「師匠」
「うん?」
「もう九時五十八分です」
「間に合ったね」
「ぎりぎりです」
「二分もあるよ」
「二分しかないんです」
昨夜、あれほど八時半に出ると言ったのに、結局家を出たのは九時前だった。原因はもちろんフィオナではない。
「だから昨夜のうちに準備してくださいって言ったでしょう」
「準備するものなんてなかったよ」
「じゃあなんで出る直前に本を探し始めたんです?」
「読みたくなったから」
「今じゃなくていいでしょう」
言い合いながら正門を抜けると、前方に二人の人影が見えた。
一人はテオだった。濃紺の上着の袖を肘まで捲り、肩から研究用の鞄を下げている。その隣に立つ男は、フィオナも何度か研究院で顔を合わせたことがある。
ヴィクトル・アーレンス。
白髪の混じった濃い茶髪をきっちりと撫でつけ、銀縁の眼鏡の奥からこちらを見ている。その手には銀の懐中時計が握られていた。
「九時五十九分だ」
挨拶より先に告げられ、ローレンスが笑う。
「ほら。間に合った」
「集合時刻とは、到着すればいい時刻ではない。仕事を始められる状態で待機している時刻だ」
「ヴィクトル、久しぶり」
「話を逸らすな」
「元気そうだね」
「三か月前にも会った」
「もう三か月も経ったんだ」
「君と話していると疲れる」
手紙を見ただけでローレンスが嫌がっていた理由が、少し分かった気がした。二人の相性が悪いというより、たぶん長く付き合いすぎているのだ。
「お久しぶりです、アーレンス先生」
フィオナが挨拶すると、ヴィクトルの険しかった目元がわずかに和らいだ。
「久しぶりだな、フィオナ。君まで呼びつけるつもりはなかったが」
「私が来たかったんです」
「そうか。それならいい。クロウリーの世話はしなくていいぞ、今日は仕事だからな」
「ヴィクトル?」
「はい」
「返事しなくていいよ、フィオナ」
横から口を挟むローレンスを無視していると、テオが笑いを堪えながら近づいてきた。
「朝から相変わらずだな」
「テオも大変そうですね」
「昨日から先生がぴりぴりしてる」
「リード」
「聞こえてました?」
「聞こえるように言っただろう」
テオが肩を竦める。その様子はいつも会うときと変わらないのに、手にした鞄からは測定用らしい魔法具がいくつも覗いていた。
「それで、温室は?」
ローレンスが尋ねると、ヴィクトルの顔から呆れが消えた。
「こちらだ」
敷地の奥へ進むにつれて、古い建物がいくつも姿を現した。崩れかけた研究棟や、屋根を失った倉庫、そのさらに向こうに大小いくつもの温室が並んでいる。ほとんどはガラスが割れ、骨組みだけになっていたが、一番奥にある温室だけは違った。
フィオナは足を止めた。
「……あれですか」
「ああ」
他の温室よりも一回り大きく、半円形の屋根を覆うガラスには一枚の割れもない。それどころか百年以上放置されていたとは思えないほど澄み切っていて、春の日差しを受けながら淡く輝いている。
そして、その向こう側だけが暗かった。
空は晴れている。
まだ午前十時を少し過ぎただけだというのに、ガラス越しに見える温室の中には夜があった。
深い藍色の空に、無数の星が浮かんでいる。
「……本当に、星空」
思わず呟いたフィオナの隣で、ローレンスも温室を見上げていた。
昨日までの軽い笑みは、いつの間にか消えている。
「星の位置は記録したか?」
「当然だ」
ヴィクトルが答える。
「昨夜と今朝、そして一時間前にも確認した。動いてはいるが、実際の空とは一致しない。既知の星図とも照合したが該当なし。幻影術式の反応も検出されていない」
「へえ」
「その『へえ』をやめろ」
「なんで?」
「君が面白がっているときは、大抵こちらの仕事が増える」
「まだ何もしてないよ」
「だから警戒している」
ローレンスは気にする様子もなく、温室へ近づいていった。
フィオナたちもその後を追う。
入口には両開きの鉄扉があり、その表面を蔦のような細い紋様が覆っていた。装飾に見えたそれは、よく見ると無数の魔法文字が繋がってできている。
フィオナは思わず身を屈めた。
「これ……術式?」
「正確には、施設全体を覆う術式の末端だ」
答えたのはテオだった。
「昨日から先生と追ってるけど、どこが起点なのかまだ分からない。たぶん地下にも続いてる」
「そんなに大きいの?」
「温室そのものが一つの魔法具みたいなもんだな」
昨夜、自室で解いていた紙一枚の魔法陣とは規模が違う。
線の一本一本が扉から壁へ、壁から地面へと伸び、建物そのものを巡っている。これほど巨大な術式を、フィオナは初めて見た。
「フィオナ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
いつの間にか、ローレンスがこちらを見ていた。
「何に見える?」
「え?」
「この術式」
答えを求められるとは思っていなかった。
フィオナはもう一度、扉へ目を向ける。
封鎖された温室。開かない入口。建物を覆う巨大な術式。
普通に考えれば、封印だ。
けれど、それなら。
「……変です」
「何が?」
「封じるための術式なら、こんなに中へ魔力を流す必要ないですよね」
扉の文字へ触れないよう、指先だけで線を追う。
「外から入れないようにするだけなら、入口と外周を閉じればいい。でもこれは……中に向かって魔力を送ってる」
口にしながら、自分の中でも形になっていく。
「何かを閉じ込めてるんじゃなくて、何かを維持してる……?」
しばらく沈黙があった。
不安になってローレンスを見ると、彼は笑っていた。
「うん。僕もそう思う」
胸の奥が、ほんの少し熱くなる。
けれど喜ぶより先に、低い声が割り込んだ。
「待て」
ヴィクトルだった。
「クロウリー。君はいつ気づいた」
「今」
「嘘をつけ」
「ここに来てからだよ」
「それを先に言わず、なぜフィオナに聞いた」
「だって、自分で考えた方が面白いでしょう?」
「仕事中だぞ」
「だからだよ」
ヴィクトルは何か言いかけ、やめた。
代わりにフィオナへ目を向ける。
「……なるほど」
「何です?」
「いや」
短く答え、その視線がフィオナからローレンスへ移る。
ほんの一瞬だったが、何かを見定めるような目だった。
「相変わらず、君は分かりにくい男だな」
「僕?」
「気にするな」
「気になるんだけど」
「仕事をしろ」
ぴしゃりと言い切られ、ローレンスが肩を竦める。
「それで、開けていいの?」
「そのために呼んだ」
「壊れても怒らない?」
「怒る」
「じゃあやりたくないなあ」
「壊さず開けろ」
「注文が多い」
文句を言いながらも、ローレンスは鉄扉の前へ立った。
右手を上げ、刻まれた文字の一つへ指先を近づける。
触れてはいない。
それなのに、眠っていた紋様の一部が淡く光った。
一つ。
二つ。
光は呼吸するように明滅しながら扉を走り、壁へ、屋根へと広がっていく。
フィオナは息を呑んだ。
魔力を注いでいるようには見えなかった。むしろローレンスは、そこにすでに存在する魔力へ語りかけているようだった。
「師匠……?」
「静かにね」
いつもの柔らかな声だった。
けれど、視線は扉から動かない。
やがてローレンスが小さく呟く。
「やっぱり、鍵じゃない」
「何?」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「これ、入口を閉じる術式じゃないよ。中の環境が崩れないように、外と切り離してる」
「環境?」
「たぶんね」
ローレンスの指先が、ほんの少し動いた。
その瞬間、温室全体を覆っていた光が一斉に強くなる。
地面の下で、何か巨大なものが目を覚ましたような低い振動が響いた。
「クロウリー!」
「大丈夫」
「君の大丈夫ほど信用できない言葉はない!」
「ひどいなあ」
軽い返事とは裏腹に、ローレンスの手元では複雑な魔法文字が次々と浮かび上がっていた。
フィオナには、その半分も読めない。
けれど分かる。
今、ローレンスは術式を壊しているのではない。
百年以上前に組まれた魔法の流れへ、自分の魔力をほんの少しだけ重ね、絡まった糸を一本ずつ解くように道を作っている。
やがて。
かちり、と小さな音がした。
鉄扉が、わずかに開く。
隙間から流れ出した空気は、春のものではなかった。
ひんやりとした夜の匂い。
湿った土と、花の香り。
そして、淡い銀色の光。
「……開いた」
テオが呟く。
ローレンスは扉へ手をかけると、何事もなかったように振り返った。
「入ってみようか」
「待て。安全確認が先だ」
「ヴィクトルは本当に真面目だね」
「君が軽すぎるんだ!」
二人の声を聞きながらも、フィオナの目は扉の向こうへ吸い寄せられていた。
ほんのわずかな隙間から、星が見える。
昼の空の下に建つ古い温室。その扉一枚を隔てた向こう側には、確かに夜があった。
百年以上、誰にも見つけられずに眠っていた夜が。
その中で何が待っているのか、まだ誰も知らない。
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