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第10話:今日は、終わらせなくてよろしいですわ

 白い相談室の窓は、朝から開いていた。

 風が入っている。

 花瓶の白い花が、少しだけ傾いていた。

 メアリー・ホワイトは、それを見ていた。


 直そうと思えば、直せる。

 茎を少し動かし、

 水の量を確かめ、

 花の顔が窓の光へ向くように置けばよい。


 ただ、それだけのことだった。

 けれど、彼女はまだ触れなかった。


 机の上には、昨日の相談記録が開いたままになっている。

 件名。

 続き。

 その二文字だけが、白い頁の上に残っていた。


 続きを書くことはできる。

 ロゼリア・クロウ。

 届いた後の私だけではない。


 カイン。

 見えない仕事は、物語になった夜の翌日も続く。


 エルド。

 祈りになるために怖がっていたわけではない。


 リリア。

 途中は、記録された後も途中のまま続く。


 クラリス。

 誰にも見られなかった夜は、銀の花のためだけにあったわけではない。


 エレナ。

 謝罪が届いたことと、私の時間が終わることは違う。


 レティシア。

 声は、届いた後も一つにはならない。


 どれも分かる。

 今なら、書ける。

 すべてに共通する言葉も見つけられる。

 場面の後にも、人生は続く。


 美しい言葉だった。

 正しい言葉だった。

 たぶん、誰も否定しない。


 けれど。

 それだけではありません。

 その声が、まだ耳の奥に残っていた。

 メアリーは羽ペンを取らなかった。


 扉が叩かれた。


「メアリー様」

 若い修道女が顔を出す。


「午前のご相談です」

「通してください」


 入ってきたのは、少女だった。

 年は十三か十四ほど。

 黒い喪服を着ている。

 袖が少し長く、指先を半分隠していた。


 髪はきちんと結ばれているが、結び目が少し曲がっている。

 誰かに結ってもらったのではなく、自分で結んだ髪だった。

 少女は椅子の前で立ち止まる。


「お名前は」

「セラです」

「では、セラ様」

 メアリーは微笑んだ。


「どうぞ、お掛けください」


 セラは椅子に座った。

 膝の上で、黒い布を握っている。


「明日、母の葬儀があります」

「そうですの」

「はい」

 セラは小さく頷いた。


「神官様が、最後の祈りの言葉を家族から一つ、と」

 喉が詰まったような声だった。


「でも、何を書けばいいのか、分からなくて」

 メアリーは頷いた。


「お母様は、どのような方でしたの」


 その問いに、セラはすぐ答えなかった。

 相談室に、風が入る。

 白い花が、かすかに揺れた。


「働き者でした」

 ようやく、セラは言った。

「縫い物の仕事をしていました。朝から夜まで、ずっと針を持っていました」


「ええ」


「私の服も、全部、母が直してくれました。膝が破れたら、次の日には縫ってありました」


「優しい方でしたのね」

 言ってから、メアリーはセラの指に力が入ったのを見た。


「優しい日もありました」

 セラは言った。

 優しい人でした、ではなかった。


「怖い日もありました」

「すぐ怒る日もありました」

「私が泣くと、もっと泣きたくなるから黙っていなさいと言う日もありました」

「でも、夜中に熱を出したときは、ずっと手を握ってくれました」


 セラは、黒い布を見つめている。


「母は、良い人だったのでしょうか」


 メアリーは、答えられた。

 すぐに。


 人は一つの言葉でできているわけではありません。

 優しさと厳しさは、同じ人の中にあります。

 あなたは、お母様を愛していて、同時に傷ついてもいるのです。

 明日の祈りには、その両方を残せばよいのです。


 言える。

 とても簡単に言える。

 たぶん、セラは泣くだろう。

 少し楽になるだろう。

 葬儀で読める言葉になるだろう。


 メアリーは、いつものように言葉を探した。

 セラの中で絡まっているものを、ほどく。


 母を愛している。

 母を怖がっていた。

 感謝している。

 恨んでいる。

 寂しい。

 ほっとしている。


 それらを一つの祈りへ整える。

 できる。

 メアリーには、できる。


「つまり」


 言いかけた。

 セラが顔を上げる。


 大きな目だった。

 まだ、何も決まっていない目だった。

 その目を見た瞬間、メアリーの喉が止まった。


 つまり。

 その先は、いくつもあった。


 あなたは、お母様を愛していらしたのですわ。

 違う。


 あなたは、お母様を許せずにいるのですわ。

 違う。


 あなたは、優しさと痛みの両方を抱えていらっしゃるのですわ。

 違う。


 違わない。

 けれど。

 それだけではない。


 メアリーは、息を吸った。

 白い相談室の中で、沈黙が落ちる。

 セラは、不安そうにメアリーを見ていた。


「聖女様?」


「言えますわ」

 メアリーは静かに言った。

 セラが瞬きをする。


「あなたの悲しみを、祈りの形にすることはできます」

 窓から入る風が、机の上の紙を少しだけ揺らした。


「怒りも」

「感謝も」

「寂しさも」

「怖かった記憶も」

「手を握ってもらった夜も」

 メアリーは、一つずつ言った。


「きっと、葬儀で読める言葉にできますわ」


 セラは、膝の上の布を握ったままだった。


「では」

「でも」

 メアリーは、初めてその言葉を挟んだ。

「今日は、まだしなくてもよろしいのではありませんか」


 セラは、意味が分からない顔をした。


「祈りに、しなくても?」

「ええ」

「でも、明日、葬儀で」

「明日、どうしても必要なら、明日考えればよろしいですわ」

 メアリーは、少しだけ首を傾げた。

「今日のあなたは、まだお母様を一つの言葉にできないのでしょう」


 セラの唇が震えた。


「できません」

 小さな声だった。

「好きだったのか、嫌いだったのかも、分かりません」


「ええ」

「寂しいのに、少しだけほっとしているんです」

「ええ」

「そんなの、だめですよね」


 メアリーは、すぐには答えなかった。


 だめではありませんわ。

 そう言えば、優しい。


 それは自然なことですわ。

 そう言えば、整う。


 複雑な感情を抱くのは悪いことではありません。

 それも言える。

 どれも正しい。


 けれど、そのどれもが、今のセラを少しだけ先に進ませてしまう気がした。

 まだ立ち止まっている人を、立ち止まっている人として、置いておくこと。

 その形を、メアリーはまだよく知らなかった。


「だめかどうかも」

 メアリーは言った。

「今日、決めなくてよろしいですわ」


 セラは、目を見開いた。


「決めなくて、いいんですか」


「ええ」

 メアリーは微笑んだ。

 いつもの微笑みだったはずなのに、少しだけ形が違った。

「後で、まとまりが悪くなっても知りませんわよ」


 セラは、ぽかんとした。

 それから、少しだけ笑った。

 泣きそうな顔のまま、笑った。


「聖女様、そんなこと言うんですか」

「言いますわ」

「困ります」

「困ってもよろしいですわ」


 メアリーは、机の上の白紙を一枚取った。

 葬儀の祈りを書くための紙だった。

 けれど、彼女はそこに祈りを書かなかった。

 紙を二つに折る。

 セラへ差し出す。


「明日、何か言いたくなったら、ここに書けばよろしいですわ」


 セラは、その白紙を受け取った。


「何も書けなかったら?」

「そのまま持って行けばよろしいですわ」

「白紙のまま?」

「ええ」

 メアリーは頷いた。

「言葉にならないものを、言葉にならないまま持っていくことも、ありますもの」


 セラは、白紙を見つめた。


「神官様に怒られませんか」

「怒られたら」

 メアリーは、ほんの少しだけ考えた。

「わたくしのせいにしてよろしいですわ」


 セラは、また少し笑った。

 今度は、先ほどより長かった。

 それから、紙を胸に抱いた。


「ありがとうございます」

 迷いの残った声だった。

 けれど、消えそうではなかった。


「聖女様」

 セラは立ち上がった。

 扉へ向かいかけて、途中で振り返る。


「明日、何も言えなくても」

「ええ」

「母は、怒るでしょうか」


 メアリーは、セラの母を知らない。

 優しかった日も、怖かった日も知らない。

 縫い直された膝も、握られた手も、黙っていなさいと言われた夜も、見ていない。

 だから、分からなかった。

 分からないことを、分からないままにするのは、難しかった。


「分かりませんわ」

 メアリーは言った。

 セラは驚いた顔をした。

 メアリー自身も、少しだけ驚いた。


「でも」

 メアリーは続けた。

「あなたが明日、何も言えなかったとしても」

 言葉を選ぶ。

 締めないように。

 祈りにしないように。

 母の形を決めないように。

「それで、今日までのあなたが消えるわけではありませんわ」


 セラは、白紙を抱えたまま、深く頭を下げた。

 今度は、ありがとうございますとは言わなかった。

 ただ、頭を下げた。

 その背中が、扉の向こうへ消える。


 相談室に、風が戻った。

 メアリーは、しばらく扉を見ていた。

 終わらせなかった。

 そう思った。


 相談は終わった。

 少女は帰った。

 紙は渡した。

 でも、祈りにはしなかった。

 言葉を作らなかったわけではない。

 作れなかったわけでもない。

 作らなかった。

 その違いが、まだうまく分からない。

 けれど、違うことだけは分かった。


 若い修道女が、控えめに顔を出した。

「メアリー様、相談記録は」


「ええ」

 メアリーは机に戻った。

 記録用紙を開く。


 相談者。

 セラ。

 相談内容。

 母の葬儀の祈り。

 そこまでは書いた。


 結論。

 羽ペンが止まる。

 結論。

 いつもなら書ける。


 葬送の言葉を延期。

 感情の未整理を許可。

 白紙を持参する選択を提示。


 書ける。

 どれも、事実だった。

 けれど、それを書くと、また一つのきれいな処置になってしまう気がした。

 メアリーは、羽ペンを置いた。


「メアリー様?」

「結論は、空けておきます」


 修道女は、少し困った顔をした。

「空欄でよろしいのですか」


「ええ」


「後で、記録がまとまりにくくなります」


「そうでしょうね」

 メアリーは微笑んだ。

「困りますね」


 修道女は、どう返せばいいか分からない顔をした。

 メアリーも、少しだけ分からなかった。

 それでよかった。

 たぶん。


 修道女が下がった後、メアリーは白い花瓶へ視線を向けた。

 花はまだ傾いている。

 彼女は手を伸ばした。

 まっすぐに直すことはできる。

 けれど、今日は少しだけ向きを変えるにとどめた。

 花は完全にはまっすぐにならなかった。

 窓の光へ、少し斜めに顔を向けている。

 悪くない、とメアリーは思った。

 その思い方が、自分のものなのか、誰かの言葉なのか、まだ分からなかった。


 午後になると、礼状が一通届いた。

 差出人はロゼリア・クロウ。

 短い手紙だった。


 昨日は、残っていたものを置かせていただきました。

 あれに返事は要りません。

 続けても構いませんよ。


 メアリーは、その一文を何度か読んだ。

 続けても構いませんよ。

 誰に向けた言葉なのか、少しだけ分からなかった。

 ロゼリア自身にか。

 メアリーにか。

 それとも、書かれずに残ったものにか。

 分からない。

 けれど、すぐに意味を決めなくてもよい気がした。


 夕方になった。

 終礼の鐘が鳴る。

 相談記録は、結論欄が空いたままだった。

 本日の所感の記録帳も、開かれている。

 昨日の一行。

 まだ届いていない。

 その下には、白い余白が広がっていた。


 メアリーは羽ペンを取った。

 今日なら、少し書けるかもしれないと思った。


 私は、人の人生を終わらせていたのではない。

 違う。


 私は、人を救っていたのではない。

 違う。


 私は、言葉を与えすぎていた。

 違う。


 私は、これからは何も言わない。

 違う。


 どれも、少しずつ違う。

 どれも、少しずつ正しい。

 だから、書かなかった。


 メアリーは羽ペンを置いた。


 白紙は、白いままだった。

 昨日と同じように。

 けれど、昨日とは少し違って見えた。


 失敗の白ではなかった。

 怠慢の白でもなかった。

 まだ来ていない言葉の場所。

 誰かが座ってもいい椅子。

 閉じられなかった扉。

 そういうものに、少しだけ似ていた。


 夜の光が、窓の外に落ちていく。


 メアリーは記録帳を閉じなかった。

 開いたまま、机の上に置いた。

 終礼の時間は過ぎている。

 銀の留め具は、今日は鳴らなかった。


 誰かが締めなければならない場面も、ある。

 そう思う。


 誰かが言葉を渡さなければ、息ができなくなる人もいる。

 迷いを形にしなければ、明日へ進めない人もいる。

 泣いている人に、祈りが必要な夜もある。


 それは、今でも正しい。

 たぶん、これからも正しい。


 けれど。


 誰も締めなくてよい場面も、

 あるのかもしれない。


 メアリーは、開いた頁を見つめた。


 白紙は、白いままだった。


 けれどそれはもう、失敗には見えなかった。

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