第9話:続きは、予想どおりにならない
白い相談室の机には、朝から紙が積まれていた。
相談記録。
礼状。
報告書。
招待状。
訂正願い。
面会希望。
どれも、終わったはずの場から届いたものだった。
メアリー・ホワイトは、窓を少し開けた。
朝の空気が入ってくる。
白い花瓶の花が、かすかに揺れた。
机の端には、昨日の記録帳が閉じられている。
本日の所感。
まだ届いていない。
その一行だけが残ったまま、銀の留め具で閉じられている。
メアリーはしばらくそれを見ていた。
それから、最初の面会希望書を取った。
ロゼリア・クロウ。
面会理由。
感謝ではありません。
それだけが、短く書かれていた。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたロゼリアは、以前より静かに見えた。
白い服ではない。
黒でもない。
淡い青のドレスだった。
断罪式の日、彼女は誰よりも強く立っていた。
証拠を並べ、
嘘を折り、
自分へ向けられた拍手を、ようやく受け取っていた。
メアリーは、その場を覚えている。
涙が早すぎた聖女候補。
沈黙が遅すぎた王太子。
折れていった罪状。
そして、ロゼリアに向けられた拍手。
「ごきげんよう、ロゼリア様」
「ごきげんよう、メアリー様」
ロゼリアは椅子に座った。
「今日は、感謝を言いに来たわけではありません」
「そのように書かれておりましたわね」
「怒りに来たわけでもありません」
「ええ」
「ただ、言葉が残ってしまったので」
ロゼリアは、膝の上で手を重ねた。
「あなたの言葉のあと、みんな私を別の形で呼ぶようになりました」
「別の形」
「強い令嬢」
「真実を勝ち取った人」
「誇り高きクロウ家の娘」
「聖女候補に相応しかったのは、本当は彼女だった」
どれも美しい言葉だった。
メアリーにも分かる。
「間違っておりますの?」
「いいえ」
ロゼリアは首を横に振った。
「間違ってはいません」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「私は勝ちました。証明しました。あの日、拍手は私へ届きました」
「ええ」
「でも」
ロゼリアは、少しだけ視線を落とした。
「届かなかった日の私も、私です」
メアリーは、答えなかった。
「あの日までの私は、誇り高くなんてありませんでした」
ロゼリアは言った。
「悔しくて、惨めで、何度も泣きました」
「相手を見返したいとも思いました」
「誰かに、あの人たちは間違っていると言ってほしかった」
「自分で証明する前に、誰かに助けてほしいと思った夜もありました」
ロゼリアは笑った。
少しだけ、困ったような笑みだった。
「でも今は、最初から最後まで美しかった人のように言われます」
「それは」
メアリーは言いかけた。
ロゼリアが、静かに続ける。
「悪いことではありません」
その一言で、メアリーは口を閉じた。
「たぶん、必要なことです。名誉が戻るためには、分かりやすい形が必要でした。強い令嬢として語られた方が、私は守られます」
ロゼリアは、メアリーを見る。
「あなたは、上手にまとめます」
柔らかな声だった。
「だから困るのです」
相談室に、朝の光が差している。
「あなたの言葉は、私を傷つけた人たちの言葉より、ずっと正しい。ずっと優しい。だから、否定できない」
ロゼリアは立ち上がらなかった。
ただ、椅子の上で背筋を伸ばした。
「でも、私は、届いた後の私だけではありません」
メアリーは、羽ペンへ手を伸ばしかけて、止めた。
記録したくなる。
ロゼリア・クロウ。
主訴。
勝利後の像と、勝利以前の自己の乖離。
書ける。
とても簡単に書ける。
けれど、ロゼリアは記録されに来たわけではないのだろう。
「では、何をお望みですの」
メアリーは尋ねた。
ロゼリアは少し考えた。
「分かりません」
その答えは、相談室に似合わなかった。
「ただ、あなたがあまりにも綺麗に締めたので」
ロゼリアは、ほんの少しだけ笑った。
「まだ残っていたものを、置きに来ました」
ロゼリアが帰った後、相談室は少しだけ静かになった。
メアリーは記録を書こうとした。
ロゼリア・クロウ。
そこまで書いて、止まった。
残っていたもの。
それは、どう記録すればよいのだろう。
次の紙は、手紙だった。
差出人は、カイン。
北門の支援術師。
紙には、乾いた土の跡がついていた。
拝啓、聖女メアリー様。
あの夜の後、村では「皆で守った夜」と語られています。
それは間違いではありません。
水を運んだ子供もいました。
補強材を運んだ人もいました。
剣を取った勇者もいました。
警鐘を鳴らした人もいました。
村は、確かに村を守りました。
でも、次の日も北門は少し歪んでいました。
その次の日も、南柵の杭が一本浮いていました。
昨日は、雨で土台が緩みました。
今朝は、東門の蝶番が鳴っています。
誰にも見えない仕事は、今も続いています。
あの夜だけが、俺の仕事だったわけではありません。
誰にも見られなかった夜は、門を守るためだけにあったわけじゃない。
いや。
うまく言えません。
門を守るためでもありました。
でも、それだけではなかった。
俺はたぶん、見えてしまうから見ていたのです。
褒められるためでも、語られるためでも、村の勝利の形になるためでもなく。
歪んでいるものを、歪んでいるまま放っておけなかった。
それだけの日もあります。
メアリーは、手紙を読み終えた。
窓から入る風が、紙の端を揺らす。
それだけの日。
メアリーは、そこへ目を留めた。
カインのあの夜は、村の勝利になった。
だが、カインの目は、今日も門の歪みを見ている。
物語になった夜の翌日に、物語にならない蝶番の音を聞いている。
メアリーは手紙を畳んだ。
返事を書くことはできる。
あなたの支えは、続いているのですね。
見えない仕事は、日々の祈りそのものですわ。
村の勝利は、今も小さな手によって保たれているのですわ。
書ける。
けれど、カインが言いたいのは、そういうことではない気がした。
次に届いていたのは、小さな包みだった。
中には木札が入っていた。
リオ・バルザ。
裏に、短い文字。
エルドより。
祈りの言葉にしてくれて、ありがとう。
でも、あいつは祈りになるために怖がっていたわけじゃない。
それだけだった。
メアリーは、木札を机に置いた。
名前は、祈りになった。
多くの人が呼べるようになった。
それは良いことだった。
でも、リオは祈りになるために水桶を握っていたわけではない。
その言葉は、どこにも間違いがなかった。
次の手紙には、薬草の匂いがした。
リリアからだった。
救いの記録に、途中ごと残してくださったこと。
あれは今でも、ありがたいと思っています。
でも、朝によっては、まだ窓を開けられません。
食事の匂いを、嫌だと思う日もあります。
昨日できたことが、今日できない日もあります。
途中という言葉は、私を救いました。
けれど、途中は記録に残った後も、途中のまま続くのですね。
メアリーは、その手紙も畳んだ。
次は、細い紙だった。
文字は丁寧で、少し硬い。
クラリス・エヴァン。
あの日、銀の花が咲いた後、私は落ちこぼれではなくなりました。
みんなが、努力していたのだと言ってくれました。
それは嬉しかったです。
でも、昨日、久しぶりに失敗しました。
細い魔力を通しすぎて、硝子の器を割りました。
誰も笑いませんでした。
それでも、私は夜に一人で布を取りに行きました。
割れた欠片を拾いながら、思いました。
誰にも見られなかった夜は、銀の花へ向かうためだけにあったわけではないのだと。
昨日の失敗のためにも、あるのだと。
それを、どう言えばいいのかは分かりません。
メアリーは、しばらくその手紙を見つめた。
銀の花。
見えない努力。
配置された夜。
その続きに、また失敗がある。
物語として美しく置かれた後にも、手は震え、器は割れ、夜に布を取りに行く。
メアリーは、机の上の紙をそろえた。
どれも、終わっていない。
終わっていないことを、どう扱えばいいのだろう。
扉が、また叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、エレナ・ラウレンティアだった。
淡い灰色のドレス。
髪はきちんと結われている。
表情は穏やかだった。
「お時間をいただいても?」
「もちろんですわ」
エレナは椅子に座った。
第六調停室での謝罪。
メアリーは覚えている。
謝罪は成立した。
返答は未決定。
答えが出ていないまま、正しく残された。
それは静かで、正しい場面だった。
「その後、いかがですの」
メアリーが尋ねると、エレナは少しだけ笑った。
「皆さん、私を賢い人のように扱います」
「賢い人」
「すぐに許さず、すぐに拒絶もせず、自分の時間を守った人」
エレナは、膝の上で手を重ねる。
「それも、間違ってはいません」
「ええ」
「あのとき、私は本当に決められませんでした。許すとも、許さないとも」
「覚えておりますわ」
「でも」
エレナは、窓の外を見た。
「未決定、と記録された後から、未決定でいることまで、少し立派なことになってしまいました」
メアリーは黙って聞いた。
「本当は、昨日も怒っていました」
エレナの声は静かだった。
「ユリウス様からの手紙を読んで、破りたいと思いました」
「それから、破らなかった自分を、大人だと思われるのも嫌でした」
「返事を書かないことに意味を見出されるのも、嫌でした」
「ただ、返事を書きたくなかっただけの日もあります」
エレナは、メアリーを見た。
「謝罪が届いたことと、私の時間が終わることは違います」
その言葉は、まっすぐだった。
「あなたは、私の未決定を守ってくださいました」
エレナは続ける。
「それは本当です。あの場で、許す必要はないと言ってくださった。私は、あの言葉に救われました」
「なら」
メアリーは言いかけた。
エレナは、首を横に振らなかった。
ただ、先に言った。
「でも、それだけではありません」
相談室の空気が、少し揺れた。
「救われたことと、終わったことは違います」
「守られたことと、形にされることも違います」
「未決定でよいと言われたことと、未決定という言葉で私が分かったことにされることは、違います」
メアリーは、その一つ一つを理解できた。
理解できてしまった。
「では、どうすればよかったのでしょう」
問いは、責める声ではなかった。
むしろ、本当に知りたい声だった。
エレナは少し考えた。
「分かりません」
また、その答えだった。
「ただ、続いているのです」
エレナは言った。
「怒りも、迷いも、少し楽になったことも、まだ傷ついていることも、全部」
メアリーは、羽ペンを握った。
エレナの言葉を、書き留めたくなる。
続いている。
怒り。
迷い。
救い。
傷。
並べれば、少し分かる。
分かるのに、収まらない。
「あなたは」
エレナが言った。
「続きを見ているのではありません」
メアリーの指が止まった。
「続きを、予想しているだけです」
静かな声だった。
「生きている人は、予想通りになりません」
その言葉は、刃ではなかった。
けれど、紙より薄い場所に入ってきた。
エレナが帰った後、相談室には夕方の色が入り始めていた。
メアリーは、手紙の束をもう一度見た。
ロゼリア。
カイン。
エルド。
リリア。
クラリス。
エレナ。
そして最後に、一通だけ封蝋のついた手紙が残っていた。
ルーヴェル王国王女、レティシア。
字は少し乱れていた。
議会の招集は済みました。
けれど、声は今も一つになっていません。
パン焼きの女は、税の即時撤廃を求めています。
兵士の妻たちは、まず名簿の公開だと言っています。
港の者たちは、沈没船の補償を先にしろと怒っています。
農村の老人たちは、来季の種籾がなければ議会など意味がないと言いました。
みんな、正しいのです。
だから、議場は美しくありません。
怒鳴り声もあります。
途中で出ていく者もいます。
泣き出す人もいます。
昨日は、誰かが机を叩きました。
でも、私は少し安心しました。
声は、まだ一つになっていません。
一つにならないまま、同じ部屋にあります。
あの日、あなたは歴史という言葉をくださいました。
必要な言葉だったと思います。
でも、歴史になる前の声は、今もここで鳴っています。
届いた声は、最初から一つではありませんでした。
そして、届いた後も、一つにはなっていません。
それを、今は少しだけ、よかったと思っています。
メアリーは手紙を置いた。
外では、夕方の鐘が鳴り始めている。
一つ。
二つ。
三つ。
終わりの時間。
今日も、一日が閉じようとしている。
メアリーは、机の上に並んだ紙を見た。
どれも、彼女がかつて言葉を与えた場から届いたものだった。
拍手。
門。
名前。
救い。
努力。
謝罪。
声。
どれも、終わったはずだった。
少なくとも、場面としては終わっていた。
メアリーは、羽ペンを取った。
相談記録の新しい頁を開く。
件名。
続き。
そう書いた。
それから、少し考える。
続きとは何か。
言葉を得た後に残るもの。
場面が終わった後に動くもの。
記録された後に変わるもの。
祈られた後も怖がるもの。
歴史になった後も一つにならないもの。
書ける。
メアリーは書ける。
理解できる。
だから、まとめようとした。
つまり。
その言葉が、喉の奥まで上がってきた。
つまり、皆様は――
続いている。
そう言えばよいのだろう。
誰の物語も終わっていない。
場面の後にも人生がある。
理解された後にも、未整理が残る。
言える。
とても言いやすい。
美しい。
正しい。
けれど。
ロゼリアは言った。
それだけではありません。
エレナも言った。
それだけではありません。
レティシアは書いた。
声は、まだ一つになっていません。
メアリーは、羽ペンを止めた。
紙にはまだ、件名しかない。
続き。
その二文字だけが、白い頁の上にある。
扉が叩かれた。
若い修道女が顔を出す。
「メアリー様、終礼のお時間です」
「ええ」
メアリーは立ち上がった。
記録を閉じようとして、閉じなかった。
頁は開いたままにした。
「メアリー様?」
「後で戻ります」
修道女は少し不思議そうにしたが、頷いた。
礼拝堂へ向かう廊下は白かった。
窓の外では、庭の影が伸びている。
メアリーは歩きながら考えた。
続きがあるなら、続きの形を与えればよい。
そうすれば、人は進める。
迷いは少し軽くなる。
傷は少し扱いやすくなる。
声は届きやすくなる。
それは、正しい。
正しいはずだった。
けれど、開いたままの頁が、なぜか頭から離れなかった。
続き。
それは、まだ要約ではなかった。
題でもなかった。
結論でもなかった。
祈りでもなかった。
ただ、閉じられていない場所の名前だった。
メアリーは理解した。
彼らは、終わっていなかった。
けれど。
終わっていないものを、終わっていないまま置くことが、なぜそんなに大切なのか。
そこまでは、まだ分からなかった。
夕方の鐘が、最後の一つを鳴らした。
音が消えた後も、
耳の奥に、少しだけ残った。




