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第8話:つまり、私は――

「先生に、店を継げないと言いたいんです」


 少女は、そう言って膝の上で指を握った。


 まだ十六か十七ほどに見えた。


 薬師見習いの服を着ている。

 袖口には、乾いた薬草の粉が薄く残っていた。

 爪の間にも、緑の色が入っている。


 毎日、薬草を刻んでいる手だった。


 白い相談室には、午後の光が入っていた。

 窓辺には、小さな花瓶がある。

 白い花が三本。

 壁には、祈りの言葉。

 机の上には、相談記録。


 メアリー・ホワイトは、少女の向かいに座っていた。


「お名前は」

「ミーナです」

「では、ミーナ様」

 メアリーは微笑んだ。


「先生は、あなたに店を継ぐようお望みなのですね」


「はい」

 ミーナは小さく頷いた。


「先生には身寄りがありません。私も、昔、行くところがなくて。拾ってもらって、育ててもらって、薬草のことも、客のことも、全部教えてもらいました」


「ええ」


「だから、恩返ししなきゃいけないのは分かっているんです」

 分かっている。

 そう言うときの声ではなかった。

 分かっていることに、苦しんでいる声だった。


「でも、王都の施療院から、見習いの誘いが来ました。薬草だけじゃなくて、外科処置も、熱病の治療も、もっと勉強できる場所で」


「素晴らしいことですわ」


「でも、先生の店は」

 ミーナの指に力が入る。


「先生の店は、先生が一人で守ってきた場所なんです。私が出ていったら、たぶん閉めることになります」

 机の上の相談記録には、まだ何も書かれていなかった。


 メアリーは、少女の声を聞いていた。


「店を捨てたいわけではありませんのね」

 ミーナが顔を上げる。


「違います」


「先生を捨てたいわけでもない」


「違います」


「恩を忘れたいわけでもない」


「違います」

 答えるたびに、ミーナの目に涙が溜まっていく。


「でも、店を継ぎたいわけではない」

 ミーナは、すぐには答えなかった。

 それから、喉の奥から押し出すように言った。


「はい」

 小さな声だった。

 けれど、その相談室の中では十分だった。


 メアリーは、相談記録へ視線を落とした。

 羽ペンを取る。


「つまり」

 ミーナの肩が、少しだけ震えた。


「あなたは、恩を返したいのではなく」

 メアリーは、ゆっくりと言葉を置いた。


「恩を、未来の形に閉じ込められたくないのですわ」

 ミーナは息を止めた。


「先生に育てていただいたことは本当」

「先生を大切に思っていることも本当」

「店を失うことが悲しいのも本当」

 メアリーは、少女を見る。


「けれど、それらがすべて本当であっても、あなたの未来が店の棚に並べられてよい理由にはなりません」

 ミーナの目から、涙が落ちた。


「私、ひどいですか」


「ひどくはありませんわ」

 メアリーは即座に答えた。


「ただ、優しい人ほど、自分の未来を恩の支払いにしてしまうことがあります」

 羽ペンが紙の上を滑る。


「それは美しいことに見えますけれど」

 メアリーは、ほんの少しだけ首を傾げた。


「恩返しと、自己犠牲は、よく似た顔をしておりますもの」

 ミーナは泣いていた。

 けれど、先ほどとは違う涙だった。


「先生に、どう言えばいいんでしょう」


「そのままでは、言葉が重すぎますわね」

 メアリーは考えた。

 長くはなかった。


「まず、店を継げないことを謝らないこと」


「謝らない、んですか」


「謝罪にしてしまうと、あなたが罪を犯した形になります」

 メアリーは微笑んだ。


「あなたは罪を犯しているのではありません。別の未来を選ぼうとしているだけですわ」

 ミーナは、涙を拭った。


「では、どう言えば」


「こうです」

 メアリーは、相談記録とは別の紙を取った。


「先生に育てていただいたから、私は人を治す道を選べました。だから私は、この店だけではなく、もっと多くの場所で、先生に教わった手を使いたいのです」

 ミーナは、その言葉をじっと聞いた。


「店を継げません、ではなく」

 メアリーは言った。


「先生の教えを、店の外へ持っていきます」

 ミーナの唇が震えた。


「それなら」


「ええ」


「それなら、言えるかもしれません」

 メアリーは紙を差し出した。


「言葉は、未来を少しだけ通りやすくします」

 ミーナは両手で紙を受け取った。


「ありがとうございます」

 深く、頭を下げる。


「聖女様」

 その声は、迷わなかった。


 メアリーは微笑んだ。

「どうか、よい旅になりますように」

 ミーナが相談室を出ていくと、白い部屋は静かになった。


 午後の光が、机の上へ伸びている。

 花瓶の白い花が、少しだけ傾いていた。


 メアリーは相談記録を取った。


 相談者。

 ミーナ。

 薬師見習い。

 相談内容。

 育ての師の店を継がず、王都施療院へ進むことへの罪悪感。


 彼女は淀みなく書いた。


 問題の要点。

 恩返しと自己犠牲の混同。

 結論。

 師の教えを店の外へ持ち出す、という形で言語化。


 整っている。

 とても整っている。


 メアリーは羽ペンを置いた。

 一つ、終わった。

 正しく終わった。


 誰かの迷いが、言葉を得た。

 誰かの未来が、少しだけ進みやすくなった。


 悪いことではない。

 悪いことであるはずがない。


 メアリーは、白い花瓶を直した。

 傾いていた花が、まっすぐになる。

 その瞬間、なぜか指が止まった。


 まっすぐ。

 その言葉が、少しだけ遠かった。


 廊下の向こうから、修道女の足音が聞こえた。


「メアリー様」

 扉が控えめに叩かれる。


「本日の終礼記録をお持ちしました」


「ありがとう」

 若い修道女が、薄い記録帳を机に置いた。


 白い表紙。

 銀の留め具。

 日付だけが記された欄。


 メアリー・ホワイト。

 本日の祈り。

 本日の務め。

 本日の所感。


 毎日、書くものだった。


 誰かの相談ではない。

 誰かの勝利でもない。

 誰かの葬送でも、謝罪でも、革命でもない。


 メアリー自身の記録。


「後ほどで構いません」

 修道女はそう言って下がった。

 扉が閉まる。


 白い部屋に、また静けさが戻った。

 メアリーは記録帳を開いた。

 本日の祈り。

 書ける。

 本日の務め。

 書ける。


 本日の所感。

 そこで、少しだけ羽ペンが止まった。

 所感。

 感じたこと。


 メアリーは、空欄を見た。

 何もないわけではなかった。

 むしろ、多すぎた。


 拍手の向き。

 門を支えていた夜。

 名前だったもの。

 まだ救われている途中の人。

 誰にも見せなかった指先の傷。

 未決定のまま記録された謝罪。

 一つではなかった声。


 どれも、見た。

 どれも、理解した。

 どれも、言葉にできた。


 ロゼリア様は、ようやく自分へ届いた拍手を持っていた。

 カイン様は、誰にも見えない三日前から門を支えていた。

 エルド様は、数ではなく名前を呼んだ。

 リリア様は、完全ではない救いを抱えていた。

 クラリス様は、見えない夜を積んでいた。

 エレナ様は、答えを出さない時間を守っていた。

 レティシア様は、一つでない声を門へ届かせた。


 分かっている。

 すべて、分かっている。

 だから、書けるはずだった。


 つまり。

 メアリーは、羽ペンを紙に近づけた。


 つまり、私は――

 そこで、止まった。

 インクの先が、紙に触れない。


 私は。

 聖女。

 それは役割だった。


 メアリー・ホワイト。

 それは名前だった。


 白い聖女。

 それは人々が呼ぶ形だった。


 終わりかけた場を、言葉で静める者。

 乱れた感情を、祈りへ整える者。

 泣いている人に、言葉を渡す者。

 勝利に形を与える者。

 謝罪を成立させる者。

 歴史を残す者。


 どれも、間違っていない。

 間違っていないのに。

 それだけでは、欄が埋まらなかった。


 メアリーは、羽ペンを置いた。

 白紙のままの欄を見つめる。

 妙だった。


 人の言葉なら、あんなに簡単に見つかる。


 泣いている人がいれば、涙の形が分かる。

 怒っている人がいれば、怒りの置き場所が分かる。

 黙っている人がいれば、沈黙が何を守っているのか分かる。


 けれど、自分のことになると。

 白い。

 ただ、白かった。

 まるで、余白ではなく、壁のようだった。


 メアリーは立ち上がった。

 相談室を出る。

 廊下は長い。

 窓の外では、日が傾き始めていた。

 修道院の庭で、見習いたちが洗濯物を取り込んでいる。


 遠くの礼拝堂から、夕方の鐘が一つ鳴った。

 終わりの時間。

 人は、一日の終わりにも名前をつける。


 朝。

 昼。

 夕。

 夜。

 そう呼べば、時間は少しだけ扱いやすくなる。


 メアリーは、庭へ出た。

 白い靴の先に、乾いた葉が触れた。

 踏むと、小さな音がした。


 庭の隅で、小さな見習い修道女がしゃがみ込んでいた。

 十二歳ほどの子だった。

 名前は、たしかノエル。

 彼女は石畳の上に、何枚もの紙を広げていた。


「何をしているのです」

 メアリーが声をかけると、ノエルはびくりと肩を跳ねさせた。


「ご、ごめんなさい、メアリー様」


「叱っているのではありませんわ」

 メアリーは膝を折る。


「祈りの練習ですか」

 紙には、短い祈りの言葉が書かれていた。

 どれも、途中で線が引かれている。


 神よ、今日の終わりに――

 私たちの迷いを――

 まだ分からないことを――

 どうか明日には――

 どれも、まとまっていなかった。


「終礼で読む祈りを作るように言われたんです」

 ノエルはうつむいた。

「でも、まとまらなくて」


「何を祈りたいのです」


「分かりません」

 ノエルは、紙を握りそうになって、慌てて手を離した。


「今日は、ミーナ姉様が施療院へ行くって聞いて、嬉しいのに寂しくて。先生もきっと寂しくて。でも、行った方がいいのも分かっていて。そういうのを、どう祈ればいいか分からなくて」


 メアリーは紙を見た。

 整えられる。

 すぐに分かった。


 別れは終わりではなく、教えが広がること。

 寂しさと祝福は同時にあること。

 迷いながら進む人へ、灯りがあるように。


 そう言えばよい。

 祈りは整う。

 終礼で読める形になる。

 ノエルは安心する。

 みんなも頷く。

 美しい祈りになる。


 メアリーは口を開いた。


「つまり」


 言いかけて、止まった。

 ノエルが顔を上げる。


「メアリー様?」

 風が吹いた。

 紙の一枚が、石畳の上で少しだけずれた。


 まだ分からないことを――

 その行だけが、メアリーの目に残った。

 まだ分からないこと。


 メアリーは、ゆっくり息を吸った。


「まとまらないものは」

 自分の声が、少し遅れて聞こえた。


「まだ、届いていないだけかもしれませんわ」

 ノエルは瞬きをした。


「届いていない?」


「ええ」

 メアリーは紙を拾った。

 折れた端を、そっと伸ばす。


「無理に終わりの言葉へ入れなくてもよいのではありませんか」

 言ってから、メアリーは少しだけ不思議に思った。

 自分が今、何を言ったのか。


「でも、終礼で読む祈りなのに」


「終礼は、一日を閉じるものです」

 メアリーは言った。


「けれど、一日の中にあるすべてが、今日のうちに分かるわけではありません」

 ノエルは、紙を見つめた。


「じゃあ、どう書けばいいんでしょう」

 メアリーは少し考えた。

 今度は、すぐには言葉が出なかった。

 それでも、やがて言った。


「神よ」

 ノエルが顔を上げる。


「今日、まだ分からないまま残ったものを、明日の光の下へお運びください」

 ノエルは、ゆっくりとその言葉を繰り返した。


「今日、まだ分からないまま残ったものを」

 紙の上に書く。


「明日の光の下へ」

 書く。


「お運びください」

 ノエルは最後まで書いて、それから笑った。


「終わってない祈りですね」


「そうですわね」


「でも、読めそうです」


「なら、よかったですわ」

 ノエルは紙を抱えて立ち上がった。


「ありがとうございます、メアリー様」

 走っていく背中を、メアリーは見送った。


 白い庭に、夕方の光が落ちている。

 今の言葉は、祈りを整えたのだろうか。

 それとも、整えずに置いたのだろうか。

 メアリーには、少しだけ分からなかった。


 まとまらないものは、まだ届いていないだけ。

 誰が言ったのだろう。

 自分だった。

 自分の声だった。


 メアリーは、相談室へ戻った。

 机の上には、白い記録帳が開いたままになっている。

 本日の所感。

 空欄。


 羽ペンを取る。

 今度は、少しだけインクを含ませすぎた。

 黒い雫が、ペン先に丸く溜まる。


 メアリーは、白紙の上に一文字だけ書こうとした。

 つまり。

 けれど、書かなかった。

 代わりに、別の言葉を書いた。


 まだ届いていない。

 それだけだった。


 所感としては不完全だった。

 記録としては足りなかった。

 聖女の一日を締める言葉としては、あまりにも曖昧だった。


 けれど、メアリーはその行を消さなかった。

 白紙は、ほとんど白いままだった。

 ただ一行だけが、そこに残っている。


 まだ届いていない。


 終わらないものが、嫌いだった。

 まとまらないものが、嫌いだった。

 白いまま残る欄が、嫌いだった。


 だから彼女は、まだそれを自分のことだとは思わなかった。

 思わないまま、記録帳を閉じた。


 銀の留め具が、小さく鳴った。

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