第8話 鈴を二つ鳴らす馬車
夜市まであと一週間という朝、ニネットは窓を開けて、門の前で車輪が止まる音を聞いた。
入ってきたのは、いつもの医者だった。薬を届けに寄ってくれたのだ。
医者はいつも通りニネットの胸の音を聞き、脈を取り、舌を見た。そして、いつもとは違うことを言った。
「お嬢さん。もう、薬はお出しできません」
部屋の隅で湯を替えていた母の手が、止まった。
「熱は、夏の初めにすっかり引いています。胸の音もきれいなものだ。夏にも、そう申し上げましたね。これからは寝てばかりいないで、少しずつ歩くようにと」
「でも、まだ足がふらつくの」
「一日じゅう寝ていれば、誰だってふらつきますよ。金曜ごとに湯治場へ通えるのなら、町の中を歩くくらい、何の差し障りもありません」
医者は母のほうを向いて、すまなそうに頭を下げた。
「奥様には、お伝えしていなかったようですね。私からも、もっと早く申し上げるべきでした」
医者が帰ったあと、母はしばらく何も言わなかった。
ただ、ニネットの顔を見た。心配する時の目ではなかった。知らない人を見るような目だった。
「お母様、違うの。本当に、疲れやすくて」
「そう」
母はそれだけ言って、毛糸の上着をニネットの肩に掛けた。それから、いつもなら隣に座ってくれるのに、座らないまま部屋を出ていった。
そのあと門の前を通ったのは、洗濯屋の荷車と、薪を半分だけ下ろしていく男だった。鈴を二つ鳴らす馬車だけが、いつまで待っても通らなかった。
これまでは、どの火に手をかざしても暖かかったのだ。
ユストは一日の仕事を終えてから、わざわざ窓の下を通ってくれた。レミは、日暮れに眠らなければならない仕事なのに、返事を一行読めれば来た甲斐があると笑ってくれた。ガスパールは家の馬車を出してくれた。そのたびに、本気でこう思った。こんなに優しくしてくれる人は、この世にこの人しかいない、と。
嘘をついたつもりはなかった。その時その時は、本当にそう思っていたのだ。
でも今、自分の話を聞いてほしくて会いに行ける相手は、三人の中に一人もいない。ユストは、杯を買いに来るだけならどうぞと言った。レミは北へ帰った。ガスパールの鈴は、来ないでと伝えたあの朝に三度鳴って、それきりだった。
朝食のパンにかじりつくと、かけらが膝掛けの上に散らばった。母はもう隣にいない。ニネットは一粒ずつ、自分で拾った。
昼前、台所をのぞくと、下働きの娘たちがぴたりとおしゃべりをやめた。一人が慌てて隠した紙切れに、帽子が三つ並んだ絵が見えた。
「それ、何?」
「いえ、何でも。七つ橋の、夜市の出し物の札で」
娘はしどろもどろになって、結局ぜんぶ話した。この家の誕生日の騒ぎを面白おかしく仕立てた踊りの芝居が、夜市で掛かるのだという。三人の花婿が出てきて、病弱な娘が一人ずつに「あなたしかいない」と言って回る。客席はそのたびに大笑いするのだそうだ。
ニネットは、手の中の湯たんぽを落としそうになった。
「お母様。今日は具合がいいから、楡の家へ行ってきたいの」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、この家にいたくなかった。
「そう。歩けるなら、歩いていらっしゃい」
「馬車をお願いしたら、駄目?」
「うちの馬は今日、蹄の手入れよ。どうしても辻馬車を頼みたいなら、あなたのお財布から出しなさい」
母は帯を結ぶのだけ手伝ってくれて、それ以上は何も言わなかった。
ニネットは簞笥から財布を出した。これまで、辻馬車に乗る人を窓から眺めるばかりで、一区間がいくらなのかも知らなかった。
自分のお金を払って揺られる道は、いつもの鈴の馬車で通る道より、ずっと短く感じた。
◇
楡の家の門の前に、ガスパールが立っていた。
私は前の日に、残っていた最後の荷物をこちらへ運び込んでいた。台所に火を入れ、父の家から大鍋を借りてきて、ご近所に一軒ずつ挨拶をして回ったばかりだ。向かいの家の奥さんも、隣のご隠居も、まだ窓から新しい住人の様子をうかがっている。
「明日、うちの店に馬車を一台注文してほしいんだ。ひと区間でいい。僕も、隣に乗せてくれ」
ガスパールは、挨拶も抜きにそう言った。
「父さんが、配車の仕事は僕には戻せないって言うんだ。でも、君と僕がこの門から一緒に馬車に乗るところを町の皆が見れば、もう何のわだかまりもないって分かるだろう。君なら、あの花売りの婆さんにも口をきいてもらえる」
革手袋の縫い目に、干し草が何本も刺さっていた。
お祝いの日から、ずいぶん痩せた。目の下は黒ずんで、上着の肩はほこりで白っぽい。あの渋い銀色の上着を着ていた人と同じだとは、すぐには思えなかった。
「花を待たせたのは、私じゃないわ。あの人があなたを許すかどうかに、私は何もできない」
「世間の噂が、先に走りすぎたんだよ。僕は君の妹を大事にしようとしただけだ。それで、ここまでのことになるか?」
その時、辻馬車が門の前で止まった。
降りてきたのはニネットだった。馭者に小銭を何枚か足して払っている。あの子が自分の財布を開けるところを見たのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ガスパール様。来てくださっていたのね」
妹はぱっと明るい顔をした。
でもガスパールは、その明るさを受け止めなかった。あとは私に「いいわ」と言わせるだけだと思っていたところへ、いちばん来てほしくない人が来た。そういう顔だった。
「僕はマノンに用があって来たんだ。それより、君。あの朝、どうして顔くらい出してくれなかった。僕は昼まで、門の前で待ってたんだぞ」
「来ないでって、言ったでしょう。それより、どうしてご自分のお家の馬車も出せなくなったの?」
ガスパールが手袋を外した。
人差し指の爪の下に、黒い半月が一つ、くっきりと浮いていた。干し草を払う時も、その指だけは曲げられないようだった。
「花冠三つ分を弁償して、配車の帳場から荷を積む側に回されたからだ! 昨日は木箱に指を挟んだ。今日だって、昼の休みのあいだしか抜けてこられないんだぞ。セルヴェ家への詫び金で、結婚のために貯めた金も全部なくなった。それもこれも、あの朝、君が出てきてくれなかったから」
「私のために頑張ってあげたみたいに言わないで!」
ニネットの声が裏返った。
「お姉様のお許しはもらってあるって言ったのは、あなたじゃない。私だって、あんな恥をかくと分かっていたら、お祝いの日に踊るなんて言わなかったわ! 七つ橋では、お芝居にまでされてるのよ。病弱な娘が、三人の男に、あなたしかいないって言って回るんですって!」
「芝居なら僕も聞いた! 花より先に女を迎えに行く、馬車屋の間抜けな倅だそうだ!」
向かいの家の窓が、そっと閉まった。隣のご隠居が咳払いをして、奥へ引っ込んだ。
二人とも、相手を見ていなかった。自分がどれだけ損をしたかだけを、ぶつけ合っていた。
あれほど「あなたしかいない」「君には僕しかいない」と言い合っていた二人なのに。
辻馬車が、鉄の輪をはめた車輪で砂利を鳴らして遠ざかっていった。ニネットは、帰りの分までは頼んでいなかったらしい。
「そこの石に、腰掛けられるわよ」と、私は言った。「話し合いたいなら、座ってどうぞ。帰りは、それぞれ自分で決めてね。私が馬車を手配したりはしないから」
ガスパールが、門の内側へ一歩入りかけた。でも、門扉に私の手が掛かったままなのを見て、足を止めた。
「マノン。あの日、君の靴にハンカチを結んだ時の僕だけは、君も知ってるはずだ」
「知ってるわ。でも、それで私があなたの馬車に乗る理由にはならない」
「頼む。君だけは、あの冬みたいに、僕をいい男だと思っていてくれよ」
私の記憶の中で、彼は今でも、緑のハンカチをほどいて、濡れた土に片膝をついている。
あの冬の彼まで、嫌いになる必要はない。そう思えたことに、自分でも少し驚いた。
「覚えておくわ。あの時、私はあなたが大好きだった。お母様に自慢したかったくらい。だから、これから誰かに親切にする時は、ちゃんとご自分のものを使ってね」
ガスパールの靴の下で、砂利が、ざり、と鳴った。
長いこと、その音しかしなかった。
先に背を向けたのはガスパールだった。昼の荷積みに間に合うように、歩いて帰るという。妹には手も貸さなかった。妹のほうも、彼を呼び止めてくれとは、私に頼まなかった。
その代わり、門の外から、小さな声で言った。
「お母様に、自慢したかったのね」
あの子の言うお母様は、私の亡くなった母のことだ。私の母と自分の母を、ニネットは一度も取り違えたことがない。
「うん」
「お姉様。子どもの頃、この家で二人で飲んだ、甘いのがあったでしょう。あれ、白い柑橘だったかしら」
「庭に一本だけある、白蜜橙よ」
楡の木陰に、背の低い木が一本立っている。母が痩せた実をいくつも砂糖で煮て瓶に詰め、両方の家に配っていた。冬になると、白い花と青い実が同時につく、この辺りにしかない変わった木だ。
「もうすぐ、実がなるわね」
「ええ」
「ねえ、お姉様。私、しばらくここに置いてもらえない? あの家にいると、皆の目が怖いの。お母様まで、私を知らない人みたいに見るのよ。西のお部屋、まだ空いているでしょう?」
その声は、あの日「花が見える窓のそばに」と言った時と、同じくらい甘かった。
私は、西の寝室の窓を見上げなかった。
「空いてないわ。私が寝る部屋よ」
ニネットの唇が、小さく震えた。
「今日はおうちに帰って、ゆっくり休んで。私ね、越してきたばかりで、ひとりで鍋いっぱいのお芋を焦がしちゃったところなの」
妹はしばらく、門の外で待っていた。私がお茶でもと玄関へ招き入れるのを待っているのが、よく分かった。
でも、来月も、再来月も、どの窓を磨くか、誰をこの家に迎えるかを決めるのは、私だ。
やがて妹は通りまで歩いて、自分で辻馬車を拾った。財布の中を確かめてから乗り込み、もと来た道を帰っていった。
さて、お芋をどうしよう。
台所に戻ると、父の家から借りてきた大鍋から、まだ一筋、煙が上がっていた。




