第9話 片靴の燕
焦げたお芋は、皮を厚くむいて、次の朝に塩で食べた。
食べられるところが思ったよりたくさん残っていて、人差し指の先まで真っ黒になった頃、イーヴォが楡の家を訪ねてきた。
「お仕事の帰り?」
「いいえ。会いたくて来ました」
見れば、いつもの細長い袋を提げていなかった。靴を拭く布と替えの靴を入れた、仕事に行く時の袋だ。踊りの用事なんて、ひとつも作らずに来てくれたのだ。
ちゃんと嬉しい顔をしていたつもりなのに、急に泣きそうになった。彼はそれを見ても慌てたりせず、私の指先を指さした。
「何か、埋めてきたんですか」
「お芋を掘り出したの。鍋の底から。まだ二つあるけど、いかが?」
「朝ごはん、わりとしっかり食べてきちゃったんですけど」
「正直ね。じゃあ、一つを半分こにしましょう」
窓辺の卓で、一つのお芋を分けた。彼は本当にお腹がいっぱいだったらしく、半分でやめた。
それから庭に出て、楡の下の木戸を見せた。昨日、私が自分で蝶番を付けたばかりの戸だ。付ける向きを逆にしてしまったけれど、開くことは開く。彼も大工ではないから、直し方は二人ともよく分からなかった。
「春になって、気が向いたら付け直しましょうか」
「ええ、春にね」
この人と交わす約束に、そんな先の日付が入っている。それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
◇
七つ橋の夜市で、例の出し物の木札は『三つの帽子の花婿踊り』という題に変わっていた。
帽子の絵の下に、演じる役者の名前がそれぞれ小さく書いてある。お客にもちゃんとそう説明しています、とあの札売りの娘が教えてくれた。私とイーヴォの書いた紙は、まだ木札のあいだに挟まっていた。
冷たい夜気の中で、板のほうから時々どっと笑い声が上がった。私は、そちらへは行かなかった。私の用があるのは、橋を渡った先だ。
花売りの女たちの石畳には、大きな油壺をくりぬいた灯りがずらりと並んでいた。壺に彫られた花模様が地面に映って、踏んで歩くと、靴の先で花が咲いたり消えたりする。
夜番の鐘が、一つ鳴った。
イーヴォは、大きな箒を持ったおじさんと踊っていた。踊りながら、おじさんの箒が石ころや木屑を脇へ掃いていく。二人が通ったあとに、次の二人が踊れるまっすぐな道ができあがっていった。
二つ目の鐘で、箒が壁に立てかけられた。
でも、彼の最後のお客は、椅子に座ったまま、なかなか立ち上がれないおじいさんだった。イーヴォは隣に腰を下ろして、おじいさんと一緒に、左足だけを動かした。目の前で二人の孫が、おじいさんのゆっくりした足に合わせて体を左右に揺らしている。
私は、目をそらさずに見ていた。
この人を好きになるというのは、なかなか面倒なことなのだ。誰かのためにこうしているあいだは、私だって待つ。お腹がすいたら揚げ芋をかじって待つし、寒くなったら、次にどこで会うかを伝えて先に帰る。
でも今夜は、揚げ物の包みはまだ温かかったし、足にはよくなじんだ新しい靴を履いていて、ずっと楽しみにしていた夜の空気を、胸いっぱいに吸っていた。
おじいさんを椅子の奥まで座らせると、イーヴォは仕事の袋を灯りの脇に置いて、石畳の少し手前に立った。
そして、そのまま動かなかった。
私の名前を呼ぶでもなく、手を差し出すでもなく。両手を下ろしたまま、ただ、私を見ている。
ああ、そうか。
私が誘うんだった。
揚げ物の包みを豆売りの女将さんに預けて、私は二歩で石の上に出た。
「イーヴォ。私と『片靴の燕』を、踊っていただけますか」
「はい。ずっと、楽しみにしていました」
彼は、本当にきれいなお辞儀をした。猫に持っていかれた右の袖だけが、少し色の違う布で縫い直してあった。
先に右。踵を、二つ。
彼が、私の左へ出た。すぐそばで筒太鼓が鳴っていて、拍子がずれそうになって、思わず口の中を噛んだ。それを見た彼が笑うものだから、悔しくて、次の一歩を少しだけ急いだ。
彼の手が、私の指の腹に触れた。私の手の重さだけを受け止めて、それ以上は引っぱらない。私が行かなければ、二人とも止まる。自分の行きたいほうへ向き直ると、彼の足は一拍遅れて、ちょうどいいところへ来てくれた。
最後に、母が踊ったあの速い回転を思い出した。
片足だけで踏み切って、相手の陰で、半周よけいに回る。母はこれで自分の父親を驚かせた。胸に白い花を挿していた祖父は、うっかり柱に手をついてしまって、会場を大いに沸かせたのだという。
私は、彼の手からするりと指を抜いて、回った。
イーヴォが、半拍遅れた。
「しまった」
低い声がして、彼の指が、私の指に追いついた。
伸び上がった私の踵が、ちゃんと石をつかむ。二人そろって、正面を向いて止まった。
まわりにいたのは、豆売りの女将さんと、歯の抜けた口で一生懸命に指笛を吹いている男の子と、灯りの向こうの知らない人たちだった。誰かが手を叩いて、それがあっという間に広がっていく。
息が切れた。ちょっと待って、と言いかけたら、彼のほうが先に両手を膝についた。
「ついて行けてました?」
「見てたでしょう。私、ずいぶん速いのよ」
「本当に。腕を貸してください。息が戻るまで」
肩を寄せ合ったまま、私たちは灯りの脇に座り込んだ。女将さんが包みを返してくれた。中を見ると、揚げ芋の下に、小さな焼き栗が二つ増えていた。
私はそれを一つずつ二人の膝に載せてから、彼の額に落ちていた前髪を、今度は、左右とも耳にかけた。
◇
その踊りを、橋の下の荷揚げ場から見上げている男がいた。
ガスパールは、肩に食い込む木箱を下ろしたところだった。夜市の屋台に運ぶ酒樽と、あの出し物の小道具が入った箱だ。
さっき、その箱を板の裏まで運んだ時、ちょうど芝居の最中だった。馬車屋の倅の役の男が、しおれた花冠を首に掛けられて、誰もいない戸口に向かって鈴を鳴らし続けていた。客席は腹を抱えて笑っていた。
誰かが、こちらを指さした。
「おい、あれ、本物じゃないか」
笑い声が、もう一段大きくなった。ガスパールは箱を放り出すように置いて、逃げるように橋の下へ戻ってきたのだ。
そして、見てしまった。
灯りの並んだ石畳の上で、マノンが回っていた。
あんなふうに笑うマノンを、彼はずいぶん長いあいだ見ていなかった。最後に見たのはいつだったろう。思い出そうとして、思い出せなかった。去年の冬の誕生日も、その前の夏も、彼女はいつも、自分の隣で何かを待っている顔をしていた。
待たせていたのは、自分だった。
ガスパールは上着の胸に手をやった。何もない。
緑のハンカチは、いつだったか、熱を出したニネットの額を冷やすのに使って、それきり返ってこなかった。あの時も、自分は気前のいいことをしたつもりでいたのだ。
マノンの休日も、食卓も、家も、あのハンカチも。自分は全部、自分のものみたいな顔をして、よその人に配ってしまった。
石畳の上で、拍手が起こった。マノンは知らない男の隣に座って、その髪に触れていた。
彼女は一度も、橋の下を見なかった。
「おい、メランの! 手が止まってるぞ!」
荷揚げ場の頭が怒鳴った。ガスパールは返事をして、次の樽を担ぎ上げた。挟んだ指の爪が、ずきりと痛んだ。
◇
冬のあいだに、楡の家の白蜜橙が食べ頃になった。
皮も種も使い切って煮詰めて、義母に二瓶、北から梨をもらったお礼にもう一瓶を送った。レミのお母さんへの瓶には、あの梨を食べたのは妹ではなく私と義母だったことを、義母と二人で書き添えた。
仕事を終えたイーヴォは、ときどき夜遅くに楡の家の窓を叩いた。いい日のことばかりではない。お客と喧嘩して帰ってきた晩は、二人でゆっくり頭を冷やしたし、私が朝から寝台を出たくない日には、余ったスープを一人で温めて、黙って帰っていった。夜市の板の代金を働いて埋め終わった晩は、屋台で奮発した立派な魚を焚き火で焼いて、真ん中がまだ生で、二人で慌てて焼き直した。
ガスパールのことは、ときどき花市の女の人たちから聞いた。
今も荷揚げ場で働いている。配車の札は、とうとう彼の手には戻らなかった。年が明けてすぐ、メランさんは遠縁の甥を店に入れて、帳場を任せたそうだ。あの家の跡継ぎの話は、もう誰も彼の前ではしない。縁談を持ってくる人も、町には一人もいないという。
「花冠の弁償がやっと済んだってさ。指の爪は、まだ黒いままだったよ」
そう教えてくれた女の人は、それ以上は何も言わなかった。
ニネットからは、つやのない紙に書いた短い手紙が届いた。
『北のお母様に、もう一度手紙を書きました。春から一緒に暮らそうと先に言ったのは私です。レミの早合点だと書いたのは嘘でした、と。ユストさんのことも、私から結婚したいと言ったのだと、お母様に話しました』
北からも工房からも、あの子への返事はまだ来ていないそうだ。
その代わり、白蜜橙のお礼にと、レミのお母さんから義母へ便りが届いた。レミは北の郵便宿の娘さんと仲良くしていて、あの直した戸口から、近いうちにその人を迎えることになりそうだという。工房では泡の入った青い杯が評判になって、ユストの次の窯は、もう注文で埋まっているらしい。
義母の話では、ニネットは今、家の使いで市場へ買い物に行くようになったそうだ。もちろん、歩いて。七つ橋の前を通る時だけは、遠回りをするという。
あの子の手紙には、誰かに取りなしてほしいとは一言も書いていなかった。だから私は、その手紙には自分で返事を書いた。白蜜橙は煮詰めすぎると苦くなるのよ、ということだけを書いた。
◇
春のはじめ、朝日が差し込むと、逆さまに付けた木戸の蝶番が小さくきしんだ。
庭から入ってきたイーヴォが、踵のほつれた靴に糸を通しながら言った。
「僕はこの先も、夜はたいてい、誰かと踊ってると思う」
「分かってるわ」
「働いて帰ってくる場所が、ここだったらいいなと思ってるんです。窓を叩いていいか、明かりの具合を見て確かめなくてもよくて。僕が帰った時、あなたがぐっすり眠っていてもいい家に」
「そうしたら私、朝、あなたの寝顔が見られるのね。朝市に卵を買いに行くより前に」
「そこに、そんなにいいものがあるかなあ」
「あるわ」
私は、彼の前に立った。
踊りに誘う時と同じだ。この人は、私が先に踏み出すのを待っていてくれる。
「私と結婚して、イーヴォ」
彼は靴に通していた糸を勢いよく引きすぎて、蝋を引いた糸の端で、自分の鼻をはじいた。思わず伸ばした私の手を、彼がしっかりとつかんだ。
「はい。あなたの夫にしてください」
◇
翌月、橋の南の集会所で、ほんの小さな婚礼をした。
祝いの席の最初の曲を見世物に売ってくれと頼みに来る人など、もう一人もいない。私たちは乾杯のあとも長々と食べ続けて、義母に笑われた。
ニネットは父の隣の席で、自分の食べられるものだけを選んで、皿をきれいにした。誰も、あの子を踊りに誘わなかった。あの子のほうも、誰かを誘おうとはしない。日が暮れる前に一人で席を立って、自分の財布で辻馬車を拾って帰っていった。
その夜、二人で楡の家に帰ってきて、私は玄関で白い婚礼の靴を脱いだ。彼も、滑らないように靴をきちんと揃えた。
音楽は、もうとっくに止んでいた。
それでも私は、靴下のまま、玄関の床で踵を二つ打った。
とん、とも鳴らない。
それなのに彼は、ちゃんと私の左へ出て、手を取った。
「今の、聞こえた?」
「聞こえませんでした。でも、あなたの合図なら、もう分かります」
彼は少し笑って、つないだ手に力を込めた。
「それに、もう三歩目で踏まれる心配もありませんから」
私は笑って、もう一度、踵を二つ鳴らした。
音のしない合図に、私の夫は、今度もちゃんとついてきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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