第7話 好きな人の仕事
観覧札の机には、娘を連れた人が二人並んでいた。一人は小さな子の手を引いていて、もう一人は、自分より背の高い娘さんの腰をずっと支えていた。娘さんは長く立っていられないのだろう。立ち見ができないから、わざわざ席を取りに来たのだ。
その二人目の人が私に気づいて、あら、と声を上げた。義妹のお祝いに蜂蜜を贈ってくれた、橋の東の養蜂家の奥さんだった。
「マノンさん、出るんですってね。イーヴォと踊るところ、一度見てみたかったのよ」
「その舞台には出ません。イーヴォも、その仕事は断りました。もし私の妹の失敗を見せるという出し物なら、それはお金をもらった人たちが演じるお芝居です」
言い終えてから、自分の声が、商売敵の悪口でも言っているみたいに尖っていたことに気づいた。
札売りの若い娘が、困った顔をした。本当に困っている顔だった。この子は、言われた通りに札を書いて売っているだけだ。
「ごめんなさい、あなたを責めているんじゃないの。私はマノン・セルヴェ。ここに、私の名前で一筆書いてもいいかしら」
娘はほっとしたように紙切れを出してくれた。私はそこに、この興行に出る約束も、見に来る約束もしていないと書いて、日付と名前を添えた。娘はその紙を、二枚の木札のあいだに挟んでくれた。
それを見てどちらを信じるかは、札の前に立った人が決めればいい。
イーヴォが算盤を片手にやって来た時には、背の高い娘さんが「お芝居でもいいから見たい」と言って席を買っていた。一方で、空っぽの舞台をしばらく眺めてから、銅貨をしまって帰っていく人もいた。
「あなたのことは、あなたが書いて」と私は言った。
彼は札売りの娘から紙をもらって、自分の分を書き足した。興行主はその場にいなかったから、次に来た時に破り捨てられるかもしれない。それでも、今ここにいるお客と売り子には、本人の言葉で伝わった。
帰ろうとすると、イーヴォが「僕も一緒に行っていいですか」と追いかけてきた。いつでも好きな時につかまえられる、というような態度だったら、きっと腹を立てていた。でも彼は、算盤を落としそうになりながら必死に走ってきたので、私は、いいわ、と言えた。
「さっき、何が僕の都合なのか、言いそびれました。あんな芝居を断ったところで、あなたが夜市に来れば、興行師はやっぱりあなたを見世物にして稼げる。それが悔しくて、来ないでくれなんて言ったんです」
「私も一瞬だけ思ったの。あなたの損を、私が払ってしまえばいいって。失礼なことを考えたわ」
「それは断ってましたね。自分で決めて寄付した木ですから」
「私だって、行く先は自分で決めたいの」
「うん。そうですよね」
橋の上には、夕飯の揚げ油の匂いが漂っていた。揚げ鍋を洗っていた豆売りの女将さんと目が合って、私たちは挨拶だけして通り過ぎた。二人でゆっくり立ち止まって顔を見合わせられる場所なんて、橋を一つ渡っても、案外見つからなかった。
「マノンは、どうしたいですか」
「夜市には行きたい。あの板にこだわったのは、母があそこで踊ったからなの。でもね、板よりも、あなたと踊りたい。あの板で踊れても、隣にあなたがいなかったら、きっと腹が立って、結局あなたが来るのを待ってると思う」
彼は口を閉じて、川の両岸をしばらく眺めていた。
ひゅっ、と高い音がした。彼が歯のあいだから息を逃がした音だった。
「十六の頃、酒の席で、お前の母親の歩き方をやってみろって言われたんです。母は膝が悪くて、椅子から立つ時に、こう、裾を引きずるような歩き方をする。僕はその場の調子に乗って、そっくりに真似しました。皆が笑って、銅貨が飛んできた」
「お母様は、そのことを?」
「次の日、母と市場を歩いていたら、前の晩の客がすれ違いざまに言ったんです。『おお、そっくりだった』って。母は、何の話かとも聞きませんでした。ただ、僕の隣で、目立たないように歩幅を小さくしたんです」
イーヴォは、川から目を離さなかった。
「ああいうふうに人に覚えられるのは、もう誰にもさせたくない」
私は、彼が家賃ひと月分を失った話を、少し違うふうに聞き直した。
あの仕事を断ってくれたのは、私のためだけじゃなかった。この人が、この人でいるために断ったのだ。そのことが、なぜだか、私のために断ったと言われるよりずっと嬉しかった。
「七つ橋の向こうに、花売りたちが荷を下ろす石畳があるんです。夜市の終わりには、そこで誰でも勝手に踊っていい。店をたたんでいる人も、手が空けば混ざってくる。雇われた舞踏手の最後の仕事も、そこなんです」
彼は、私のほうを向いた。
「僕が最後のお客を送る頃に、来てください。見物の人は残ってるかもしれない。でも、僕たちが誰を踊りに誘うかは、僕たちで決められる」
「あなたのお仕事、終わるのはいつ?」
「夜番の鐘が二つ鳴って、最後のお客を椅子まで送ってから。来られますか」
「靴を持っていくわ。今度は私が右足で踏んでも、ちゃんと逃げられるようにしておいてね」
橋を渡りきると、石の欄干が途切れて、川沿いの道が広くなった。
二人並んで歩いても、もう人の邪魔にはならない。それに気づいたのは、たぶん同時だった。どちらからともなく手を伸ばしかけて、指の先だけが、二度ぶつかった。
三度目に、私は彼の手から算盤を取り上げた。
空いた彼の手が、やっと、私の手を包んだ。
「稽古の時の手と、たいして変わらないでしょう」
「全然違うわよ。先生の時のあなたは、自分まで震えてなんかいないもの」
「しまった。ばれないようにしてたのに」
道の端に、川へ下りる三段だけの石段があった。
彼が一段下に立つと、いつもは見上げている顔が、すぐそこに来た。
「マノン。僕は、あなたが好きです。最初の日、目を閉じて踵を鳴らしたあなたを見た時から、ずっと」
心臓が、踵の合図よりずっと大きく鳴った。
「私もよ。あなたが好き」
「キスしても、いいですか」
「一つだけ、条件があるわ」
「何です」
「次に私に会いたくなったら、踊りの用事なんか作らないで来てね」
彼が頷いた拍子に、鼻と鼻がぶつかりそうになった。唇が触れる前に二人とも笑ってしまって、肝心なところで、黙った。
彼の唇は、思っていたより乾いていた。
どちらの足を先に出しているかなんて、その夕方、私は初めて考えなかった。
◇
家に帰ると、父が居間の扉の前に立っていた。手には、ニネットが読みかけていた本を持っている。
「ミナに言われたよ。私は話を聞いているつもりで、結末ばかり聞きたがるんだそうだ。今日くらいは、あの子の話を途中まででも聞こうと思って来たんだが、具合が悪いと言って、もう眠っていた」
私は本を受け取って、扉のそばの小さな机に置いた。起きたらすぐ続きが読めるように、しおりを挟み直しておく。
「今夜はもう休ませてあげて。明日になったら、明日の分を聞いてあげればいいわ」
「お前も、私に何か言いたいことがあるんじゃないのか」
「あるわ。好きな人ができたの。その話は、私が話したくなるまで待っていてね」
父は困った顔をして、それでも「分かった」と言った。本の表紙をひと撫でしてから、私と一緒に扉の前を離れた。
私の手のひらには、彼の算盤の縁の跡が、まだうっすらと残っていた。




