第6話 迎えの馬を待つ男
メラン馬車店の二階の廊下は狭くて、二人並んではすれ違えない。
ガスパールはその廊下が好きだった。父が「配車は息子に任せてある」と言ってくれてからは、どんな客でも彼が先に通るのを待って、壁際に寄ってくれたからだ。
金曜の朝。その廊下で、彼のほうが壁に寄らなければならなかった。
相手は、背中に花籠を背負った、七十近い花売りの女だった。足取りはひどく遅いのに、帳場の前まで来ても、籠を下ろそうとしない。
「先週の金曜の話をしに来たよ。踊り草の花冠を七つ、お代を先にもらって仕立てたんだ。七つ橋の花嫁さんのお披露目に使うやつさ。約束の馬車が来ないもんで、若い子二人に抱えて走ってもらった。最後の三つは間に合わなくてね。花嫁さんが席に着いたあとで、もういらないって突き返されたよ」
女は籠を背負ったまま、駄目になった分を書きつけた紙を卓に置いた。仲間うちで損を数え上げて、花嫁の家とも話をつけるのに、一週間かかったのだという。
ガスパールは、いつもの笑顔を作った。
「あの日は、セルヴェ家のお客様のご都合で、どうしても車を回せなかったんです。あちらにも、少しご理解をいただければ」
「そのお嬢さんとなら、もう話したよ」
女は、ガスパールの顔から目を離さなかった。
「土曜にね、あんたんとこの空っぽの車が穴にはまったのを、後ろから一緒に押してくれた。何も頼んでないって、はっきり言ってたよ。あの子、私より腕に力があるんだねえ」
笑顔が、顔に貼りついたまま動かなくなった。
父は黙って、花売りの女に包みを渡した。客に返した代金と、手伝いの二人の日当。駄目になった花の代金は、市場の仲間に値をつけてもらった通りに払った。籠から出てきた三つの花冠は、輪がすっかり痩せていて、布張りの卓に落ちると藁屑みたいな音を立てた。
「ガスパール」
父の声は静かだった。怒鳴られるより、ずっと怖かった。
「火曜に、おれは言ったな。金曜の幌馬車は花市へ出せと。お前は分かったと言った。おれが北へ替え馬を届けに出ているあいだに、お前は何をした」
「ニネットの迎えの車も、出してやらなきゃならなかったんだ。花は、僕が軽馬車で二度に分けて運ぶつもりで」
「その客を、乗せたのか」
「……乗せなかった」
あの朝のことは、思い出したくもなかった。
祝いの日のあと、ニネットからは「しばらく迎えに来ないで」と言われていた。それでも、いつも通り幌馬車を出せば、あの子はきっと乗ってくれると思った。あの子は乗ってこない。仕方なく、馭者と幌馬車だけを店へ帰した。
それなら、自分が顔を見せればいい。マノンは朝から楡の家へ荷を運びに出る日だと知っていた。誰もいないうちに会いに行けば、あの子はきっと出てきてくれる。花市へ行くのは、そのあとでも十分間に合う。
そう思って、鈴の馬車で屋敷の前に乗りつけた。
呼び鈴を鳴らした。返事はない。もう少し待てば、と思って、二度目を鳴らす。窓の掛け布が少し揺れた気がして、三度目を鳴らした。
気がつけば朝霧はとっくに晴れていて、昼の鐘が鳴っていた。
ニネットは、一度も顔を出さなかった。
思い返すと、どこを切り取っても格好のつかない一日だった。せめて、気の毒な令嬢を救いに行った話にでもできれば、目の前の女も、こんなに長く自分の顔を見てはいなかっただろうに。
「来週から、花市の車はラウネの店に頼むよ」
花売りの女が立ち上がった。
「市場の皆で決めた。花嫁さんのところも、今度の身内の婚礼の車はラウネに頼むそうだ。メランの若旦那に任せたら、花より先に女の子を迎えに行っちまうってね」
父がたった一度、「もう一度だけ、うちに」と頭を下げた。女は、首を横に振るだけだった。
ガスパールは父の肩の後ろで口を開けたが、女が部屋を出ていくまで、自分からは何ひとつ言えなかった。
父は帳場の壁から、配車の札を外した。客の名前の横に時刻を書き込む小さな鉄筆も、馬屋の鍵束も、ガスパールの手から取り上げられていく。
「立て替えた分は、お前の貯めた金から出せ。セルヴェ家へのお詫びの金を払ったあとで、いくら残っているか知らんがな。足りない分は働いて返せ。明日から、荷を積む側だ」
「父さん、待ってくれ。それじゃ店の者に何て言えば」
「何て言うかは、お前が考えろ。配車は当分おれがやる。この店を誰に継がせるかも、考え直す」
その日のうちに、帳場の若い者たちは、ガスパールを「若旦那」と呼ばなくなった。
狭い廊下で人とすれ違うたびに、彼は自分から肩を壁に押しつけて道を譲った。花売りの女の背中はとっくに見えなくなっていたのに、その癖は、何日たっても抜けなかった。
◇
花売りの女の人から知らせが来たのは、その日の午後だった。
私が車を横取りしたという話は、市場の誰も信じていないそうだ。その代わり、七つ橋では別の噂が出回っているという。誕生日の席で妹が三人の男に求婚されたとか、私が三人を並べて鉢の水をぶちまけたとか、少しずつ面白く尾ひれのついた話が。
「水をかけてやればよかったのよ」
それを聞いた義母が、ぽつりと言った。
初めてこの人に会った日、私はさくらんぼの種を遠くまで吹き飛ばすやり方を教わった。亡くなった母とはまるで違う人で、私はそこが好きだったのだと、ふと思い出した。
「誰に? ニネットに?」
「まさか。私の娘を、何人に言い寄られたかで値踏みする人たちによ。あの子は人に嘘をついた。そのことで、あの子に腹を立てるのはいいの。私だって腹を立ててる。でもね、今朝、知らない男が勝手口に来て、お宅の娘さんにはいくら払えば会えるんだって、笑ったのよ」
義母の膝には、北の梨が入っていた鉢が、空っぽのまま載っていた。もう両腕で抱えるほどの重さもないのに、手を離せずにいる。
「つらいわね」
「マノンに言っていいことだったかしら」
「いいのよ。あとで、お父様にも同じように聞かせてあげて」
お祝いの日から、父は家の中を早足で通り過ぎてばかりいる。居間の椅子に誰かが座ると、自分は書斎へ行ってしまう。昔は、義妹が眠れない夜に本を読んでやっていた人なのに。今度のことも、一度くらい最後まで聞いてやればいいのに、と思う。
◇
夕方、次の稽古の日を決めに、またイーヴォに会いに行った。
七つ橋には足の絵の看板が出ていた。踊りの板の端で、見たことのない男が、縄の長さを測りながら杭を打っている。
「イーヴォさんなら裏ですよ。おや、お嬢さん、もしかしてあの話のお姉様? ははあ、こりゃいい。役者がそろった」
そろってないわよ、と喉まで出かかったのを、飲み込んだ。今日の私は、口が少し乱暴になっている。
板の裏で、イーヴォは算盤をはじいていた。大きな体をうずくまらせて膝に肘を載せると、思っていたよりずっと小さく丸くなれるらしい。
「七つ橋の興行を仕切ってる人が、あなたの妹さんのお祝いを踊りの出し物にしろって言ってきたんです。花婿が三人、出てくるたびにお客がはやし立てる。最後は姉妹が客席に降りてきて、つかみ合いの喧嘩をするんだそうです」
「何それ。私がいつ喧嘩なんかしたの」
「演じるのは、雇われた別の女の人たちですよ。もう二人そろえたって。三人目の花婿役は僕だそうです。僕だけは、その場を見てるからって」
彼の目の色は変わらなかった。でも、算盤の珠が、一度に十個もはじかれた。
「やるの?」
「今朝、断りました。そうしたら、毎年僕がもらってた夜市の一刻は、ほかの一座に回されました。板の木はもう組合に寄付してある。夜市の稼ぎで埋めるつもりだったから、ちょうど家賃ひと月分の持ち出しです」
いっそ私が払ってしまいたかった。でも、彼の膝の上の算盤の、どの列に私のお金を入れればいいのか、私には分からなかった。
「じゃあ、夜市の日はどこで踊るの。私、一曲、あなたを追い越すつもりでいたのに」
「この板では、もう夜市には踊れません。マノン、今年は広場へ来るのをやめませんか」
彼が自分のお金で買って張った、まだ新しい板の継ぎ目から、釘の頭が小さくのぞいていた。十分前まで、私があんなにわくわくしていた場所だった。
「それは、誰が私にそうしてほしいって言っているの?」
「僕が、僕の都合で、そう言っています」
そこまで正直に言われると、なおさら素直には頷けなかった。
「少し考える。あなたも考えて」
積んであった椅子を飛び越えないように、ちゃんと通り道へ戻った。彼は追いかけてこなかった。
橋のたもとに机が出ていて、夜市の踊りを正面で見られる観覧札を売り始めていた。
その木札に、さっきまでなかった一行が書き足されていた。
『ご本人もお越しの予定』
まだ乾いていないインクが、古い札の木目に、黒くにじんでいた。




