第5話 杯を買ったふたり
工房の戸を開けてくれるのは、いつもユストのほうだった。
だからニネットは、真鍮の取っ手がこんなに煤で汚れていることを、今日まで知らなかった。
月曜の午前。彼女は銀貨を何枚か小さな袋に入れて、生まれて初めて、自分の手で工房の戸を引いた。
ここまで来る道でも、何度か視線を感じた。パン屋の前で立ち話をしていた女たちが、ニネットに気づいたとたんに声を落とした。三人、という言葉だけが、はっきり耳に届いた。
「あの杯を、買わせていただきたいの。手間賃も含めて、ちゃんとお支払いするわ」
職人たちは「いらっしゃい」と一度ずつ言ったきり、それぞれの手元に目を戻した。七人もいるのに、誰ひとり笑いかけてこない。前に窓の色硝子を頼みに来た時は、皆が手を止めて、お嬢さん、お嬢さんと椅子を勧めてくれたのに。
奥で誰かが、ふん、と鼻を鳴らした。
「売れましたよ」とユストが言った。
ニネットが顔を上げると、奥の窓際で、髪の薄い男の人が、隣の奥さんのために青い杯の底を支えていた。奥さんの片方の手は、うまく曲がらないらしい。彼女が水を飲み終えると、男の人も同じ形の自分の杯を取って、ゆっくり口をつけた。
陽の光の中で、泡が一つ、きらりと浮いた。
「この前の水曜が、親方夫婦の結婚三十年のお祝いだったんです。売れなければ砕いて溶かし直すつもりでしたが、お二人とも泡がお好きだそうで」
体のどこかを、棒で叩かれたような気がした。
あれは私の杯だったのに。私のために吹いた杯なのに。あの人たちは何の遠慮もなく、ただの水なんか入れて飲んでいる。
その気持ちが顔に出てしまったことを、ニネットはユストの目を見て知った。
「同じものを作れないかというご注文でしたら、商売ですから、次の窯で承ります」
「そうじゃないの。私、あの杯を大切に思っていたのよ」
「なら、底に何が入っていたか、覚えていますか」
泡、と言いかけて、口をつぐんだ。
それは、たった今あの夫婦の杯を見て知ったことだった。あの日、目の前に置かれた杯を、自分はろくに見てもいなかった。彼にはそれが分かっている。
「お願い。うちの母や、町の人たちに言ってほしいの。私があなたのところへお嫁に行くと約束したなんて、あなたの思い違いだったって」
「思い違いでしたか」
耳の後ろが、かっと熱くなった。
傷つけたのは悪かったと思っている。でも、あの時は本当に、そうなれたらいいと思ったのだ。それを嘘つきのように言われるのは、あんまりだった。
「元気になれたら、って言ったわ。今だって、こんなに足がふらつくのに」
「椅子ならそこにあります。水もどうぞ。でも僕は、きみの言ったことを、なかったことにしに行くつもりはありません」
ユストは工房用の分厚い素焼きの杯に水を注いでくれた。それから、濡れた手のまま炉に戻ると危ないからと、布で指の間まで丁寧に拭いた。その手順を一つも省かず、ニネットが椅子に座るのを見届けることもなく、自分の持ち場へ戻っていった。
さっきの夫婦が杯を布に包んで、戸口から出ていく。
ニネットは一口だけ水を飲むつもりだった。けれど喉がからからで、結局ぜんぶ飲み干してしまった。
帰りに自分で戸を引くと、今度は取っ手の煤が、白い手袋にべったりと移った。
背中で、誰かが小さく言った。
「あれが、三股の」
◇
北へ帰るレミの荷物は、着替えより手紙のほうが多かった。
その日の午後、郵便馬車の馭者席の下に鞄を押し込んでいると、伯母の家の使いが呼びに来た。ニネットが表に来ている、という。
レミが立ったままでいると、ニネットも立ったまま話そうとした。顔色はあまりよくない。それを見て、彼は先に荷台の段に腰を下ろした。ニネットも隣に座った。手には、レミの母親宛ての封筒を持っていた。
「私ね、本当に悪かったと思ってるの。お母様には、あんなによくしていただいたのに」
「そう書いたのかい」
「あなたが少し早合点なさったって、書いたわ。そうすれば、次にお会いした時も、お母様は私を怒ったりなさらないでしょう」
レミは黙って封筒を受け取った。
軽かった。中の便箋は、せいぜい一枚だろう。たった一枚で、母ちゃんの春が片づけられてしまう。
「これは、あんたが書いたまま母ちゃんに渡す。勝手に開けたりはしない。でも、おれもあの家に帰るんだ。おれが聞いたことは、おれの口から母ちゃんに言う」
「それじゃ、私一人が嘘つきみたいじゃない」
「二人そろって嘘つきになる用はないさ」
出発の時刻を告げる声がして、レミは封筒を、宛名を上にして鞄にしまった。
母ちゃんは昔から、封の端を破かないように、小刀でていねいに封を切る人だ。きっとこの封筒も、いつも通りきれいに開けるだろう。中に何が書いてあっても、たぶん最後まで読む。
それを思うと、胸がつぶれそうだった。
「もし、お母様がお返事をくださったら」
「母ちゃんの手が、いつまでもあんたのために空いてると思うなよ」
手笛が鳴った。
ニネットが立ち上がったあと、荷台の段には、スカートの飾り糸が一本残っていた。前のレミなら、お守りだと言って大事に取っておいただろう。
彼はそれを、馬の抜け毛と一緒に、手で払って落とした。
◇
木曜、豆売りの屋台へ行くと、イーヴォがお腹の底から犬みたいな声を出していた。
豆売りの女将さんの下の子が、さやいんげんを二本、耳の代わりに頭へ立てて、彼に向かって吠え返している。二人とも私に気づくと、きちんと犬の挨拶をしてくれた。私は鼻を鳴らせなかったので、ふつうにお辞儀をした。
豆の煮込みは底に揚げパンが沈めてあって、食べている途中で女将さんが汁を足してくれる。座らないと食べられないところが、二人で来るのにちょうどよかった。
「いつから舞踏手になったの?」
「初めてお金をもらったのは、十三の時です。お客は男の人で、亡くなった奥さんがいつも先を踊る人だったからって、僕が先をやりました」
「それ、あなたじゃなきゃ駄目だったの?」
「ほんとはうちの姉に頼みたかったらしいんです。でも姉はもう嫁に行ったあとで、僕しか残ってなかった。それがすごく楽しくて、次の週は僕のほうから声を掛けました」
豆をかじりながら笑ったら、皮が鼻のほうへ入ってむせた。彼が差し出してくれた布巾には、両端にうさぎの耳が縫いつけてあった。女将さんの子のものだった。
「なんだか、ずいぶん大事な話まで聞いちゃったわね。初めてお金をもらった時の話、お客さんにはみんなしてるの?」
「みんなにはしません。気になるなら、ほかの人にも話すかどうか、毎回聞いてくれていいですよ」
「嫌なの。そんなことを聞く自分が」
口に出してから、自分の声のほうがずっと冷たく響いたことに気づいた。皿の縁に添えられていた彼の手が、そっと離れる。
「ごめんなさい。最近、つい確かめたくなるの。その言葉は、本当に私一人に言ってくれたのかって」
イーヴォはすぐには何も言わなかった。それから、少し考えるような顔をして言った。
「一度、僕の仕事を見に来ますか。橋の南の集会所で、僕は一晩に何人もの人に、あなたと踊れて嬉しいって言います。本当に嬉しいから言うんです。それを見てから、僕の言うことを信じるかどうか、決めてくれませんか」
◇
夕方、私は一人で集会所の戸を開けた。
踊りに来る人は、みんな踊りが上手なのだと、どこかで思い込んでいた。でも、そこにいたのは、つま先に祖父の大きな革靴を引っかけた小さな男の子や、生まれたばかりの赤ん坊を肩に載せて、夫が戻るまで壁にもたれて片足で拍子を取っている女の人だった。腕組みをしたまま、ずっと黙って見ているおばあさんもいる。
イーヴォは、そのおばあさんの前に立って、指先を差し出した。
ほんの少し歩くだけ、と頼まれたらしい。二人は向こうの柱まで、八歩かけてゆっくり渡った。柱の前で、今度はおばあさんのほうが彼を手招きした。何かと思えば、曲がった指で、彼の垂れた前髪をそっと耳にかけてやっている。
ちくり、とした。
腹が立った、というほどではない。おばあさんをどかしたいわけでも、彼にこっちを向いてほしいわけでもなかった。
ただ、あれが自分の指だったらいいのに、と思っていた。
私はその日、初めて、この人の髪に触れてみたいと思ったのだ。
仕事を終えた彼が、人をかき分けてこちらへ来た。
「帰り、送ってもいいですか」
「ええ。でも、その前に、ちょっとじっとしていて」
私は、また落ちてきていた彼の前髪を、指で耳にかけた。
彼は、さっきおばあさんにしたようには笑わなかった。代わりに、ごくり、と大きく喉を鳴らした。その音につられて、私まで息をのんでしまう。
「反対側も、って言ったら、厚かましいですか」
「今夜は、片方だけ」
そう答えた自分の耳まで、熱かった。
並んで帰るあいだ、私たちは二度も、曲がるはずの角を通り過ぎた。




