第4話 あなたの家へは嫁がない
火曜日、ガスパールのお父様が、配車の札を作業着の胸に引っかけたまま、うちへ話をしに来た。
メランさんは町でいちばん大きな馬車屋の主人で、私の父とは若い頃からの付き合いだ。ガスパールは父親の隣に座ったきり、最初の挨拶のほかは口を開かなかった。親同士が話しているあいだじゅう、靴の先で絨毯の毛をこすっている。
それなのに、話が自分のことに及んだ途端、急に身を乗り出した。
「父さん。マノンが怒っているのは、僕が順番を間違えたからだ。先に結婚してから、ニネットのことを相談すればよかったんだよ」
順番。
この人は、まだそんなふうに思っているのだ。
「なあ、マノン。前の君は、そんなに意地っ張りじゃなかっただろう」
「ねえ、ガスパール。私が二十になった冬のこと、覚えてる?」
向かいの席の父親二人も、こちらを見た。
「去年の冬なら、ニネットの看病で」
「もっと前よ。市場の帰りに馬車の軸が折れて、二人で歩いたでしょう。私の靴底がはがれたのをあなたは笑って、胸に挿していた緑のハンカチで、靴をぐるぐる縛ってくれた。泥だらけになって、洗っても落ちなかったのに、あなたは春になってもそれを胸に挿してた」
「ああ。君がいつも笑ってた頃だ」
そうだ。だから、好きだった。
困っている人がいれば、その日のために磨いておいたものだって迷わず差し出せる人。そういうところが好きだった。
でもいつの間にか、彼が気前よく差し出すものの中に、私の休日と、私の食卓と、私の家が入るようになっていた。
「あの日みたいに、もう一度笑ってくれよ。断られた僕の気持ちも考えろって言うなら、これから毎日だって考えるさ」
「私はまだあなたが好きだった頃に、お願いしたはずよ。よその人の前で、私の返事を勝手に作らないでって」
彼が、テーブル越しに手を伸ばしてきた。
私はその手を取って、そっと彼のほうへ押し戻した。押し返すためだけに手を握るのは、思っていたよりずっと寂しかった。
「この婚約は、終わりにします」
ガスパールが椅子を鳴らして立ち上がった。
「そこまで言うなら、こっちだって!」
けれど、その先は続かなかった。父親に袖を引かれて座り直すと、彼はもう何も言わなかった。
父が署名し、私も署名した。最後に、メランさんが日付を書き入れた。
「それから、もう一つ」
メランさんはペンを置いて、息子のほうを向いた。
「ガスパール。お前は去年から、金曜ごとにうちの幌馬車をセルヴェ家へ回していたな。ニネットさんの湯治の送り迎えだ。マノンさんに頼まれたからだと、お前はおれに言った。今週の金曜も、花市に約束した車をこちらへ回してほしいと頼まれている、と。それも違うのか」
私は思わずガスパールを見た。
「そんなこと、一度も頼んでいません」
湯治の送り迎えなんて、今の今まで知らなかった。金曜ごとにニネットが出かけていたのは知っている。でもそれは、ガスパールが自分の家の馬車を好意で出しているのだとばかり思っていた。
まさか、よそのお客に約束した店の車を、私の名前で。
「だって、結婚すれば身内のことになるんだ。マノンの妹の世話なんだから、同じことだろう」
「同じじゃない」
メランさんの声は低かった。
「金曜の幌馬車は花市へ出す。七つ橋の花嫁さんの花冠を運ぶ大事な仕事だ。いいな」
「……分かってるよ」
メランさんは札を指の間で曲げながら、私の父に向き直った。
「この度のことは、全部うちの倅の不始末です。お詫びの金は、こいつが自分で貯めた分から払わせます」
「父さん、あれは結婚のために貯めた金で」
「その結婚を壊したのは誰だ」
ガスパールは、それきり黙った。
メランさんは、明日の朝六時に帳場へ来いと言って、息子を先に帰らせた。私は父たちに、花市の件だけはもう一度確かめてほしいと頼んだ。見ず知らずの人に、私が仕事の車を横取りしたと思われたままでは、市場の前を通るのも落ち着かない。
◇
土曜の七つ橋で、イーヴォは右の袖をなくしていた。
片腕だけむき出しにして、屋根の上の猫に向かって文句を言っている。
「それ、もう切れ端なんだから! 置いていきなよ!」
猫の足元には、裂けたシャツの袖が筒のまま転がっていた。中から橙色の毛玉が鼻先だけ出して、みいと鳴く。いちばん小さい仔のために、母猫が寝床をこしらえてしまったらしい。
「悪いけど、私なら猫にあげるわ」
「僕だってそうしますよ。返せって叫んで、返してもらえたためしがないんだから。え、そんなにおかしいですか」
私は声を上げて笑っていた。ガスパールとあんな話をした週に、こんなに簡単に笑えてしまう自分が、なんだか妙におかしかった。
踊りの板は、すっかり張り替えてあった。聞けば、イーヴォが新しい板を一間分、自分のお金で市の組合に寄付したのだという。
「毎年、夜市の踊りの仕事を引き受けてるんです。それで木の代金くらいは取り戻せるし、誰かが足の裏を怪我するよりずっといい」
靴を履き替えて走ってみると、板の端だけが少し沈んだ。そこを外して、下に薄い板をかませる。
それから今度は私が先に立って、イーヴォがついてくる形で走った。細長い板の上で二人分の体重がかかった瞬間、私は踏み出す足を間違えて、彼を板の外へ押し出してしまった。
とっさに、袖のなくなった方の腕をつかんだ。汗で指が滑って、彼の手が私の腰のあたりをかすめて、それで二人とも地面に落ちた。
痛いより、情けなかった。膝が草で青く染まっている。
「まっすぐ走れって、言ってくれればよかったじゃない」
「先生ならそう言います。でも今日は、走ってみてくれって僕から頼んだんだから。あなたには一回、僕を転ばせる権利がある」
「もう使い切ったわね」
彼は地べたに仰向けになったまま、ようやく笑った。片手を目の上に載せている。その手の甲には、猫の細い引っかき傷があった。
「夜市にもそのシャツで来てくれたら、はぐれてもすぐ見つけられるわ」
「はぐれるくらい、一緒にいてくれるんですか」
「あなたが働いていない時間ならね。いつなら空いてる?」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。板の割れ目を確かめるふりをして、目を落とす。彼のほうからも、何か言いかけてやめる気配がした。
「婚約者と、別れたの」
「それは、僕が聞いてよかった話かな」
「さっきの質問に答えてほしいから、言ったのよ」
イーヴォは起き上がった。私のスカートには払うほどの草もついていなかったのに、彼は払いたそうに手を伸ばしかけて、指を一本だけ浮かせて、それから握り込んだ。
「毎週木曜。昼の稽古が終わったら、七つ橋の豆売りのところで食べてます。そこに、あなたに来てほしい」
「じゃあ、次の木曜日に」
「今度は、走らなくていい服で」
さっき腕をつかんだ時より、五日も先の約束をしている今のほうが、ずっと照れくさかった。
◇
帰り道、花市の入口に、メラン馬車店の幌馬車が止まっていた。
荷台は空っぽで、車輪が石畳の穴にはまって市場の入口をふさいでいる。花売りの女たちが総出で車体を持ち上げようとしていて、誰もこちらを振り向く余裕がない。
私は裾を帯に挟んで、一緒に押した。
ようやく車輪が穴から抜けると、年配の女の人が、籠の中から折れた花を一本くれた。茎が途中でぽっきり折れた、真っ白な踊り草だった。
「ありがとね、お嬢さん。ほんとは昨日来るはずの車だったんだよ。花嫁さんの花冠を運ぶのにさ。それが一日遅れで、空っぽのまま来てこの始末だ」
「昨日、来なかったの?」
「来なかったよ。おかげで若い子に抱えて走らせて、それでも三つは間に合わなかった。そしたらメランの若旦那が使いをよこしてね。セルヴェのお嬢さんの頼みで、どうしても車を回せなかったんだってさ」
私は、もらった花を握りしめた。
「私は、何も頼んでいません」
女の人は、私の顔をじっと見た。それから汗を拭いながら、ふうん、と言った。
「あんた、セルヴェのお嬢さんかい」
「ええ。マノン・セルヴェです」
「泥だらけで車を押してくれるお嬢さんが、人の花を横取りするとは思えないねえ」
私は花を上着の穴に挿した。折れた茎の先で、白いつぼみがうなだれた。
あの人はまた、私の名前を使ったのだ。父親の前であれほど釘を刺された、その週のうちに。




