第3話 あなたの「唯一の人」
小部屋に入ると、私が並べておいた椅子のうち、二脚が廊下に出されていた。
「ニネット、椅子は?」
「私は長く立っていられないから、ここに座るわ。お客様の椅子は一つあれば足りるでしょう。お一人ずつ順番にお話しすれば、そんなにお待たせしないもの」
三人とも一緒に聞くと答えたことは、ちゃんと伝えてある。それでもこの子は、一人ずつ部屋に呼んで、いつものように丸め込むつもりでいるのだ。
私は黙って廊下の椅子を二脚とも戻し、義母のためのもう一脚を壁際に置いた。私と父は立っていればいい。
「あなたの『唯一の人』は、全員お招きしたわ、ニネット。三人とも、一緒に聞きたいそうよ」
扉を開けると、三人が入ってきた。
郵便馬の上で日に焼けたレミが、窯の火で頬の赤いユストのほうを見た。ユストは椅子を少し引いて、レミを先に通した。私の婚約者だけが、自分が座るはずのなかった椅子を見て、あからさまに不満そうな顔をした。
「診察の順番待ちみたいに並べて、いったい何の意味があるんだ」
「さあ。私も、それを聞きに来たの」
私は扉を閉めた。義母が台所から小さな水差しを持ってきて、妹のそばに置いた。
最初に口を開いたのは、いちばん口数の少ないレミだった。
「母ちゃんが、北の家の戸口を直したんだ。あんたが来るなら、隙間風が入っちゃいけないって。あんたが『私にはレミしかいない』って書いてくれた紙を見せたら、母ちゃん、昔なじみの大工まで呼んでさ。いや、直したことは気にしないでくれ。前から蝶番はきいきい鳴ってたんだ。ただ、来ないなら来ないって、次の便で母ちゃんに言ってやりたい」
「行くわ。レミのお母様には、お会いしたいと思っているもの」
「会うだけかい」
ニネットはレミの手を取ろうとした。けれど、彼が膝の上で固く組んだ指は、ほどけなかった。
「母ちゃんに書いてくれって、あんたが言った文句、おれはちゃんと覚えてる。『春から息子さんと同じ名字を名乗ります』。あれは、おれが勝手に結婚の話だと思い込んだってことかい」
「そう受け取ってくれて、あの時は嬉しかったの」
答えになっていない。レミは何も言わずに、組んだ指にぎゅっと力を込めた。
次に、ユストが木箱を開けた。青い杯を一つ取り出して、ニネットの目の前に置く。
「僕の名前では、足りませんでしたか」
責める声ではなかった。それが、私にはかえって腹立たしかった。
工房の二階で一緒に暮らせると信じ込ませたのは妹のほうだ。なのにどうしてこの人が、自分の名前が足りなかったのかなんて悩まなければならないのだろう。
「いいえ。ユストさん、これ、なんてきれいなの。私の口にちょうどいい大きさだわ」
「きみが前に工房で、自分の手を当てて決めた大きさだもの。底の泡を二人で探すのを楽しみにしてたんだ。お母様には、僕から話しましょうか」
「それは、私から話すわ」
ニネットはちらりとガスパールを見た。
彼は上着の襟についた銀色の糸くずを、指でつまんで取っていた。いつもの彼なら、とっくに「ニネットを困らせるな」と割って入っているところだ。でも今日は、北の戸口の話と青い杯の話を聞いたあとで、その列に自分が並ぶのは損だと気づいたらしい。
「僕はマノンと結婚する。ニネットの世話はしてきたし、これからもするつもりだが、それだけだ。僕まで同じように並べないでほしい」
ユストが、ゆっくりと顔を上げた。
「メランさん。一週間前、屋敷の玄関で、あなたはお嬢さんに言いましたね。『あの日、皆に僕たちのことを話そう。君には僕しかいないんだから』と。僕はあの時、玄関の段に座っていました」
ガスパールの口が、半分開いたまま止まった。
「あれは、その、ニネットを楡の家に迎えることを皆に話そうという意味で」
「私の家に、ね」
私がそう言うと、妹の頬からすっと赤みが引いた。
「ガスパール様、私におっしゃったでしょう。あの家なら、二人きりの時間が持てるって」
「空いている部屋を使うことと、結婚することは別の話だ」
「空いてないわ。私が寝る部屋よ」
私の言葉に、それまでずっと下を向いていたレミが、初めてこちらを見た。
ニネットは喉を押さえた。ユストが腰を浮かせかけて、また座る。義母が水を注ぐと、妹は自分の手でそれを受け取った。黄色い、普段使いの杯だ。
扉の向こう、廊下の先の食堂で、大皿を置く音がした。家の者たちは、今日がふつうの誕生日だと思って、朝から煮炊きをしてくれている。
「踊らなくてもいいのよ。お母様に紹介したい人の名前だけ、ここで言ったらどう?」
私がそう勧めると、妹は水をひと息に飲み干して、首を横に振った。
「嫌。皆さんに聞いていただきたいの。私のお祝いですもの」
その目を見て、分かった。
この子は、まだあきらめていない。この部屋で断られても、大勢の前で手を差し出せば、ガスパールは紳士の顔をして断れない。そう踏んでいるのだ。
義母が私の腰のあたりにそっと手を添えた。止めるつもりなのかと思った。でも義母は、閉めた扉を開けるために、私の脇を通りたかっただけだった。
◇
夏には窓からさくらんぼに手が届く食堂で、十二人ほどのお客が待っていた。ほとんどが親戚と、うちによく食事に来る顔なじみだ。
ニネットは上座で蝋燭の前に立ち、火を吹き消した。最後の一本がなかなか消えなくて、皆が笑った。その時の妹は、本当に楽しそうだった。
「お母様。来年もこの席にお招きしたい方がいるの」
妹が手を差し伸べた先にいたのは、私の婚約者だった。
彼は壁を背に立っていた。そこから離れようとすれば、妹のすぐ脇を通るしかない。
「ガスパール様が、春には楡の家へ迎えてくださるの。眠れない夜も、ずっとそばにいてくださるって。ね、ガスパール様」
食堂の空気が、ぴたりと止まった。
叔母が持っていたフォークを皿に落とした。誰かが「婚約者の前で」とつぶやき、別の誰かが「楡の家って、マノンの」と言いかけて口をつぐんだ。十何人分の目が、いっせいにガスパールへ向く。
彼は、そこでようやく気づいたようだった。この手を取らなければ、紳士としての顔が潰れる。取れば、もっとひどいものが潰れる。
誰も、身動きしなかった。
「ニネット。彼があなたを私の家に入れると言ったのは、私が許したからだと聞いたの?」と、私は尋ねた。
「お姉様も、私が来ればきっと喜ぶって」
「私はその話を先週、洗濯物を取り込む前に初めて聞いたの。その場でお断りしたわ。私の家に、あなたの寝台はありません」
妹は空いていた左手で、椅子の背をつかんだ。
ガスパールがようやく、差し出された右手を取った。妹の顔がほころびかけた、その途端。彼はその手を椅子の肘掛けまで運んで、ぱっと離した。
熱い鍋の取っ手でも置くみたいに。
「話はあとにしよう。ここで大げさにすることはない」
そして彼は、何事もなかったような顔で、私に腕を差し出した。
私はその腕を取らなかった。
「マノン。僕はあの子に弱いんだ。それを承知で、嫁に来てくれるんじゃなかったのか」
「承知したことにしてきたのは、あなたよ。来週、あなたのお父様にもお話しします。楡の家には、あなたの寝台も入れません」
その時のガスパールの顔は、悲しそうですらなかった。ただ、何が起きたのか分からないという顔をしていた。いつもなら笑ってごまかせば済むはずの場所で、誰ひとり笑っていなかったからだ。
客の誰かが、小さく咳払いをした。それを合図にしたように、ひそひそ声があちこちで湧いた。ガスパールの耳が、みるみる赤く染まっていく。差し出したままの腕を下ろすきっかけさえ、彼は見つけられずにいた。
レミは食堂の敷居に立ったまま、すべてを見届けていた。それから、まっすぐ義妹の名を呼んだ。
「ニネット。母ちゃんの手紙は、おれが持って帰る。北へは来ないってことでいいんだな。次に母ちゃんへ書く時は、あんたが自分で書いてくれ」
妹は、うつむいたまま頷いた。
ユストは最後まで食卓には近づかなかった。遠くから義母にだけ深く頭を下げて、蓋を閉じた木箱を抱えて出ていった。
あとになって、何人もの人から、あの時どんな曲がかかっていたのかと聞かれた。曲なんて、どこからも聞こえていない。台所で桃の蜜を煮詰めていて、甘い匂いがしていただけだ。
祝われるはずだった本人は、少し休んでから、自分の分の桃を半分だけ食べた。
その日、誰も踊らなかった。
◇
お礼を言いに廊下へ出ると、イーヴォが両腕に椅子を抱えていた。二脚の脚が体の前で絡まって、身動きが取れなくなっている。
「靴、持ってきたのに出番がなかったわ」
「なら、次の土曜に履いてください。いま夜市の板を張り直してるんです。試しに走ってくれる人がいると助かります」
「踊るんじゃなくて?」
「悪い釘があったら、まず僕が踏みますから」
私は絡まった椅子を一脚引き抜いて、彼の腕を自由にした。
今日は朝からずっと、息を吸い足りないまま喋ってばかりいた気がする。でも、この人に会う用事が来週もある。そう思ったら、やっと喉の奥まで空気が入ってきた。
その時、背後で扉が開いて、ニネットが一人で廊下に出てきた。
「お姉様。ユストさん、あの杯、二つとも持って帰ってしまったの?」
「ええ。ご自分で抱えてね」
「そう、残念。片方、ガスパール様に差し上げたら、きっと喜んでくださったのに」
イーヴォの腕の中で、椅子が、ぎしりと鳴った。




