第2話 三通とも同じ時刻に
ユストが勢いよく立ち上がったはずみに、木箱が段の角にぶつかった。中の硝子が鳴る。
馬車の前の二人が、そろってこちらを振り向いた。
「あら、ユストさん。お願いした窓なら、もうちゃんと開くわよ」
ニネットがにっこり笑った。
その一言で、ユストはただ窓を直しに来た職人ということにされてしまった。隣で彼が黙って一歩下がるのを見て、胸の奥が冷たくなった。同じことを、私も何度もしてきたからだ。ガスパールが来なかった食卓で、余った椅子を何も言わずに壁際へ戻したのは、いつも私だった。
「杯を見せにいらしたのよ。箱はこちらで預かりましょうか?」
「いいえ。自分で持って帰ります」
ユストはニネットの目を見て、何か言ってくれるのを待っていた。けれど妹は、手袋の指を一本ずつ引っぱって直すのに忙しいふりをしていた。とっくにきちんとはまっている指を、何度も何度も。
「夕方、工房へお邪魔してもいいかしら」と、私は彼に尋ねた。
「閉める前なら」
彼は私にだけ会釈をして、帰っていった。
ニネットが家の中へ入るのを待って、私はその場でガスパールに聞いた。さっきの「君には僕しかいない」はどういう意味なのか、と。楡の家の寝室を義妹に譲るつもりはないことも、もう一度はっきり言った。
「僕の口から、あの子に話す」
「婚約者の私には、何を話してくれるの?」
「祝いの日まで、あの子に説明する時間をくれ」
私との婚約を続けたいのか、続けたくないのか。そう聞いても、彼は答えなかった。そのまま鈴の馬車に乗って帰ってしまった。馬車に乗り込むまでのあいだに、答える時間ならいくらでもあったのに。
◇
日暮れの硝子工房で、ユストは磨き布に顔を近づけて杯を点検していた。私の顔を見るなり、二つとも割れていませんでしたと教えてくれた。
「私とガスパールが婚約していることは、ご存じなのよね」
「ええ。だから、そのうちあの人を義兄さんとお呼びするんだとばかり思っていました。お嬢さんは僕に、『私にはあなたしかいない』と言ってくれたんです。工房の二階の狭い部屋を見ても、ここで暮らせたら幸せだって。僕は、その言葉を信じました」
笑うところなんてどこにもないのに、喉の奥で変な音がした。
私にはあなたしかいない。君には僕しかいない。同じような言葉が、同じ家の中で、違う男の人に配られていたのだ。
「ごめんなさい。さっきは玄関で、何も知らないような顔をしてしまって」
そう謝ると、ユストは一度、強く唇を噛んだ。
「工房の皆は、僕がこの頃早く帰るのを知っています。お嬢さんと暮らす二階の窓枠を、自分で直していたからです。もし話が違うのなら、皆には僕の口から言わせてください」
「ええ。それと、今日聞いたことを、あなたの名前を出して妹に確かめてもいい?」
「確かめてください。もしお嬢さんが、先に僕と二人で話したいと言うなら、その言葉も聞きたいです」
帰り道、私は一度も踵を打たなかった。
◇
翌朝、義母の部屋の卓に、蜂蜜色の小さな梨が四つ入った鉢が置いてあった。
「北の、レミのお母さんからよ。うちのニネットをお嫁に迎えるのが楽しみです、って一筆添えてあって。そんな話、私は初耳だから、マノンにも聞こうと思っていたの」
読んでいいわよ、と義母が手紙を渡してくれた。
『お二人で帰ってくる春を、心待ちにしております』
その一行のすぐあとで、書き手はもう梨の食べ頃の話に移っていた。わざわざ念を押す必要もないくらい当たり前に、春には息子が嫁を連れて帰ってくると信じているのだ。
レミから妹宛ての手紙が届くたび、私は菓子盆と一緒にあの子の部屋へ運んでいた。北の峠で郵便馬を乗り継いでいる人だから、ただのお見舞いの便りだと思い込んでいた。
昼前、そのレミが、義母の書いた返事を受け取りに来た。休暇のあいだは東門の伯母さんの家に泊まっているという。受け取った手紙を大事そうに帽子の内側へしまった彼に、私は義母の許しをもらってから、梨に添えられていた言葉のことを話した。
「母に、何て書き送ればいいですか」
レミは義母ではなく、私に聞いた。
「私にも分からないの。私の婚約者と、硝子職人のユストさんにも、妹は将来の約束をしているらしいのよ。お母様への手紙は、あなたがニネットから直接話を聞いてから決めて」
彼は大きな手を鉢の縁に掛けて、しばらく黙っていた。
「その梨、一つ先に食べてやってください。遠いから青いうちにもいじまって、こっちの人の腹を壊さないか心配してたんで」
私は義母と一つを分けて食べた。まだ硬くて、義母はいつまでも皮を噛んでいた。
◇
午後、客間のテーブルを三人で囲んだ。私と義母と、足元に湯たんぽを置いたニネットだ。
義母が一人ずつ名前を挙げるたびに、妹の眉が下がっていった。
「ユストさんには、最初にうちの窓を直してくれた時から本当に助けてもらったの。だからそう言っただけよ」
「二人で暮らす、とも?」
「元気になったら、そういう暮らしも素敵でしょうねって言ったの。レミは北に行くのが寂しいって言うし、ガスパール様は優しくしてくださるし。私にどうしろっていうのよ」
どうしろもこうしろもない。あなたが何をしたのかを聞いているのに。
義母は梨の芯を片づけてから、静かに言った。
「ユストさんにも、レミのお母さんにも、ガスパールさんにも、それぞれ違う春が待っているのね。一人ずつ、お詫びの手紙を持っていきましょう。あなたから先にお断りすれば、日曜のお祝いは家族だけで済ませられるわ」
誰も、次の言葉を言わなかった。ニネットは湯たんぽを足から外して、顔を上げた。
「嫌よ。私のお祝いだもの、皆さんに来ていただきたいわ。隠すことなんて何もないんだから。最初に私と踊ってくださった方を、これから一緒に暮らす人としてお母様に紹介する。それでいいでしょう?」
「三人がそろっていても、そうするのね」
「ええ。来てくださる方だけでいいもの」
自信たっぷりの顔だった。誰が来ても、最後には自分の思う通りになると信じきっている顔。
義母は白っぽくなった唇を噛んだ。私は便箋を三枚出した。
会の始まりは午後四時。当日、妹が最初に踊った相手を紹介すること。ほかに招いている二人の名前。欠席でも、先に一人で事情を確かめたいという返事でも、どちらでも受け取ること。
三通とも同じ時刻、同じ文面にした。それをニネットに読んでもらうと、妹は署名の横に、青い花を一つずつ描き添えた。
ほら、何も困ることなんてないでしょう。そう言いたげな、軽い手つきだった。
◇
その足で、義母に頼まれて七つ橋へ寄った。お祝いの後半の踊りを頼んである舞踏手に、食事が長引くかもしれないと伝えるためだ。
義母の帳面に書いてあった名前を見て、まさかと思ったら、そのまさかだった。
「お祝いのご本人が、三人の中から最初の相手をお選びになるんですね。僕が順番に名前を呼び上げたりする必要はありますか」
イーヴォは、私の話をひと通り聞いてからそう言った。
「いいえ。私の義妹なの。たとえ困ったことになっても、人の前に出るかどうかは自分で決めさせたいわ」
「よかった。前に一度、お相手に断られた人を最後に一人だけ立たせて、皆で笑うっていう会に呼ばれたことがあってね。ああいう仕事なら、前金をお返しして帰るところでした」
てっきり面白がって、根掘り葉掘り聞かれると思っていた。けれど彼が次に確かめたのは、座ったまま手振りだけで踊りたいお客のために、椅子が何脚要るかということだった。私が指を折って数えているあいだに、彼はぐらついていた椅子を一つ引っくり返し、飛び出していた釘を靴の踵で叩き込んでいた。
「当日、あなたも踊りますか」
「お客の手が足りなかったら」
「僕は今、マノンに聞いたつもりだったんですけど」
そんなふうに聞かれたら、ちゃんと答えるしかない。
「踊りたいわ。一曲だけでも」
「なら、自分の靴を持ってきて」
◇
日曜、午後四時の少し前。
最初に着いたのはレミだった。次が、渋い銀色の上着を着たガスパール。最後に、布を掛けた木箱を抱えたユストが来た。
玄関脇の小部屋に一人ずつ案内しながら、私は全員に同じことを聞いた。妹と一人ずつ話しますか、それとも三人一緒に聞きますか、と。
三人とも、答えは同じだった。
「ここで聞きます」




