第1話 花婿の杯がもう一つ
私の婚約者が義妹に贈るつもりの家には、今朝まで私の下着が干してあった。
「西の寝室なら陽が当たる。君だって、ニネットには少しでも体にいい所にいてほしいだろう」
ガスパールが指さしたのは二階の窓だった。昨日、私が踏み台に乗って内側から磨いたばかりの窓だ。
ここは母が私に残してくれた楡の家で、私はこの秋のうちに少しずつ暮らしを移して、冬の婚礼をここで待つつもりでいた。彼もそれを知っている。知っていて、片手に義妹の手袋を両方とも載せたまま、平気な顔で私の寝室を人にあげようとしているのだ。
手袋くらい自分で持てばいいのに。ニネットの白い指を見ながら、私はちょっと意地悪なことを思った。
「誰が住むのか、いつ決まったの?」
「いずれ僕もこの家に入るんだ。君の妹を、僕の妹として迎えたいと思って何が悪い」
妹として、と彼が言ったところで、ニネットがちらりと私を見た。
嬉しい時のあの子は、私の顔なんか見ない。こっちを見るのは、思った通りにいかなかった時だけだ。
「お姉様がお嫌なら、いいの。こんなお願いができるの、私にはガスパール様しかいないのよ。花が見える窓のそばに、小さな寝台がひとつ置ければそれで」
「嫌よ。私の寝室だもの」
ガスパールが咳払いをした。腰にはご丁寧に巻尺まで提げている。今から三人で中へ入って、家具の寸法を測るつもりだったらしい。
私は黙って、楡の家の戸に鍵を掛けた。
「あなた、今日は靴を買いに行くのに付き合ってくれるんじゃなかった?」
「こんなふうに断られたあとで、ニネットを一人で帰せると思うのか」
その台詞なら、もう何度も聞いた。
去年の冬、私の誕生日もそうだった。楡の家に三人分の食事を用意して待っていたのに、義妹の熱が上がったと聞いた彼は、席に着く前に屋敷へ引き返してしまった。残ったのは私と父だけ。二人では鶏を食べきれなくて、翌朝、冷えて白く固まった肉汁をパンに塗って食べた。それが案外おいしかったことまで、私はちゃんと覚えている。
だから今日は、最初から当てにしていなかった。靴屋には一人で行けるし、そのあとには、どうせ彼に断られるだろうと思ってこっそり入れておいた用事がもう一つある。
「どうぞ、ニネットを送ってあげて。来週のお祝いには遅れないでね」
来週の今日、ニネットは二十一になる。父が義母のミナと再婚した時、あの子はまだ十四だった。もともと体が弱くて、この春には長い熱も出した。そんなあの子が初めて自分から「お祝いをしたい」と言い出したので、義母と私は張りきって宴の支度をしているところだった。
鈴を二つ鳴らして遠ざかる馬車を見送ってから、私は七つ橋の広場へ向かった。
◇
「その靴で先を踊ったら、僕は三歩目で踏まれます」
初対面の舞踏手に、ずいぶん正直なことを言われた。
縁台に腰を下ろしてスカートを少し持ち上げると、買ったばかりの靴の底に、値札を留めていた麻糸がまだ残っていた。彼は自分で切ろうとはせず、私に小鋏を渡してくれた。糸を引き抜いて、もう一度板の上に立つ。
「靴は直ったわ。あとは?」
「先に右足を出してください」
「出しているつもりよ」
「僕が足を上げたのを見てから出してます」
言い返そうとして、やめた。彼の言う通りだったからだ。
昔、母が花市で踊っていた『片靴の燕』は、先を踊る人が踵を二つ鳴らして、それを合図に後ろの人が横をすり抜けていく踊りだ。相手の足ばかり見ていたら、私はいつまでたっても後ろのままになる。
目を閉じて、踵を二度打った。
すっと横を風が抜けて、目を開けると、彼は私の左にいた。
「今のなら、ついて行けます。僕はイーヴォ」
「マノンよ。あなた、稽古の途中で名乗るの?」
「受付で名乗りましたよ。あなたが僕の足をじろじろ見てるあいだに」
だって、見ずにはいられなかったのだ。広場の娘たちが、彼は七つ橋でいちばん相手の足を踏まない男だと教えてくれたから、私はさっき銅貨を二枚払った。どんな足なのか確かめるくらいは許してほしい。
「来月の夜市までに、先を踊れるようになりたいの」
「一曲まるごと?」
「母が踊ったところまでは。最後にね、相手がびっくりするくらい速く回るのよ」
彼は笑って、自分の足をちょっと後ろへ引いた。
「その時は、ぶつからない所まで下がって見物しようかな」
「そこは『ついて行きます』でしょう」
「速さを見てから言います」
それから三度、私は彼を左へすり抜けさせた。最後の一回は手をつないだままだった。私がほんの少し力を加えるだけで、この背の高い人の肩がくるりと回る。おなかの奥がくすぐったくなるくらい、楽しかった。
約束の一刻が終わる前に広場を出た。もう一人でも練習できると思ったのに、帰り道で踵を打ってみても、誰も私の横をすり抜けてはくれない。
それが、少しだけつまらなかった。
◇
屋敷に帰ると、玄関の段に、木箱を膝に抱えた青年が座っていた。
前にニネットの部屋の色硝子を直しに来てくれた、ユストという硝子職人だ。
「お祝いの席のことで、奥様にお会いできますか」
「母は出かけているの。席のことなら、私が伺うわ」
彼が箱の蓋を取ると、羊毛にくるまれて、青い硝子の杯が二つ並んでいた。日が落ちる少し前の空みたいな色で、どちらの底にも小さな泡が一つずつ浮いている。
「きれいな色ね」
「色は狙って出せるんです。でも泡は、狙っても出ない。だから、この二つは売らずに取っておきました」
片方を持ち上げたユストの爪の際には、黒い煤が染みついていた。あんまり大切そうに持つものだから、私は素手で触るのをやめておいた。
「どこに置きましょうか」
「僕とお嬢さんが並ぶところに。乾杯が済んだら、お嬢さんがお母様に話してくださるそうなので」
「何を?」
「僕と所帯を持つって」
えっ、と声が出るより先に、門の外で車輪が石を踏んだ。
鈴が二つ鳴る。ニネットのお気に入りの、ガスパールの馬車だ。
ユストは慌てて箱に蓋をした。
「驚かせたいんです。会の日まで黙っていてください。お嬢さんが、僕にだけ教えてくれたことも」
「あなたにだけって、何を?」
ユストが答えるより先に、馬車からガスパールが降りてきた。義妹を支えようとこちらに背を向けた彼の声は、玄関までよく通った。
「安心しろ。あの日、皆に僕たちのことを話そう。君には僕しかいないんだから」
若い職人は、すとんと段に腰を落とした。
蓋を押さえた両手のあいだで、箱の中の杯が、かちりと小さく鳴った。




