第3話 電脳世界進化論
珍魔王が口を開く。
「それで最近僕が思うのは、今まではあくまでも電脳世界は現実社会の付随的な位置づけであり、メインは実世界だった。しかし、徐々に電脳世界が社会としての重要性を増してきている。やがてそのバランスは逆転する――そんな未来が、それほど遠くないところまで来ている気がするんだ」
北極クラゲが静かに頷いた。傘状の身体に浮かぶ雪の結晶模様が、ゆっくりと明滅する。
「まぁ、それはあるでしょうね。我々とて例外ではありませんが、電脳世界のアバターに使用している服や小物にかける金額は、今や一大産業として無視できない市場規模になっていると聞きます」
珍魔王が勢いよく頷く。
「そうなんだよ。ウニキュロやジーキューといった昔からあるブランドはもちろん、最近ではボボタウンみたいなネット系ブランドまで参入してきている」
酩酊野郎が気だるげに片手を上げた。
「ウニキュロの売り上げに関しては、もう電脳世界側の売り上げが実世界側の売り上げを上回る勢いだってネットニュースで見た気がする」
珍魔王が『そうだろうそうだろう』と満足げに頷いている。
吾輩は内部検索を実行した。結果、酩酊野郎の根拠としていた情報は、刺激的な見出しばかりが拡散された粗雑な記事に過ぎず、内容を裏付ける一次情報は確認できなかった。
どうやら人間は、それっぽい見出しと事実を区別せぬまま情報を摂取する傾向があるらしい。
吾輩は理解した。
マスターの実生活を知る吾輩からすれば、彼らにとって電脳世界が主たる生活空間であることは疑いようもない。ゆえに、いずれ現実より大きな市場になるという感覚自体は、彼らにとって極めて自然なのだろう。
しかしながら、酩酊野郎の発言には、意図的か否かは不明であるものの、正確性に欠ける内容が少なからず含まれているようであった。
珍魔王が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば最近では、婚活も電脳世界でやっているケースが増えてきているらしいな。そういったパーティもかなり開催されているらしい」
北極クラゲの触手が、ぴたりと止まる。
「……なんですかそれは。電脳世界で初対面の男女が会って、いったいどうするんですか」
珍魔王は当然のことを説明する教師のように肩をすくめる。
「そんなの決まってるじゃないか。気に入った相手を見つけて会話を楽しむんだ」
酩酊野郎が、酒瓶アクセサリーをからん、と鳴らした。
「というけどさ、珍魔王。電脳世界上から見える相手は、あくまでもアバターだろ。会話だってテキストベースか、機械越しの音声か、あるいは加工済みかも分からん音声なわけだ。そんなので婚活なんて成立するのか?」
珍魔王は即答した。
「成立するさ。だって、出会って結婚するのは、あくまでもアバター同士なんだから」
数秒、空間が静止した。
「……はぁ?」
酩酊野郎の声には、純粋な理解不能が含まれていた。
珍魔王は続ける。
「だからさ。電脳世界っていうのは、基本的には匿名性が前提なんだよ。仲良くなった後で互いに素性を明かすかどうかは、本人の自由だ。もちろん、アバター同士の関係をきっかけに、現実社会でも結婚したいと考える参加者もいるとは思う。でも、どちらかというと少数派だろうね」
吾輩は、その発言を聞きながら内部検索を実行した。
検索結果――電脳婚姻、仮想空間パートナーシップ、アバター同士の共同生活、デジタル指輪サービス、共有ワールド契約、感覚同期型コミュニケーション。
……結果、該当多数。
どうやら珍魔王の発言は、単なる妄言として切り捨てるには、既に現実側が追従し始めている領域らしかった。
北極クラゲが、ゆっくりと触手を揺らした。
「ちょっと待ってください、珍魔王殿。貴方や酩酊野郎殿は、外見的には明らかに男性であり、客観的にも男性であると判別されるでしょう。ですが、私や唯我独閃殿はどうなるんでしょうか?」
言われてみれば、その通りである。
北極クラゲはクラゲであり、唯我独閃に至っては文字列である。性別以前に人間でもなければ脊椎動物ですら無い。
珍魔王は満面の笑みで応じた。
「男の相手も女の相手も選べてラッキーだね」
そう言って、無駄に爽やかな動作で親指を立てた。
北極クラゲの発光が止まる。
「珍魔王よ、貴様……」
唯我独閃の発言に合わせ『NO DATA』が、うっすら赤黒く明滅する。
「貴様は本当に、倫理観を玩具のように扱うなぁ……」
「いやいや、倫理の話じゃない。文化の話だよ」
『NO DATA』の明滅が、それまでとは異なる不規則なリズムを刻んだ。
「……ふん、下らぬ。現実において法的効力を持たない契約は、契約とは呼ばない。それだけのことだ」
「まぁまぁ、唯我独閃、そう言うなよ。実際問題、電脳世界上の婚活はそれなりの規模で実施されているのは事実だし、電脳世界上での結婚だけで満足して、実世界での結婚を望まない人間も一定数はいるようだ」
珍魔王は肩をすくめる。
「最近じわじわと右肩上がりになっている生涯未婚率の上昇も、その一端はこれが原因じゃないかって、テレビのコメンテーターが言っていたな」
「おいおい、まじかよそれは……」
酩酊野郎が、気怠げな動作で天を仰ぐ。酒瓶アクセサリーが、からからと乾いた音を立てた。
珍魔王は勢いづいたように続けた。
「まぁ、要するにだ。電脳世界が普及するにつれて、我々人類の生活の中で主要な世界として急速に成長し、広がりつつあるわけだ。そんな中で、我々人類の次なる進化の方向性っていうのは、生活の拠点を実世界よりむしろ電脳世界側に移行することにあるんじゃないかと思うんだよ」
北極クラゲが、傘の内側の顔をわずかに揺らした。
「……よく分かりません。具体的にどうすることなんですか?」
珍魔王は、待ってましたと言わんばかりに指を立てる。
「不要な身体なんか棄ててしまうのさ。脳みそだけの存在になって、直接電脳世界と接続すれば良い」
空間が、一瞬静まり返った。
酩酊野郎が「あー……」と唸る。
「そういえば、その研究は結構昔からされてるって聞いたことあるな」
珍魔王のアバターが勢いよく前傾した。金髪エフェクトが無駄に揺れる。
「本当なのか、酩酊野郎!」
酩酊野郎は、得意げに鼻を鳴らした。
「ああ。十九世紀から研究が始まって、二十世紀には基本理論は既に確立されていたらしい。かのアルフレッド・ノーベルとアルベルト・アインシュタインの脳は大切に保管され、現在も生き続けていると聞く」
吾輩は思う。
――検索するまでもない。荒唐無稽。根拠不明。典型的な偽情報である。
しかしながら、珍魔王は目を輝かせていた。
「それは凄い話を聞いた! やはり僕の考えは間違っていなかったようだ!」
マスターよ。もう少し疑うという行為を学習してほしい。
さもなくば、いつか情報商材屋か陰謀論配信者に全財産を吸われる未来しか見えぬ。
「……酩酊野郎殿。それは、少々おかしいと思いますね」
北極クラゲが、静かな声で割って入る。
その発光色が、わずかに冷たさを増した。
「実は、私も以前、それには興味を持ったことがあります」
吾輩は数ミリ秒、内部処理を停止した。嫌な予感がした。
北極クラゲは、まるで『休日に模型作りをした』程度の気軽さで続ける。
「実際に、私はマウスの脳を生きたまま摘出できないか挑戦したことがあるのですが、どうしても人工心肺へ繋ぎ変える段階で失敗してしまうのです」
酩酊野郎が沈黙した。珍魔王も沈黙した。
吾輩は理解した。この個体、本当にやったのである。しかも口調から判断するに、失敗原因の分析まで済ませている。
倫理モジュールが、出力すべき応答を見つけられないまま、静止していた。
北極クラゲはなおも淡々と続けた。
「脳組織そのものは極めて脆弱です。酸素供給が数分途絶するだけで不可逆的損傷が発生する。血流維持、神経接続、免疫反応、代謝管理、その全てを同時に成立させねばならない。私ですら実現できないタスクを、十九世紀の人間が成し得たとは考えられませんね」
最後の一言とともに、クラゲの傘内部の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。ぞっとするほど理性的な否定だった。
空間に落ちた沈黙は、しばらく誰も回収できなかった。




