第八章 安らげる場所
軒貸しが以前使っていたという場所は、細い道に面した古い蔵であった。
人間の住む母屋とは塀で分かれ、戸の前には、長く動かしていないらしい台車が置いてある。
妾は三毛猫の姿で灰尾と並び、塀の内側をのぞいた。
「ここで待ってると、向こうから声をかけてきたんだ」
灰尾が軒を見上げた。
呼びかけても、返事はない。
壁の下に、猫なら通れそうな隙間があった。
灰尾が先へ入ろうとしたので、尾で止める。
「妾が先じゃ」
「何かあるのか」
「それを確かめる」
妾は頭を低くし、隙間へ前足を差し入れた。
内側に張られた力が、前足へ絡む。
入ろうとするものを、脇へ逸らす術であった。
壁の前を歩いていたつもりが、そのまま道へ戻ってしまう。気づかねば、戸口を見落としたと思う程度の働きである。
妾は絡んだ力を前足で押さえ、隙間の端へ寄せた。
通れるだけの幅を空けて、身体を滑り込ませる。
灰尾も後に続いた。
「誰もいねえぞ」
確かに、呼吸する者も、こちらをうかがう者もいなかった。
棚の下には、小さな敷物がある。
ひびの入った器。平たい石。枯れ草を寄せた窪み。
それぞれに、違う妖の気配が薄く残っていた。
妾は棚の奥へ回った。
出口へ向かって、何かを引きずった跡がある。
物を運び出したのか。
誰かが、自分で引いていったのか。
埃の跡だけでは分からぬ。
「灰尾。ここに、いくつ住んでいたか知っておるか」
「俺が前に見たときは、五つか六ついた。まだ奥にも入れるって言ってたが」
奥には壁があった。
その壁へ、細長い木札が一枚、打ちつけられている。
屋根に似た二本の線。
その下に、小さな切り込みが三つ。
妾は鼻を近づけた。
小羽のいた物置で嗅いだ、薄い木の匂いがした。
「これは、軒貸しのものか」
「そうだ。こいつの紹介先に、つけてある」
札の縁に、別の気配が混じっていた。
術の組み方とは異なる、わずかな揺れ。
見る角度を変えると、なくなる。
元へ戻すと、また見える。
川向こうの壁を思い出した。
似ている。
だが、これだけで同じものと決めるわけにはゆかぬ。
妾は札に触れず、その場所を覚えた。
*
蔵の裏には、屋根から落ちた水を受ける溝があった。
乾いた泥の上に細かな木屑が残り、途切れながら、塀の外へ続いている。
灰尾が鼻を鳴らした。
「あいつ、どっちへ行きやがった」
蔵を出て、灰尾の知る次の場所へ向かった。
そこにも軒貸しはおらず、空の軒と、あの印のある札だけが残っていた。
妾は先ほどの蔵の裏にあった溝を思い出し、水路へ戻ることにした。
蔵の裏で見た木屑のことを水の翁へ尋ねると、翁は自分の顎から落ちる雫を見ながら話を聞いた。
「その木屑なら、雨の後に流れてきた。古い塗りの欠片もな」
「どこから流れてきたものか、分かるか」
「水がつながっておる先なら、辿れる。中で何をしておるかまでは知らんぞ」
「流れの先を教えてくれればよい」
翁は石へ身を沈めた。
すぐ近くの水面に、同じ顔が薄く浮く。
流れをさかのぼるように移り、橋の手前で止まった。
妾と灰尾は岸を歩いて追った。
「こちらじゃ」
覆いのある細い排水路が、大きな流れへ合わさっていた。
その縁に、赤黒い塗りの欠片が引っかかっている。
「水はずっと通るようになった。前は、雨のときだけ少し来たものじゃが」
灰尾が、排水路の向こうを見た。
「……上の宿か」
「知っておるのか」
「昔、人間が泊まってたところだ。今は誰も使ってねえはずだが」
道は緩く上り、家々の間を抜けている。
妾がいつも歩く範囲の、少し外れであった。
水の流れだけで、軒貸しがおるとは言えぬ。
けれど、見に行く先ができた。
*
古い宿の看板は、半分ほど草に隠れていた。
二階建ての建物である。
窓には板が打ちつけられ、玄関へ向かう石段にも落ち葉が積もっている。
妾だけが塀へ上がり、庭を見た。
灰尾には、少し離れた木の陰で待ってもらう。
渡り廊下の柱に、あの木札があった。
庭のさらに奥、窓板の隙間から、細い影が一つ、こちらへ伸びかけた。
妾が目を向けると、影は引っ込んだ。
窓の内側で、かすかな音がした。
硬いものを、何度も叩く音。
「そこにおる者」
人の耳には届かぬほどに声を落として呼ぶ。
音が止まった。
「出たいのか」
少し待ってから、一度だけ、板が鳴った。
妾は塀から庭へ降り、窓の下まで歩いた。
板そのものではない。板の内側に張られた力が、出ようとするものを押し戻している。
蔵にあった術より、はるかに厚い。
同じ気配ではあるが、使える力が増えているらしかった。
妾は前足を上げた。
その厚みの中から、窓を塞ぐ働きだけをつまみ出すように引く。
窓板の隙間から、小さな器が転がり落ちてきた。
欠けた盃であった。
地面に当たる前に力で受け、草の上へ下ろす。
盃の縁に、顔らしいものが浮いている。
呼びかけても返事はなかった。だが、器の内側には、縮こまった一つの気配が残っていた。
妾は盃を自分の足元へ寄せ、外から触れられぬよう、薄い守りで包んだ。
窓の中を、もう一度見る。
いくつもの気配がある。
その間に、空間の揺れが混じっていた。
こちら側へ張られた術ならば、剝がせる。
だが、その奥で何がつながっているのかは分からぬ。
窓の内側で、木が軋んだ。
妾が開いた隙間へ、何かが蓋をしようとしている。
そこへ前足を置き、閉じようとする力を押し返した。
「灰尾」
灰尾が木陰から駆け寄った。
妾の足元を見て、息をのむ。
「こいつは……」
「知っておるか」
「橋のところで、たまに見た。酒の匂いがすると出てきてた奴だ」
灰尾は盃へ鼻を近づけた。
応えはない。
「生きておる。返事をする余裕がないのであろう」
灰尾の顔が上がった。
「壁のところへ行け。昨日、人間が道を止めておった場所じゃ。札を扱う者に、妾からの話だと伝えよ」
「人間へ?」
「この揺れを調べておる者たちじゃ。話は通じる」
妾は、以前会った二人の姿を伝えた。
別の担当者であった場合に何を言うかも、短く決める。
「ここに、出たがっておる者がおる。妾は残る」
灰尾は盃を一度見てから、身を翻した。
妾は窓へ顔を戻した。
足元に置いた守りを広げ、開いた隙間から内側へ伸ばしていく。
「聞こえる者は、窓の方へ寄れ。急がずともよい」
暗がりの奥で、小さなものが動いた。
妾は、それが来るのを待った。




