第六章 連休と避難のお知らせ
連休とは、よいものである。
朝、時計が鳴っても、主様はすぐには起き上がられない。
妾が布団の上からお顔をのぞくと、目を細く開き、首の後ろを撫でてくださる。
「……もうちょっと、寝ようか」
異論など、あろうはずもない。
三毛猫の妾は丸くなり直し、主様の腕へ背を寄せた。
そうして始まる朝を、二度ほど過ごした。
三度目には、昼前に買い物へ出ようという話になった。
「ずっと家にいると、食べるものだけ減っていくね」
主様は冷蔵庫の扉を閉め、食卓へ戻られた。
大人の女の姿で向かいに座る妾は、空いた湯呑みへ茶を注ぐ。
「妾が買ってまいりましょうか」
「一緒に行こう。少し歩きたいし」
それは、ぜひ。
何を着てゆくべきであろう。
この間の服でもよいが、せっかくである。主様のお隣を歩くのに、もう少し――。
外から、拡声器の声がした。
初めは、言葉の端しか聞こえなかった。
主様が窓の方へ顔を向ける。妾も、急須を置いた。
「付近でガス漏れの疑いがあるため、安全確認を行っています。係員の案内に従い、指定された場所へ移動してください」
主様は椅子から立ち、玄関へ向かわれた。
妾も後に続く。
扉を開けると、隣の家でも人が外を見ていた。
道路には作業用の車が止まり、腕章をつけた者が、一軒ずつ声をかけている。
「この前、点検の回覧が来てたでしょう。やっぱり古い管だったのかねえ」
隣人の言葉に、係員は原因を調べているところだと答えた。
管が古いからだ、と言い切ることはしなかった。
主様は係員から避難先を聞き、いったん家へ戻られる。
「タマモ。猫でお願いできる?」
「はい、主様」
家の中へ戻ると、妾は玄関から見えぬ場所で三毛猫へ戻った。
主様が出したキャリーの中へ、自分で入る。引っ越しの日にも敷いてあったタオルが、今日は洗いたてであった。
財布と携帯電話、鍵。
主様は手元を確かめ、戸締まりをしてから、妾の入ったキャリーを持ち上げられた。
「すぐに戻れるといいね」
妾も、そう願っていた。
*
係員に案内された人の流れは、大きな道を避けて進んでいた。
家族で歩く者。足元を確かめながら杖をつく者。抱えられた犬。
妾のキャリーは、主様の歩みに合わせて、小さく揺れる。
曲がり角の先に、見覚えのある壁があった。
川向こうで見た、あの壁である。
今日は手前に柵が置かれ、人が近づかぬようにしてあった。
その向こうの空間が、縦に揺れている。
妾は顔を上げた。
以前よりも、幅がある。壁の目地がずれ、戻り、またずれる。風は弱いのに、壁際の草だけが、一斉に同じ方へ倒れた。
柵の内側にいる者の一人が、掌を低く構えていた。
薄い境が、壁と道路の間に張られている。
先日の男とは別人である。
だが、使っているものには似た気配があった。
主様の足が止まった。
キャリーの揺れが収まり、妾は格子越しに上を見た。
主様は壁の方へ目を向けている。眉を少し寄せ、それから、何かを待つように口を閉じられた。
「……そういうことか」
低い声であった。
「立ち止まらず、そのままお進みくださーい」
「あ、はい」
主様は軽く頭を下げ、再び歩き出された。
壁も、揺らぎも、キャリーの窓から見えなくなった。
*
案内された先では、建物の外にも待つ場所が用意されていた。
主様は猫がいることを係の者へ伝え、示された日陰へ腰を下ろされた。近くにいた犬連れの家族も係員に案内されて少し離れると、すぐそばで話す者はいなくなった。
妾は格子へ鼻先を寄せた。
「主様」
主様にだけ届くほどに、声を落とす。
主様が、キャリーのそばへ顔を近づけられた。
「先ほどのものが、見えておいででしたか」
「壁のところ?」
「はい」
「タマモも、見てたんだね」
妾はうなずいた。
「何か、お分かりになったのでございますか」
「気になって、少し調べてみたんだ。あちらは、対応している人たちがいるみたいだね」
主様は、通ってきた道の方へ目を向けられた。
「あの場所は任せて、僕らはここで待とう」
「……かしこまりました」
お言葉は、落ち着いていた。
妾の知らぬことを、どこまでお確かめになったのか。
尋ねようとしたところへ、係の者が通りかかった。
主様は顔を上げ、配られた案内を受け取られる。
妾は口を閉じ、キャリーの中へ座り直した。
主様の指が、格子の隙間からそっと入ってきたので、その指先へ頬を当てた。
今ここで、妾がすることは決まっている。
*
昼を過ぎても、安全確認は続いていた。
主様は携帯電話で知らせを確かめ、ときおり妾をのぞき込まれた。
格子を挟んでおそばにいられることは結構であるが、家ならば主様の膝で昼寝もできた。
そのあとは、お好きなものを一緒に買いに出るはずであった。
まことに、迷惑な揺らぎである。
植え込みの奥で、草が動いた。
灰色の耳が一つ、次いで、もう一つ現れる。
「……タマモ」
灰尾であった。
主様は携帯電話へ目を落としておられる。灰尾は植え込みから出ず、声だけを寄越した。
「人間が、この辺にいる奴らを追っ払うって話が回ってる」
妾も、植え込みへだけ届くほどに声を絞った。
「誰から聞いた」
「物置の裏で騒いでた連中だ。逃げ込める場所があるって、そっちへ行った奴もいる」
「誰が追い払われたのじゃ」
灰尾は、口をつぐんだ。
「……そこまでは、聞いてねえ」
「ならば、聞いてこい。見た話と、誰かから聞いた話を混ぜるでない」
灰尾が耳を動かす。
キャリーと、その横に座る主様を見比べた。
「お前は?」
「主様とおる」
それ以上、説明は要らなかった。
灰尾は低く身をかがめ、植え込みの向こうへ戻っていった。
主様が顔を上げる。
「お友達、来てた?」
妾は、小さく鳴いた。
「タマちゃんは、顔が広いね」
指先が、また格子へ寄せられる。
妾はそこへ鼻を触れさせた。
*
壁際では、先輩の調査員が、交代に来た担当者へ記録を渡していた。
後輩の女性は、柵の内側から届いた数値を確かめている。
「こちらを押さえてから、新しい変動は出ていません」
「周辺は?」
「別の班が確認中です。今のところ、避難範囲を広げる連絡はありません」
男は壁の手前へ目を向けた。
先ほどまで崩れて見えていた目地は、元の並びに戻っている。
ただし、空間の縁はまだ、薄く震えていた。
「交代後も、そのまま維持してもらおう。ここは継続して管理する」
女の手元へ、紙の鳥が戻った。
戻った紙の鳥の印を確かめてから、羽をほどき、届いた内容を読む。
「別地点の確認、終わりました。こちらも影響は出ていません」
男が無線を取った。
周辺の確認結果がそろってから、住民を戻すための連絡が送られた。
*
家へ戻ると、主様は玄関でキャリーを開けてくださった。
「お疲れさま。タマモも、窮屈だったね」
妾は廊下へ出て、伸びをした。
主様は靴を脱ぐと、そのまま台所をのぞかれた。
「さて。あるもので、何とかしようか」
人の姿へ戻り、妾も洗面所へ向かった。
主様と食事を作り、お茶を淹れ、ようやく椅子へ座る。
買い物の予定はなくなったが、こうして一緒に過ごす時間まで失うつもりはなかった。
日が落ちる前に、裏手で一度、猫の声がした。
灰尾が報告に戻ったらしい。
台所にいる主様へ、少し外を見てくるとお伝えし、妾は猫の姿で小さな扉を抜けた。
「追い払われた者はおったか」
「まだ、分からねえ。それより――」
灰尾は、妾の背後にある家を見てから声を落とした。
「小羽を、見てねえか」




