第五章 その名を、どこで
その翌日、妾があの場所を訪ねたのは、昼を少し過ぎた頃であった。
妾は三毛猫の姿で、細い道を抜けた。
揺らぎの向こうには、昨日と同じ景色が見える。輪郭の落ち着かぬ箇所も、そのままである。
人間の気配は、二つ。
一人は、揺らぎから少し離れた草の陰。
もう一人は、道へ戻る側にいる。
妾は揺らぎを見上げ、少し首を傾けてから、抑えていた妖気を外へ出した。
ここにいるのが、ただの猫ではないと分かる程度に。
草の陰で、男の動きが止まった。
道の方にいる女も、こちらを向く。
「そこにいるのは分かっておる。出てきなさい」
しばらくして、草が鳴った。
男が姿を見せる。昨日と同じ上着を着ているが、近づいては来なかった。
「……こちらに気づいていたんですか」
「何度も同じところを歩いておれば、覚える。そちらの者もな」
道の曲がり角から、女が姿を見せた。
男の隣までは来ず、その位置に留まる。
「接触の報告を入れます」
「頼む」
女の指先で、小さな紙片が折られてゆく。
鳥の形になったそれが、次の瞬間には自ら羽を動かした。
式神か。
紙の鳥は、女の手を離れると草の上を低く飛び、道の向こうへ消えた。
妾が声をかけてから、さほどの間もない。
若いが、手際はよい。
誰かへ知らせに出したのであろう。止める理由もなかった。
男の指先にも、力が集まっていた。
二人の立つ側に、薄い境が起こりかけている。妾を囲い込むようなものではない。
守りの備えらしい。
男はそれを広げずに留めたまま、口を開いた。
「ここで、何をしていたんですか」
男は、妾と揺らぎを順に見た。
ああ。
妾とこれとの関わりを、気にしておるのか。
「そう警戒するでない。お主らに危害を加える気はない」
妾は猫の姿のまま、前足をそろえて腰を下ろした。
男は足を止めたまま、こちらと揺らぎを見比べている。
「妾も、これが何なのかを知りたいだけじゃ」
「……調べに来た、と?」
「うむ。ここ一帯の者どもから、妙なものが見えると相談があっての」
「ここ一帯?」
男が、少し離れたところにいる女へ目を向けた。
女は小さくうなずくと、再び揺らぎへ視線を戻した。
「この辺りの妖たちとは、付き合いがあるんですか」
「このところ、何かと持ち込まれるようになった。初めは、住処の近くで騒ぐ連中を静かにさせただけであったがの」
「静かに?」
「双方の言い分を聞き、折り合いをつけさせたのじゃ。そうしておるうちに、あちらで揉めた、こちらで困ったと、次の者を連れてきおる。いつの間にやら相談役にされてしもうての」
妾は尾を前足の脇へ寄せた。
「水の流れが変わっただの、通り道が気に入らぬだの。ひとつ収めれば、またひとつじゃ」
「……最近、この辺りから上がってくる異常に関する報告が減っていましてね。今の話と、関係があるのでしょうか」
「お主らへの報告のことまでは知らぬが、妾に持ち込まれた話なら、いくつか収めておる」
男は、すぐには次を尋ねなかった。
妾が動かずにいるのを確かめるように見てから、言葉を継ぐ。
「相手は、話し合いに応じたんですか」
「暴れる者には、まずおとなしくしてもらった。話をする間は、待てとな」
男の視線が、そろえた前足へ落ちた。
「……それで、この揺らぎについても相談を」
「そうじゃ。ところが、これは妾にも分からぬ」
妾は揺らぎへ顔を向け、また男を見た。
「お主らも、これを調べておるのであろう。何か分かってはおらぬか?」
「この場所については、まだ調べているところです。見つかる場所は増えていますが、何が起こるのかまでは」
男は言葉を切り、女へ目を向けた。
女は揺らぎを確かめてから、小さく首を振る。
今のところ、変化はないらしい。
「そうか。お主らの方でも、増えておるか」
「あなたは、どこで見たんですか」
妾は、川向こうの壁と、駐車場の隅の話をした。
自分で見た場所と、ほかの者から聞いただけの場所は、分けて伝える。
女はしゃがみ、妾へ近づきすぎぬ位置の地面に地図を広げた。
「こちらでしょうか」
「もう少し、道の先じゃ。曲がったところに、低い塀がある」
「……ここは、まだ観測先に入っていません」
女は男を見た後、地図へ印をつけた。
「自分で見たのは、いつですか」
「初めて見えたのは、数日前じゃ。その二日前にも通ったが、そのときには見えなかった。昨日も確かめたが、同じところにある」
女の手が、見えた順番を書き添える。
「お主らは、こうしたものを調べる役目なのか」
「ええ。人の側で、普通の窓口では扱えない異常に対応しています」
「人の役所のようなものか」
「その一部、と考えていただければ」
男は、地面に広げられた地図を指した。
同じような印が、ほかにもいくつかある。
「調査や、必要な場合の対処も、担当を置いて続けています」
それで、二人で通っておったのか。
個人の物好きというわけでもなさそうである。
妾は、男へ顔を戻した。
「ならば、分かったことがあれば聞かせよ。こちらにも、気にしておる者がおる」
「そのためにも、まず呼び名を聞かせてもらえますか」
「タマモじゃ。我が君より授かりし名である」
地図へ向けていた男の指が、止まった。
「……タマモ」
「いかにも」
男は女を見た。
女も顔を上げていたが、男が何も言わぬので、再び手元へ目を落とす。
何か、覚えのある名であったか。
「その、主という方と暮らしているんですか」
男の視線が、今度は妾の首輪へ落ちた。
妾は少し胸を張る。
「そうじゃ」
「君の主は、君が普通の猫ではないことを知っているのか」
「ご存じである。妾が猫の姿だけではないことも承知のうえで、家族として迎えてくださっておる」
家族。
この間、人間の女にも、そうおっしゃってくださった。
首輪の革へ、顎を少し寄せる。
「今回、ここへ来るように頼まれたのですか」
「妾が調べに来た。主様の暮らしを煩わせとうないのでな」
男が、何かを確かめるようにうなずいた。
「ゆえに、妾の領分において、主様の平穏を乱す輩は――妾が相手をいたす」
妖気を広げる必要はなかった。
男は、こちらから目をそらさずに聞いている。
「事情を確かめるのも、あなたを通せということですか」
「そうじゃ。妾へ聞けばよい。家へ押しかけるような真似は、好まぬ」
「分かりました。今日お聞きしたことは、こちらでも確認します。そのうえで、また話を」
「よかろう」
自分の目で確かめたいというなら、そうすればよい。
主様も、分かったことを実際に試される。
ひとまず、次の巡回で顔を合わせることにした。
こちらに変わったことがあれば伝える。向こうで分かったことがあれば、それも聞く。
約束した時刻を覚えてから、妾は立ち上がった。
「今日は、もう帰る」
男は道を空けた。
女も、妾の行く先へ手を出すことはなかった。
帰り道、塀へ上がって振り返ると、二人はまた揺らぎの前に立っていた。
話せる相手が見つかった。
今日分かったことは、まず、その程度である。
*
事務所へ戻った二人は、観測記録とは別に、接触の報告をまとめた。
先に届いていた式神の知らせをもとに、聞き取った内容を報告へ書き足していく。
「タマモが発生源である可能性は、残しますか」
「まだ判断できない。ただ、本人が挙げた場所は確認する。周辺の報告が減っている件も、分けて照合しよう」
女性はうなずき、名前を記した欄へ目を戻した。
「タマモ、でしたね」
男性が開いた記録には、その名によく似た、別の表記があった。
玉藻前。
所在不明。
「猫、ですよね」
「見せた姿だけでは決められない。名乗った名前が似ているだけでも、同一個体とは決められない。照合はするが、断定はしない」
女性は画面と、自分の書いた特徴を見比べた。
三毛猫。革の首輪。小さな葉の飾り。
「主という人については」
「この件への関与が分かる話は出ていない。まずは、タマモを窓口にする」
男性は、猫が教えた場所を地図へ書き加えた。
まだ空白だった道の端に、印が一つ増えた。
*
その日の夕方、主様は帰宅すると、いつもより長く息を吐かれた。
「ああ、やっと休める」
靴を脱ぎ、バッグを置く。
人の姿で出迎えた妾は、受け取った上着を掛けた。
「連休でございますね」
「うん」
「どちらかへ、お出かけに?」
「旅行とかは、いいかな。まだ、この家でゆっくりしたいし」
妾は振り返った。
主様は台所をのぞき、夕食の支度を見ている。
「近所を歩くくらいはするかもしれないけどね。あとは、のんびり」
のんびり。
たいへん結構な予定である。
「では、お寛ぎいただけるように」
「タマモも休むんだよ」
「妾も、でございますか」
「そりゃそうでしょう。いつも家のこと、やってくれてるんだから」
返事をしようとして、少し遅れた。
主様は気にした様子もなく、食器を運び始める。
妾はその後ろを追った。
夕食を終え、片づけを済ませる。
湯はりの音声が流れる。
窓の向こうには、穏やかな夜が来ていた。
急ぎの相談は、ひとまず片づいている。
あの揺らぎにも、今日見た限りでは変化がない。
人の側にも、調べている者たちがおる。
次に会ったときには、今日より何か分かっていればよいが。
確かめるべきことは残っている。
明日も、見には行こう。
それでも、主様が家にいらっしゃる。
帰る時刻を待つばかりの日とは違う。
二階へ上がり、妾は人の姿のまま、主様のおそばへ椅子を寄せた。
「主様」
「ん?」
「連休の間も、おそばにいてよろしゅうございますか」
主様は、不思議そうにこちらを見た。
「もちろん。タマちゃんの家でもあるんだから」
そのお言葉を、もう何度いただいたであろう。
それなのに、慣れぬ。
いただくたび、胸の奥が忙しくなる。
我が君。
手首の革へ、指を添えた。
小さな葉の飾りが、柔らかく指先に触れる。
主様のお選びになったものは、音を立てない。
妾がどれほど心を騒がせても、静かなままである。
「……タマちゃん、また肩にすりすりしてる」
「申し訳ございません」
「いいけどね」
頭に手が置かれた。
妾は目を細めた。
その手が離れるまで、今度はじっとしていようと思った。
思っただけで、また頬を寄せていた。




