第四章 分からぬものは、分からぬ
四月も終わりに近づいた頃、少し変わった相談が来た。
「川向こうに、妙なものがある」
そう言ったのは灰尾だった。
今度は、いつものような不満顔ではない。
「妙なもの?」
「向こうが、揺れるんだよ」
「水面か」
「そうじゃねえ。空っぽのところがだ」
妾は三毛猫の姿で灰尾と並び、川向こうまで歩いた。
着いてみると、言いたいことは分かった。
水路の向こう、コンクリートの壁の手前。
そこだけ、景色の輪郭が落ち着かない。
熱の上がる場所ではない。
風で揺れるものもない。
けれど、向こうに見える壁の線が、わずかにずれていた。
近くを人間が歩いていった。
二匹の猫へ目を向ける者はいたが、揺らぎの前で足を止める者はいない。
「いつからか」
「俺が見つけたのは、四、五日前だ」
「近づいた者は?」
「いる。別に、何ともねえって。向こうへ通り抜けた奴もいる」
妾は術で、そばの落ち葉を一枚浮かせた。
葉は揺らぎを横切り、壁際へ落ちた。
同じ術で引き戻し、鼻先へ寄せても、変わった匂いはしない。
前足で押さえてみても、ただの枯れ葉である。
知っている邪気の気配はしない。
少なくとも、妾の覚えにあるものとは違う。
灰尾が、こちらを見た。
「何なんだ、あれ」
「分からぬ」
「……お前でもか」
「分からぬものは、分からぬ」
灰尾は壁へ目を戻した。
「そうか」
それ以上、何かを求める様子はなかった。
かえって、その方が気にかかった。
「調べておこう。形が変わったり、何かが起きたりしたら、知らせよ」
「ああ」
その日は、しばらく近くにいた。
日が傾き、人通りが変わっても、揺らぎはそこにある。
大きくも、小さくもならない。
何も出てこず、何も吸い込まれない。
ただ、景色の一部が落ち着かない。
主様にお尋ねすれば、お答えをいただけるかもしれぬ。
そう思いはした。
しかし、これは主様の日々の暮らしから、いささか離れた話である。
仕事からお帰りになったところへ、正体も分からぬものを持ち込むのは、いかがなものか。
今のところ、誰かが傷ついたという話は聞かぬ。
見ている間にも、住処を脅かすような変化はなかった。
ならば、もう少し妾が調べてからでよかろう。
そろそろ戻る頃合いでもある。妾は灰尾と別れ、主様がお戻りになる前に住処へ戻った。
翌日には、別の場所にも似たものがあると聞いた。
その次には、駐車場の隅で見たという者が来た。
妾は猫の姿で一つずつ訪ねた。
場所を覚え、前に見たものと比べた。
朝にも、夜にも確かめた。
前に見た場所は、そのままである。
だが、別のところを教えられる。そこへ行けば、また同じような揺れが見える。
ある日には、二日前に確かめたときには何もなかった道の端で、新たな揺らぎを見つけた。
立つ場所を変えても、目を細めても、それは消えぬ。
妾の見落としか。それとも、新しく生じたのか。
今は、決めつけずに覚えておく。
それでも、分からなかった。
見回りを終えて住処の裏手へ戻ると、灰尾が待っていた。
「まだか」
灰尾が尋ねる。
「まだである」
「……そうか。何か分かったら、教えてくれ」
「承知した」
答えられぬことがあると認めても、それで灰尾が相談を持ち込まなくなることはなかった。
それどころか、目撃した者を連れてくるようになった。
妾は話を聞いた。
いつ、どこで見たのか。近くで何が起きたのか。
見た者から聞いた話と、妾自身が確かめたことを、分けて覚えた。
主様が不具合を確かめるときも、たしか、そのようになさっていた。
*
人の姿で主様と買い物に出た帰り、近所の女性に声をかけられた。
「あら。ご家族?」
「ええ。身内です」
主様は、何でもないことのようにお答えになる。
「一緒に暮らしてる、うちの家族です」
妾は手首へ触れた。
家族。
人間は、時折、とんでもない言葉を平然と口にする。
「まあ。そうなの。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
お辞儀をする。
声は、きちんと出たと思う。
「あ、そうだ。ちょうどよかった。これ、回覧板」
女性が、小脇に抱えていた板を差し出した。
「ガス管の点検のお知らせが入ってるから、見ておいてくださいね」
「ああ、はい。ありがとうございます」
主様は買い物袋を持ち替えて受け取られた。
その手元をのぞくと、いちばん上の紙に、ガス管点検のお知らせと書いてある。
近隣の道路で、順次点検を行うらしい。
対象となる範囲には、妾たちの住処の周りも含まれていた。
「帰ったら、詳しく見ておきます」
「お願いします。見終わったら、次のお宅へ回してね」
女性と別れ、主様が歩き出される。
妾はその隣へ並んだ。
離れすぎぬように。近づきすぎぬように。
ところが、少し歩くと、主様はこちらを見た。
「タマモ、腕が当たってるよ」
「……歩きにくうございますか」
「そんなことないけど」
ならば、よい。
もう少しだけ、近くてもよかろう。
主様の手には、家へ持ち帰る食べ物と、道路の点検を知らせる紙がある。
人間も、人間なりに住処の周りを整えているのであろう。
ならば妾も、妾の分を怠るわけにはいかぬ。
*
その翌日、妾は猫の姿で、また揺らぎを見に行った。
川向こうの壁際とは別の場所である。普段の道から脇へ入り、草に隠れた細い道を抜けた奥にあった。
ここまで来る人間は、めったにおらぬ。
そのはずの場所に、男が一人立っていた。
地味な上着に長いズボン。歩きやすそうな靴を履き、揺らぎの手前で足を止めている。
男は位置を変え、少し離れ、また戻った。
時折、手元を確かめて何かを書き留める。
妾は草の陰に座って、それを見ていた。
男が立ち去った後で近づいてみても、揺らぎに違いは分からなかった。
次に来たときも、男はいた。
今度は、少し離れた道の曲がり角に、若い女の姿もあった。
女は男の方だけを見ているわけではない。道へ目を配り、手元へ何かを記し、男が顔を上げるとうなずく。
二人で、役目を分けておるらしい。
妾は、前足を舐めるふりをした。
女が一度こちらを見たが、すぐに男へ視線を戻した。
まだ、ただの猫の顔をしておけばよい。
何度かこの場所へ足を運ぶうち、男が毎回ほぼ同じ位置に立つことが分かった。
揺らぎを起こすために来ておるのかとも考えたが、二人とも、すでにあるものを確かめては記録を取っているように見える。
断定はできぬ。
だが、少なくとも、用もなくこの場所へ来ておるわけではない。
男が指先を動かしたとき、かすかな力の気配が残った。
妾は顔を上げた。
なるほど。
見えておるだけでもないらしい。
次は、少し話をしてみるとしよう。
妾の知らぬことを、あの二人なら知っておるかもしれぬ。




