第五章 生きている人
十二月二十四日の午後。
人影は、今の街ではなく、昔の街の形に沿って動いている。
そこまでは、分かった。
問題は。
何が歩いているのか、だった。
「幽霊なら、話は単純なんですけどね」
千尋が言うと、宮坂が顔をしかめた。
「お前、幽霊を単純って言うようになったのか」
「前よりは」
「慣れって怖いな」
事務所の机には、前日から集めた記録が並んでいた。
人影。
犬。
猫。
鳥。
店の灯り。
昔の看板。
声。
いくつかは、古い地図や写真の内容と重なり始めている。
「でも、死者の霊がこんなに一斉に出る理由がないですよね」
「理由がないとは言わない。分からないだけだ」
「はい」
千尋はすぐ言い直した。
「ただ、人間以外も混じってる」
「それはそうですね」
「犬猫まで全部幽霊だ、と考えることもできる」
「できますけど」
しっくりこない。
何より、タマモも昨日の人影を、自分の知る霊のありようとは違うと言っていた。
「もう一回、タマモさんに見てもらえないかな」
「呼ぶか?」
「連絡してみます」
千尋は端末を取った。
*
タマモと合流したのは、旧商店街の一本裏だった。
昨日の小妖たちのことも、少し気になっていた。
「雪置き場の方は?」
「もう積まれ始めておった。先に動かして正解じゃったな」
「よかったです」
「それで、今度は何じゃ」
タマモは軒下に座っていた。
千尋もその前にしゃがむ。
目線の高さが近くなった。
「昨日の人影です。昔の道に沿ってるところまでは分かったんですけど」
「ほう」
「幽霊なのか、もう一度ちゃんと見てもらえないかなって」
タマモは少し考えた。
「妾に分かる範囲でよければな」
「お願いします」
それで十分だった。
タマモは何でも知っているわけではない。
だが、分からない時に分からないと言う。
今の千尋には、その方がありがたかった。
*
待つ場所に選んだのは、昨日の洋菓子店だった。
理由は単純。
人影が比較的よく見える。
しかも、現在も店があるため、通りの中で不自然に消える瞬間ばかりを追わずに済む。
千尋とタマモは、店から少し離れた商店街の庇の下にいた。
植え込みの前に、古いベンチが置かれている。
吹き込む雪を免れていた端へ千尋は腰を下ろした。
途中の自動販売機で買った温かい缶のお茶を両手で包む。
タマモはそのすぐ横、腰ほどの高さがある花壇の縁へ軽く飛び乗った。
前足を揃えて座れば、ちょうど互いの顔の高さが近くなる。
そこからなら、洋菓子店の入口もよく見えた。
一般人が通る時には、タマモはただの猫の顔をする。
人がいなくなると、普通にしゃべる。
「便利ですね、それ」
「何がじゃ」
「切り替え」
「妾を何だと思うておる」
「大妖怪」
「分かっておるならよい」
その時。
店の向こうから、一人の若い男が歩いてきた。
白い上着。
両手に、平たい箱を重ねて持っている。
ケーキ箱に見えた。
「あれ」
千尋は声を落とす。
男は洋菓子店の横手へ回る。
今も従業員用らしい扉がある場所だ。
そのまま入る。
扉は開かない。
男だけが消える。
「見えました?」
「うむ」
タマモは立ち上がると、花壇の縁から雪のない庇の下へ軽く降り、消えた場所へ近づいた。
千尋も缶のお茶を片手に立ち上がり、そのあとを追う。
鼻を寄せる。
目を細める。
「どうです?」
「やはり妙じゃな」
「霊?」
「妾の知るものとは違う」
タマモはしばらく黙った。
「霊であれば、多少なりとも縁がある」
「縁?」
「土地なり、人なり、死なり。何かしら、そこへ留まる理由のようなものじゃ」
千尋は頷く。
「今のものには?」
「掴む先がない」
昨日と同じ言葉だった。
「見えてはおる。されど、そこに誰かがおるという感触がない」
「じゃあ、映像みたいな?」
「そう決めるでない」
「はい」
先回りして叱られた。
タマモの尾が一度だけ揺れた。
「ただ、少なくとも『死んだ者が戻ってきた』と即座に考えるのは早かろう」
「分かりました」
千尋は消えた男の姿をメモする。
若い。
二十歳前後。
白い上着。
ケーキ箱。
店の横手へ入った。
*
洋菓子店へ入ったのは、その確認のためではなかった。
本当は、昨日の客数についてもう少し話を聞くつもりだった。
だが。
店内へ入った千尋は、壁に掛けられた一枚の写真で足を止めた。
古い写真だった。
今より少し小さく見える店。
店先に何人か並んでいる。
クリスマスの飾り。
雪。
白い上着を着た若い男。
両手には、平たい箱。
「……え」
千尋は写真へ近づいた。
さっき見た。
似ている、というより。
服も。
箱の持ち方も。
横顔も。
同じに見える。
「その写真、珍しいですか?」
声をかけられた。
昨日の店主だった。
「あ、すみません。これ、いつ頃の写真ですか?」
「随分前だよ。四十年以上かな」
店主が近づく。
「大雪だった年があってね。クリスマス前なのに、えらい降ったんだ」
千尋の手が止まる。
「大雪」
「今みたいにな。まあ、こっちの方がもっと積もったかもしれないけど」
店主が写真を指す。
「うちもこの頃は忙しかったよ。今と違って、商店街も人が多かったし」
千尋は、白い上着の若い男を指した。
「この人は?」
「ん?」
店主が目を細める。
そして笑った。
「俺だよ」
千尋は固まった。
「……え?」
「若いだろ」
「店主さん?」
「二十歳くらいじゃないかな。親父がまだ店やってた頃だ」
店主は写真の自分を懐かしそうに見る。
「この時期は朝から晩まで箱運んでたよ。今じゃ考えられんけど」
千尋は、もう一度写真を見る。
さっき。
外で見た。
若い男。
白い上着。
箱。
横の入口へ入っていった。
「店主さん」
「はい?」
「昔、あの横の入口から箱を運び込んでました?」
店主が少し驚いた顔をする。
「よく分かったね。そうだよ。あそこ、昔から搬入口」
千尋は息を吐いた。
目の前にいる。
生きている。
何十年も経った姿で。
それなのに、外では若い頃の姿が歩いていた。
「ありがとうございます」
千尋はそれだけ言って店を出た。
*
タマモは外で待っていた。
千尋が出てくるなり、こちらを見る。
千尋は出入口の脇へ寄り、タマモの前にしゃがんだ。
「どうした」
「今の人影」
「うむ」
「生きてます」
タマモが目を細める。
「何?」
「さっきの若い男。あの店の店主さんです」
「今の老人が?」
「若い頃の姿です。昔の写真に、同じ格好で写ってました」
タマモは店の中を見る。
ガラス越しに、老人がショーケースの向こうへ戻っていくのが見える。
「なるほどの」
短く言った。
千尋は自分の中で、何かが一つ崩れるのを感じた。
「少なくとも、死者の霊だけじゃない」
生きている人間の、昔の姿まで現れている。
犬や猫。
昔の店。
道。
音。
そう考えると。
「人を見てるんじゃない……?」
タマモが千尋を見る。
「何じゃ」
「これ、人そのものが出てるんじゃなくて」
千尋は雪の商店街を見る。
閉まった店。
今も続く店。
昔の道。
今の道。
「昔、ここで起きてたことを見てる?」
まだ、仮説だった。
どうして見えるのか。
なぜ今なのか。
なぜこの雪なのか。
何も分からない。
それでも。
少なくとも、見えているものを「死者の霊」だけでは説明できない。
「戻りましょう」
「うむ」
千尋はタマモとともに、事務所へ戻る道を歩き出した。
雪はまだ降っていた。
その向こうで、誰かが昔の道を歩いているかもしれない。
答えを決めるには、まだ足りなかった。




