第二章 閉まった店へ入る客
十二月二十三日。
旧商店街までは、普段なら車で十五分もかからない。
その日は、倍近くかかった。
幹線道路にはすでに除雪車が入り、走れないほどではない。だが、降る雪が途切れず、少し前に除けられた路肩にもまた白い山ができ始めていた。
千尋は速度を落としたまま、公用車を旧商店街へ向ける。
助手席の座面で、タマモが窓の外を見ていた。
人通りは少ない。
当然だった。
クリスマス前とはいえ、好き好んで吹雪の中を歩き回る者はそう多くない。
たまに見かけるのは、雪かきをしている住民か、荷物を運ぶ配達員くらいだった。
「見えにくいですね」
信号待ちで千尋が言う。
近くに人はいない。
タマモは外へ視線を向けたまま答えた。
「これだけ降ればの。目も鼻も利きにくくなる者は多かろう」
「タマモさんは?」
「妾を誰と心得ておる」
「ですよね」
信号が変わる。
千尋はまた車を進めた。
*
旧商店街は、名前だけなら今も商店街だった。
だが、実際に営業している店は半分にも満たない。
シャッターを下ろしたまま看板だけ残っている店。
店の奥を住居として使っているらしい建物。
すでに別の用途へ変わった店舗。
空き地になった場所もある。
昔から住んでいる人間には生活の一部なのだろうが、千尋の目には、ゆっくりと店が減っていった地方の商店街そのものに見えた。
その通りの端に、除雪車が止まっていた。
作業員が一人、車外で待っている。
千尋は少し離れた場所へ車を止めた。
「私が話を聞いてきます。タマモさんは」
「妾はその辺を見ておる」
「しゃべらないでくださいね」
「分かっておる」
少し不満そうだった。
だが、一般人の前で猫が普通に会話するわけにはいかない。
千尋が車を降り、助手席側へ回って扉を開けると、タマモも雪の上へ降り、積雪の浅い軒下へ移った。
作業員は三毛猫を一度見たが、それ以上は気にしなかった。
「お待たせしました」
「いやいや。こっちも、こんなんで呼んで悪いね」
五十代くらいの男だった。
厚手の防寒着の肩には雪が積もっている。
「警察の方には話したんだけどさ。俺も、見間違いだとは思うんだよ」
「どの辺でした?」
「あそこ」
男が指した。
通りの向こう。
色あせた看板の下に、灰色のシャッターが下りている。
文字は半分消えかけていたが、衣料品店だったらしい。
「人が歩いてきたんだよ。女の人。茶色っぽいコート着て」
「年齢は?」
「さあ。雪だったから顔までは。若くは見えたかな」
男は少し考えた。
「手に何か持ってた。紙袋かな」
「それで、その店に?」
「そう。普通に店の前まで行って、そのまま中へ入ったように見えた」
千尋はシャッターを見る。
「シャッターは、その時も?」
「閉まってた。だから、え? ってなったんだよ」
「開いたりはしていない?」
「してない。そもそも、あそこもう何年も店やってないから」
男は首を振った。
「雪で見間違えたんだろうけどさ。人がシャッターの向こうに入ったみたいに見えたから、気味悪くて」
もう一件の目撃も、ここから百メートルほど離れた場所だった。
そちらは住民が雪かきをしている最中、道路脇の塀へ向かって歩く人影を見たという。
追いかけたわけではない。
ただ、次に顔を上げた時にはいなくなっていた。
塀の向こうへ抜けたように見えた。
それだけだ。
「分かりました。ありがとうございます」
「こんなんで何か分かる?」
「まだ何とも。念のため周りを見てみます」
千尋が答えると、男は「まあ、気をつけて」と除雪車へ戻っていった。
エンジン音が遠ざかる。
通りに残ったのは、雪の音と、時折風に鳴る古い看板だけだった。
「タマモさん」
千尋が小さく呼ぶ。
返事はない。
少し探すと、閉店した衣料品店の軒下に三毛猫がいた。
店の入口を見ている。
周囲に人がいないことを確認してから、千尋も軒下へ入り、タマモの横にしゃがんだ。
「何かあります?」
「今のところは何も」
「霊とか」
「おらぬ」
「妖は?」
「少なくとも、この店の中に潜んでおるものは感じぬ」
タマモは鼻先を少し上げた。
「古い匂いはするが、それだけじゃ」
「古い店ですからね」
「うむ」
千尋はそのままシャッターの下端を覗き込んだ。
錆び。
積もった埃。
下端には雪が吹き込んでいる。
誰かが開けた形跡はない。
「やっぱり、見間違いですかね」
「なら、それで終わればよい」
タマモが言った。
「終わらなかったら?」
「その時に考えればよかろう」
もっともだった。
千尋は立ち上がった。
その時だった。
通りの向こうに、人がいた。
雪の向こうから、ゆっくり歩いてくる。
女性だった。
長いコート。
片手には紙袋。
顔は雪に紛れてよく見えない。
ただ、歩き方におかしなところはなかった。
「……タマモさん」
「見えておる」
低い声が返る。
女性は千尋たちを見ない。
そのまま歩く。
閉まった衣料品店へ向かって。
「すみません!」
千尋は呼んだ。
反応はない。
女性は店先まで来た。
立ち止まりもしない。
閉じたシャッターへ向かって、普通に一歩を出す。
そして。
消えた。
何かに吸い込まれたような動きではなかった。
霞んだわけでもない。
ただ、そこから先へ歩いていったように見えたのに、姿だけがなくなった。
「……見ましたよね」
「見た」
千尋はシャッターまで走った。
タマモもそのあとを追い、すぐ横まで来る。
触れる。
冷たい。
閉じたままだ。
隙間から中を覗く。
暗い。
人の気配はない。
「式を入れます」
千尋は小さな札を取り出し、指先で折った。
形を得た式神が、シャッター下のわずかな隙間から中へ滑り込む。
意識を寄せる。
埃。
古い棚。
空の店内。
誰もいない。
「いません」
「であろうな」
「タマモさん、あれは?」
タマモはすぐには答えなかった。
シャッターを見上げる。
「おるようで、おらぬ」
「はい?」
「妾にも見えた。じゃが、捕まえる相手がおらぬ」
千尋は黙った。
「霊ではない?」
「少なくとも、妾が知る霊のありようとは違う」
「じゃあ、何なんでしょう」
「知らぬ」
即答だった。
「分からぬものを、分かった顔で決めるでない」
「……はい」
修司にも、似たようなことを言われた気がする。
千尋は端末へ時刻と場所を記録した。
*
それだけなら、閉店した店に現れる妙な人影で終わっていたかもしれない。
だが、商店街にはもう一つ、変なものがあった。
「あそこ、まだやっておるのか」
タマモが通りの先を見る。
古い洋菓子店だった。
外観には年季が入っているが、店内には灯りがついている。
窓には小さなクリスマス飾り。
入口脇には、ケーキの予約受け取りについての紙が貼られていた。
「やってますね。ずいぶん古そうな店です」
千尋が言った時、一組の男女がその店へ入っていった。
数十秒後。
今度は買い物袋を持った女が一人。
さらに少しして、親子らしい二人。
吹雪の中だというのに、妙に人が入っていく。
「クリスマスだからですかね」
向かいで雪かきをしていた老人が、独り言のように言った。
「今日は繁盛してるなあ、あそこ」
千尋も、そう見えた。
この天気でこれだけ客が入るなら、忙しいだろう。
だが。
何となく引っかかった。
「ちょっと見てきます」
タマモへ小声で告げ、千尋は洋菓子店へ向かった。
扉を開ける。
甘い匂い。
暖かな空気。
ショーケースの向こうに店員が二人。
客は、一人だけだった。
先ほど入ったはずの男女も、女も、親子もいない。
奥へ通じる場所も見える。
短時間で全員が裏口から出たとは考えにくい。
「いらっしゃいませ」
店主らしい老人が声をかけてきた。
「あ、すみません。ちょっと聞きたいんですけど」
「はい?」
「今日、かなり忙しいですか?」
老人が苦笑した。
「この雪で?」
「ですよね」
「予約はあるけどねえ。取りに来られないって電話の方が多いよ。店は見ての通り」
千尋は店内を見る。
確かに、忙しそうには見えない。
「さっき、何人か続けて入ってきませんでした?」
「さっき?」
老人は首を傾げた。
「お客さんなら、今いる方くらいだけど」
千尋は何も言えなかった。
適当に礼を言って店を出る。
外では、タマモが建物の脇で待っていた。
誰も近くにいない。
千尋はそのそばまで戻り、少し腰をかがめた。
「中は?」
「普通でした」
「今入った者どもは?」
「いません」
タマモは店の入口を見る。
ちょうど、また一人の男が歩いてきた。
雪の中を、店へ向かって。
扉の前へ。
そのまま中へ入る。
千尋はすぐに扉を開けた。
店内。
客は増えていなかった。
「……何なんですか、これ」
今度は、タマモも答えなかった。
閉まった店へ入れば、怪異に見える。
開いている店へ入れば、ただの客に見える。
けれど。
どちらも、店の中にはいない。
千尋は二つの場所を端末へ記録した。
まだ、意味は分からなかった。




