序章 雪の降る日
十二月二十二日の夜。
窓の外に、白いものが見えた。
初めから降っていたわけではない。
夕方までは、ただ曇っておった。
空が低く、風が冷たく、主様がお帰りになった時には「今日は寒いね」とおっしゃっていた。その程度である。
それが、夕餉を終えた頃には変わっていた。
「タマちゃん、雪」
主様の声に、妾は顔を上げた。
居間の窓際に立たれた主様が、外を見ておられる。
妾は伏せていた場所から身を起こし、四つ足でそちらへ向かった。
急いだつもりはない。
ないが、主様が妾をお呼びになったのである。
少々足が速くなるのは、致し方あるまい。
「ほら」
主様の足元まで行くと、抱き上げてくださった。
妾はその腕の中から窓の外を見る。
街灯の光の中を、小さな白いものがいくつも落ちていた。
風に流され、斜めに降っている。
屋根も、塀も、向かいの家の植木も、まだ白くなるほどではない。
それでも、道の端にはうっすらと雪が残り始めていた。
「にゃあ」
「降ってきたねえ」
主様の指が、妾の頭を撫でる。
耳の間から首筋へ、ゆっくりと。
妾は目を細めた。
雪を見るのも悪くはない。
されど、こちらの方がよい。
「この調子なら、今年はホワイトクリスマスになるかもね」
主様がそうおっしゃった。
ほわいと、くりすます。
前半は分かる。
白い、という意味であろう。
後半も、名だけならば知っている。
近頃は町を歩けば、赤や緑の飾りが目につく。店先には光る木が置かれ、丸い飾りや星がぶら下がっている。
菓子屋の前には、白い髭の老人までおる。
あれと関わりがあることまでは知っていた。
だが――
「主様」
「ん?」
「くりすます、でございますか?」
主様が、妾を見下ろされた。
「うん。あれ、タマちゃん、クリスマス知らない?」
「名は存じておりまする。町の飾りも見ております。ですが、何をする日なのかまでは」
「ああ、そっちか」
主様は納得したように頷かれた。
そのまま妾を抱いて、窓際を離れる。
妾は腕の中で姿勢を整えた。
降ろされるのかと思ったが、そうではなかった。
主様は腰を下ろされ、妾を膝の上へ置いてくださった。
ならば、動く理由はない。
妾は前足を揃えた。
「クリスマスはねえ……」
主様が少し考える。
「ケーキ食べたり」
「けえき」
「プレゼント渡したり」
「贈り物を?」
「うん。あと、店とか町が派手になる」
それは知っている。
「それは、よう存じております」
「だよね」
主様が笑われた。
妾の背を、手のひらでゆっくり撫でてくださる。
尾の先が、膝の上で一度だけ動いた。
「まあ、何するかは人によるかな。僕も毎年ちゃんと何かしてたわけじゃないし」
「左様にございますか」
「実家にいた頃は、ケーキが出るくらいだったかなあ」
主様は、もう一度窓の方を見られた。
「雪は毎年あったけど」
その言葉に、妾も振り返る。
先ほどより、白いものが増えている。
「主様の故郷では、雪が多いのでございますか?」
「うん。これくらいなら、まだ全然」
主様にとっては、珍しいものではないらしい。
妾は、もう一度窓の外を見る。
街灯の下を流れる白い粒は、先ほどより増えていた。
屋根の端にも、薄く白が残り始めている。
主様の故郷では、これが毎年の景色であったらしい。
そう聞くと、なんとなく、もう少し眺めていたくなった。
「積もるかな」
主様がおっしゃる。
妾は窓の外を見たまま、耳だけを主様へ向けた。
「積もれば、何かなさるのでございますか?」
「んー。雪かき?」
思っていたものと違った。
妾は主様を見上げる。
主様も妾を見る。
「必要になるでしょ?」
「……左様にございます」
もっと風情のある答えがあるものかと思ったが、確かに必要であろう。
主様らしいと言えば、主様らしい。
「タマちゃんは雪、好き?」
問われて、少し考える。
好きか嫌いかで申せば、どちらでもない。
見ている分には綺麗だが、積もれば歩きにくそうではある。
猫の姿では、腹まで雪につきそうだ。
だが、今は暖かな部屋におり、主様の膝の上にいる。
外では雪が降っている。
それならば。
「今は、好きでございます」
主様が目を瞬かれた。
「今は?」
「はい」
それ以上は申し上げなかった。
主様も、深くはお尋ねにならなかった。
ただ、妾の頭をもう一度撫でてくださった。
妾はその手へ額を寄せる。
今は二人きりである。
誰に見られるわけでもない。
ゆえに、少しくらいはよかろう。
主様の手のひらへ頬を擦りつけると、指が顎の下へ回った。
「ご機嫌だね、タマちゃん」
そう見えるのであれば、それでよい。
実際、機嫌はよい。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
街灯の下も、屋根の上も、少しずつ白くなっていく。
明日の朝には、景色が変わっているやもしれぬ。
妾はまだ、くりすますというものをよく知らない。
けえきを食べ、贈り物をする日。
今のところは、それくらいである。
ただ。
主様がお話しになるものならば。
きっと、悪いものではあるまい。




