終章 頭だけだぞ
事件が終わってから、しばらく経った。
街は何も変わらない。
人間は仕事へ行く。
子供は学校へ行く。
猫は日向を探す。
小さな妖は、相変わらずどうでもいい相談を持ってくる。
「灰尾ー」
「今度は何だ」
「裏の家の軒下に変なのいる」
「タマモに持ってけ」
「前もそう言った」
「なら今回もそうしろ」
「灰尾は?」
「面倒だ」
「たまには見てくれよ」
「本当に面倒なら呼べ」
「どっちだよ」
「自分で考えろ」
小妖は不満そうに帰っていった。
灰尾は塀の上で目を閉じる。
秋の日差しが、背中にちょうどいい。
事件の前と同じ。
それでよかった。
「灰尾」
聞き慣れた声がした。
目を開ける。
塀の下に、三毛猫がいる。
「なんだ」
「少し付き合え」
「嫌だ」
「まだ何も言うておらぬ」
「お前が来て『付き合え』で、面倒じゃなかったことがあるか」
「失礼な猫じゃ」
タマモが塀へ飛び乗る。
「で?」
「主様がお主をお呼びじゃ」
灰尾は両目を開いた。
「俺を?」
「うむ」
「何の用だ」
「先日の獣の件じゃ」
灰尾は起き上がった。
「まだ終わってねえのか」
「獣そのものは終わっておる」
「なら何だ」
「主様が、あの獣がどこを通って来たのかをお調べになった」
「分かったのか」
「うむ」
「特事でも分からなかったやつを?」
「主様じゃぞ」
「……そうかよ」
そこへ驚くのも、もう面倒だった。
「場所が分かったなら、俺はいらねえだろ」
「お主に残っておるものも、見ておきたいそうじゃ」
「なんで」
「今回の獣が通った痕を、より確かに合わせるためらしい」
「俺に?」
灰尾は自分の前脚を見る。
「妾にも詳しいところまでは分からぬ。ただ主様は、最後にあの獣の中にあった硬いものへ、直接触れた者をお探しになった」
あの結晶。
シェイプシフターの身体が崩れたあと、灰の中に残ったもの。
「俺だな」
「うむ」
「お前もあいつを捕まえてただろ」
「妾が触れたのは身体じゃ。あれそのものではない」
「……本部に持ってった石じゃ駄目なのか」
「あれも手掛かりにはなるそうじゃ。じゃが、もう止まった後のものじゃ」
灰尾は自分の爪を見る。
あの時はまだ、生きていた。
動いていた。
形を変え続けていた。
その中にあった一点へ、自分の妖力ごと爪を通した。
「動いてた時に触った痕も、見ておきたいってことか」
「そのようじゃ」
「俺には何も分からねえぞ」
「分からぬままでよいそうじゃ」
「なんだそりゃ」
「妾に聞くでない」
「で、何させられんだ」
「行けば分かる」
「それ、一番嫌いなやつだ」
「では断るか?」
灰尾はしばらく黙った。
「……行く」
「そう言うと思うた」
「その顔やめろ」
「何のことじゃ」
*
タマモが「主様」と呼ぶ男と会ったのは、街の外れだった。
特事が反応を拾った三地点からは外れている。
住宅地が途切れ、林へ変わる境目。
古い石段から少し外れた、何の変哲もない場所だ。
そこには、すでにその男がいた。
「こんにちは」
最初に聞こえたのは、それだけだった。
声にも。
周囲の気配にも。
灰尾が身構えるようなものは何もない。
タマモがあれほど特別に扱う相手なのに、拍子抜けするほど普通だった。
「こちらが灰尾じゃ、主様」
「うん」
男の視線が灰尾へ向く。
「灰尾くん?」
「ああ」
「はいび、で合ってる?」
灰尾の耳が少し動いた。
「合ってる」
「タマちゃんから聞いた」
「タマちゃん……」
横を見る。
タマモは当然という顔をしていた。
「何じゃ」
「いや。何でもねえ」
今はそこではない。
「俺が必要だって聞いた」
「うん。来てくれてありがとう」
「何すりゃいい」
男が少し先を指した。
「こっち」
木立の中へ数歩入ったところで止まる。
「ここ」
灰尾は鼻を動かした。
何もない。
「ここから来たのか?」
「うん」
「分かるのか」
「調べたから」
「……簡単に言うな」
男は何もない空間を見た。
「ただ、ちょっと変なんだよね」
「何がだ」
「いつもの異界なら、どこにつながってるか分かるんだけど」
少しだけ首を傾げる。
「これは、こっちのどこにも行き先がない」
灰尾には意味が分からない。
タマモも静かにその男を見上げている。
「異界ではないのですか」
「いつものとは違うみたい」
「では、どこへ?」
「こっちの外、なのかな」
男はそれ以上を説明しなかった。
灰尾にも分からない。
タマモにも分からない。
だが。
この男には、何か区別がついている。
それだけは分かった。
「それで俺か」
「うん」
男が灰尾の前脚を見る。
「向こうから来たものが、一度ここを通ってる」
「シェイプシフター」
「たぶん、その子」
「たぶん?」
「向こうで何て呼ばれてるかは知らないから」
「……ああ、そういう意味か」
「その子が通った時の痕を合わせるのに、灰尾くんに残ってる方も目印に使わせてほしいんだ」
「俺に残ってるってやつか」
「うん」
「減ったりすんのか」
「しないよ。見るために使うだけ」
「ならいい」
「タマちゃんにも、その子に触った痕はあるよ」
「あるのか」
「でも、最後まで動いてたところに直接触った痕があると、合わせやすい」
「なくても分かるのか」
「たぶん。でも、あるなら使った方が確かだから」
灰尾は前脚を見る。
「……俺だな」
「そうみたい」
「何すりゃいい」
男が地面の一点を示した。
「ここに前脚、置いてもらえる?」
「ここ?」
「うん」
「何もねえぞ」
「大丈夫」
「痛えことすんなよ」
「しないよ」
「……ならいい」
灰尾が前脚を置く。
何も起こらない。
「これで?」
「うん」
男もしゃがみ込む。
灰尾の脚には触れず、その少し横へ指を置いた。
「ああ」
小さく声を上げる。
「残ってるね」
「俺には分かんねえ」
「すごく薄いから」
男が指先を動かす。
灰尾の前脚が、わずかに熱を持った。
痛くはない。
気づかず刺さっていた小さな棘へ、ようやく気づいたような感覚。
何もないはずの空間に。
細い筋のようなものが見える。
「……あれか」
「見える?」
「なんとなくな」
タマモも目を細めた。
「妾にも、今ならば」
男はその細い筋と、灰尾の前脚を交互に見る。
「うん。同じだ」
「何がだ」
「通った痕」
線の一端を確かめる。
灰尾に残った痕と照合する。
位置を合わせる。
指で、何もない場所を短くなぞる。
少し離れて見直す。
「よし」
男が立ち上がった。
「灰尾くん、もういいよ」
「俺は?」
「終わり」
灰尾が前脚を上げる。
「閉じたのか」
「まだ」
「まだなのかよ」
「今ので準備できた」
男は、細い筋へ向き直った。
「じゃあ、閉じるね」
両手を合わせる。
ぱん。
乾いた柏手が、一つ。
その瞬間。
細い筋が消えた。
薄くなったのではない。
遠ざかったのでもない。
そこにあったものが、最初から何もなかったように途切れた。
灰尾の前脚に残っていた微かな違和感も、同時になくなる。
「……消えた」
「うん」
男が手を下ろす。
「これで終わり」
灰尾は、何もなくなった場所を見る。
柏手を打つ前までは、確かにまだ何かがあった。
男はその前に、必要なものを全部揃えていた。
そして最後に。
あの一音で、全部が動いた。
どういう仕組みなのかは分からない。
聞いても多分、分からない。
「終わったならいい」
「うん」
「俺に残ってたやつは?」
「あれは、接続を通ったものに触れた時の痕だからね。閉じる時に、そっちも一緒に切れたよ」
「そうか」
「来てくれて助かった」
「別に。前脚置いてただけだ」
「それでも、灰尾くんの痕があったから、すぐ合わせられたよ」
灰尾の耳が少し動く。
「……そうかよ」
「うん」
タマモが、にやりとした。
「よかったのう、灰尾」
「何がだ」
「主様に褒めていただきたそうにしておったではないか」
「してねえ!」
「そうなの?」
男が聞く。
「違う!」
「遠慮するでない」
「お前は黙れ!」
タマモが楽しそうに尾を揺らす。
男は少し考えてから、灰尾を見る。
「じゃあ、ちゃんと褒めるね」
「だからいらねえって――」
「タマちゃんから聞いたよ」
灰尾が止まる。
「最後、誰が何をできるか見て、役目を決めたんだって」
「……ああ」
「それで、みんなに任せるところは任せて、自分の仕事に集中したって」
「使える奴に仕事振っただけだ」
「うん。でも、誰に何を任せるかは、ちゃんと相手を見てないと決められないでしょ」
灰尾は答えなかった。
「そういうの、すごいと思うよ」
二本の尾の片方が、わずかに動く。
男は続ける。
「タマちゃんが灰尾くんを頼りにするの、ちょっと分かった気がする」
灰尾はタマモを見る。
タマモは少しだけ得意そうな顔をしていた。
「……大げさだ」
「そう?」
「俺は俺の仕事しただけだ」
「うん」
男は笑った。
「それでみんな無事だったなら、十分だと思う」
灰尾はしばらく何も言わなかった。
「……そうかよ」
「うん」
灰尾はそこで。
少しだけ。
この男が、タマモがあれほど大事にしている相手なのだと分かった気がした。
*
「じゃあ、帰ろうか」
「はい、主様」
タマモがすぐ隣へ並ぶ。
灰尾も帰ろうとした。
「あ」
男が呼び止める。
「灰尾くん」
「今度は何だ」
「触ってもいい?」
灰尾が止まる。
タマモも止まる。
「……俺を?」
「うん」
「なんで」
「猫だから」
「……」
灰尾はタマモを見る。
タマモは何も言わない。
ただ。
一本の尾が、ゆっくり地面へ下りた。
嫌な予感がした。
「灰尾くん?」
「……頭だけだぞ」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう」
男がしゃがむ。
手が伸びる。
頭へ触れる。
一度。
二度。
「おお」
「何だよ」
「ふわふわだ」
「猫だからな」
「タマちゃんとはまた違うね」
ぱしん。
地面を叩く音。
灰尾の耳が動いた。
男は気づいていない。
「灰尾くん、結構毛がしっかりしてるね」
「野良が長かったからな」
「そっか」
ぱしん。
また。
灰尾は横を見る。
タマモがそっぽを向いている。
「……お前」
「なんじゃ」
「さっきから機嫌悪くねえか」
「何のことじゃ」
ぱしん。
「その尾だよ」
「風じゃ」
「無理あるだろ」
「風じゃ」
「風ねえぞ」
「黙れ」
「やっぱ機嫌悪いじゃねえか」
「悪くない」
男が二匹を見る。
「どうしたの?」
「何でもございませぬ、主様」
「そう?」
「はい」
タマモがにこりと笑う。
尾だけが。
ぱしん。
灰尾は小さく息を吐いた。
「……面倒くせえ猫だな」
「何か申したか?」
「何も」
男が立ち上がる。
「じゃあ帰ろうか、タマちゃん」
「はい!」
「またね、灰尾くん」
「……ああ」
さっきまでの不機嫌が嘘のように、タマモが男の隣へ並ぶ。
二人が歩き出す。
灰尾は少し離れて、それを見送った。
変な猫。
変な人間。
変な街。
自分の前脚を見る。
もう何も残っていない。
それでいい。
「灰尾ー!」
遠くから小妖の声が飛んできた。
灰尾は耳を伏せた。
「今度は何だ!」
「さっきの件なんだけど!」
「タマモに持ってけ!」
「もう帰っちゃった!」
「知らねえよ!」
「灰尾ー!」
「うるせえ!」
今日も。
いつもの縄張りは面倒だった。




