第七章 獲物
捕獲に失敗してから二日。
最初に見つかったのは、鼠だった。
珍しいことではない。
街に鼠はいる。
猫もいる。
蛇もいる。
死んでいる鼠が一匹見つかったくらいで、騒ぐ理由はない。
二匹。
三匹。
場所がつながったところで、灰尾は足を止めた。
「これもだ」
千尋がしゃがみ込む。
「食べられてますね」
「そうだな」
「猫が食べた跡とは違う?」
「違う」
「どう違うんです?」
「食い方が雑だ」
「雑?」
「猫なら、もっと残し方に癖が出る」
灰尾は少し離れた場所へ鼻を寄せる。
「それに、こいつの匂いがある」
「シェイプシフター」
「ああ」
千尋が手帳へ記録する。
その後も、似た痕跡が出た。
小鳥。
虫。
捨てられていた弁当の残り。
どれも大した量ではない。
一つずつなら、街のどこにでもある。
だが経路をつなげれば、灰色の獣が何をしているのか見えてくる。
「食ってるだけだな」
灰尾が言った。
修司が横を見る。
「それだけ?」
「ああ」
「問題ないと?」
「そんなこと言ってねえ」
灰尾は二本の尾の片方を振った。
「生き物が腹減って食うのは普通だって言ってんだ」
タマモも頷いた。
「獣ならば、なおさらじゃ」
千尋が紙をめくる。
「じゃあ、この段階では捕食自体を危険行動とは扱わない?」
「場所による」
修司が答えた。
「人の飼っている動物を襲い始めれば別だ。感染症や残骸の問題もある。ただ、小動物を食っているというだけなら、それだけで討滅理由にはしにくい」
「ですよね」
灰尾は何も言わなかった。
それでいいと思った。
あれは悪党ではない。
少なくとも今まで見た限りでは。
こちらへ来てしまって。
何も分からない場所で。
食えるものを探している。
それだけだ。
だからこそ、面倒だった。
*
数日後。
日はすでに落ちていた。
千尋の式神が、一人の男を追っていた。
正確には。
男を追っているものを、式神が追っていた。
「灰尾さん」
小さな声が飛んでくる。
灰尾は屋根の端へ出た。
下の道を、一人の男が歩いている。
仕事帰りらしい。
肩に鞄。
手にはコンビニの袋。
何も知らず、住宅街を自宅へ向かっている。
その後ろ。
街灯と街灯の間。
暗がりに、灰色のものがいた。
「どれくらいだ」
「十分ほど」
隣の屋根へ千尋の式神が降りる。
少し離れた場所にいる千尋の声が、それを通じて届いた。
「ずっとです」
「偶然同じ方向じゃねえのか」
「最初はそう思いました」
「で?」
「男の人がコンビニに入った時、向かいの植え込みで待ってました」
灰尾の耳が立つ。
「出てきたら?」
「また追跡を開始」
「……そうか」
下の男が曲がる。
灰色の獣はすぐには曲がらない。
手前で止まる。
物陰に入る。
少し待つ。
それから、角へ近づく。
顔だけを出す。
男が遠ざかったことを確認してから、また動き始めた。
灰尾の目が細くなる。
「止まった時は?」
「二回。どちらも隠れてました」
「距離は」
「だいたい同じです」
「近づいたりは?」
「人通りがなくなってから、少しずつ」
灰尾は立ち上がった。
「何が分かった?」
少し後ろにいた修司が聞く。
「狩ってる」
千尋が息を止める。
「やっぱり……」
「尾行じゃねえ」
「違いは?」
修司が聞いた。
灰尾は下を見たまま答えた。
「相手に見つからねえ距離を取ってる。止まりゃ隠れる。周りに人がいる間は詰めねえ。いなくなってから距離を縮めてる」
「襲う場所を探している?」
「たぶんな」
「断定は?」
「まだしねえ」
灰尾は屋根から飛び降りた。
「だが試す必要もねえだろ」
修司も頷いた。
「千尋。あの男はそのまま行かせろ」
「はい。式神を一体つけます」
「タマモ」
「心得ておる」
男が次の角を曲がる。
何も知らないまま、そのまま歩いていく。
灰色の獣が物陰から出た。
男の消えた角へ向かう。
その進路へ。
一匹の三毛猫が、塀からひらりと降りた。
タマモだった。
二匹の猫が向き合う。
灰色の獣が止まる。
だが、その目はタマモではなく。
その肩越し。
男が消えた角を見ていた。
右へ動く。
タマモも右へ。
左。
同じ。
灰色の獣が一歩下がる。
また右へ回ろうとする。
タマモが先に塞ぐ。
獣は数秒、タマモを見た。
それでも、もう一度だけ男の消えた方へ目を向ける。
それから身を翻した。
逃げた。
タマモは追わなかった。
「男の人、そのまま進んでます。もう距離は開きました」
千尋の声が、式神を通じて届く。
灰尾は獣の消えた方から目を離さなかった。
「追わなくていいのか?」
「今ここで捕らえて、また逃げられては意味があるまい」
「それもそうだ」
「それに」
タマモが、獣の消えた方を見る。
「あれは今、妾ではなく、あの男を見ておった」
「ああ」
灰尾も見ていた。
最初に人間を傷つけた時とは違う。
あの時は近づかれた。
もう一人も横へ回った。
それで一撃だけ振って逃げた。
今回は違う。
邪魔をされても、まだ追おうとした。
自分から、獲物を。
*
四人が再び揃った時。
最初に口を開いたのは千尋だった。
「最初の負傷者とは、行動が違います」
修司が頷く。
「整理してくれ」
「最初は、人が近づいています。対象は距離を取り、逃げようとして、さらに近づかれてから一度だけ攻撃。その後は追撃せず逃走しました」
「防衛行動と見るのが自然だな」
「はい。でも今回は――」
千尋が一度、灰尾を見る。
「自分から人間を追っています。見つからないように距離を取り、人通りが減るのを待って、徐々に接近していました」
「灰尾」
「狩りだ」
迷わず答える。
「少なくとも、俺ならそう見る」
「捕食目的と断定していいか?」
「腹減ってんのは分かってる。小動物食ってるのも分かってる。そこまで揃ってりゃ、他に何だと思う」
「最初に怪我をした人のことも、覚えているでしょうか」
千尋が聞く。
灰尾は少し考えた。
「かもな。鼠や鳥は逃げる。穴にも潜る。だが、あの男は一発でその場に倒れた」
「それで、人間の方が楽だと?」
「あいつがそこまで考えてるかは知らねえ。ただ、楽な方を覚えたってんなら筋は通る」
修司は黙った。
しばらくして言う。
「最初の一件だけなら、まだ捕獲だった」
誰も口を挟まない。
「未知の生物で、最初の傷も防衛行動と考えられた。可能なら捕まえて、隔離して、調べる。それでよかった」
「でも、一回逃げられています」
千尋が言った。
「ああ。現場で安全に収容できる見込みも立っていない」
「返す先も分かっておらぬ」
タマモが続ける。
「どこから来たのかさえ分からぬのじゃからな」
「その上で、人間を獲物として見始めた」
修司が息を吐く。
「捕獲優先は解除する」
千尋が顔を上げる。
「討滅、ですか」
「ああ」
修司の声には怒りはなかった。
「悪意がないことと、危険ではないことは別だ」
灰尾はその言葉を聞いて、修司を見る。
「珍しく気が合うな」
「珍しくは余計だ」
「人間にしちゃ話が早えってことだ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてねえからな」
千尋がまた笑いそうになっている。
灰尾が睨むと、すぐに顔を逸らした。
タマモだけは笑わなかった。
しばらく静かに、暗い道の先を見ている。
「悪しきものではないことは、妾にも分かっておる」
いつもより低い声だった。
「腹が減れば喰らう。それだけの獣じゃ」
「はい」
「じゃが」
タマモの尾が、ゆっくり動く。
「主様がおられる街で、人を狩りやすい餌と覚えた獣を放しておく気はない」
千尋は何も言わなかった。
修司も。
灰尾だけが鼻を鳴らした。
「それでいい」
悪いから仕留めるのではない。
獣だから許すのでもない。
ここで生きるには、危険すぎる。
それだけだった。




