第一章 いつもの縄張り
朝晩の空気が、少しだけ冷たくなった。
昼間はまだ暑いが、日陰に入れば夏の盛りほどではない。
灰尾は塀の上を歩いていた。
見回りをしているつもりはない。
ただ、いつも通る場所を、いつも通り歩いているだけだ。
水路に変なものが詰まっていないか。
人間に見つかりそうなところで小妖が騒いでいないか。
知らない妖が入り込んでいないか。
普通の猫が妙なものに近づいていないか。
そういうものが目に入れば、つい見てしまう。
長くここにいると、そうなる。
「灰尾ー」
下から声がした。
葉っぱを被ったような小さな妖が、電柱の陰から顔を出している。
「なんだ」
「向こうの空き家に、知らないのが寝てる」
「何だよ、知らないのって」
「知らないから知らないの」
「見た目は」
「丸い」
「役に立たねえな」
灰尾は足を止めた。
「悪さしてんのか」
「してない」
「人に見つかりそうか」
「たぶん平気」
「じゃあ放っとけ」
「いいの?」
「本当に面倒ならタマモんとこ持ってけ。あいつなら話くらいは聞く」
「灰尾は?」
「面倒だ」
「前は見てくれたのに」
「今はあいつがいるだろ。それと、人に見つかるようなとこで騒ぐな。逃げ道くらい残しとけ」
「分かってるよ」
「ならいい」
小妖は不満そうな顔をしたが、やがて走っていった。
灰尾はまた歩き出す。
昔なら、結局自分で見に行った話だ。
今はタマモがいる。
あいつは強い。
話も聞く。
妙なところで甘いが、何をしていいか分からず暴れるような妖ではない。
少なくとも、タマモに回せる話まで灰尾が全部抱える必要はない。
それだけの話だ。
*
「昨日、あっちにいただろ」
昼を過ぎたころ。
細い路地で、小鬼に呼び止められた。
「あっちってどこだ」
「駐車場の方」
「行ってねえ」
「え?」
「昨日はそっち通ってねえよ」
「でも見たぞ」
「別の猫だろ」
「灰色だった」
「灰色の猫なんか珍しくねえ」
「尻尾も」
「猫の尻尾なんか見分けつくか」
小鬼は首を傾げた。
「灰尾だと思ったんだけどなあ」
「思っただけだろ」
灰尾はそのまま歩いた。
それだけなら気にも留めなかった。
夕方。
公園脇の木から、鳥の妖が声を掛けてくるまでは。
「今日はこっちか」
「何がだ」
「昨日は向こうにいたじゃん」
「……どこだ」
「川の方」
灰尾は足を止めた。
「何時ごろだ」
「夕方。日が落ちる前」
その時間なら、灰尾は商店街の裏にいた。
「本当に俺だったか」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「灰色だったし」
「それだけじゃ分からねえだろ」
「顔も似てた」
灰尾の二本の尾、その片方が一度動く。
「尻尾は」
「尻尾?」
「何本あった」
鳥の妖は少し考えた。
「一本だったかな?」
「だったかな、かよ」
「ちゃんと見てなかった」
「役に立たねえな」
「ひどくない?」
灰尾は返事をしなかった。
駐車場。
川沿い。
どちらも自分の縄張りの内側だ。
ただの灰色の猫なら、それでいい。
だが。
違う場所で、違う相手が。
どちらも自分だと思った。
灰尾は塀から降りた。
自分の縄張りで、自分の知らない自分が歩いている。




