終章 お出かけの前に
沢の音は、あの夜と変わらぬように聞こえた。
されど、妾には分かる。あの時、この場所を覆っていたものは、もうない。
階段は歩いたぶんだけ近づき、壁は壁のまま、水は水のまま流れている。機関の者たちもすでに引き上げ、臨時に置かれていたものも片付けられていた。
主様は古びた施設跡を見回してから、一度うなずかれた。
「うん。誰もいないね」
妾はその隣に立つ。
今日は昼である。あの夜のような慌ただしさもない。
「主様」
「ん?」
「妾には、もう閉じておるように感じられまする」
あの鈴が消えた後、捕らえる働きは消えた。向こう側へ引こうとする気配もなくなった。
機関の者たちも調べた末に、この場所を閉鎖済みとして扱った。妾にも異論はなかった。
「うん。こっち側は閉じてるよ」
主様はそうおっしゃってから、少しだけ首を傾げられた。
「でも、つながりがまだ残ってるみたい」
「……つながりが」
「薄く、かな。向こう側に引っかかってる感じ」
主様のご説明は、いつもながら簡潔である。
されど、その言葉を聞いて、妾はあの夜の玄関先を思い出した。
*
『主様、急用ができました。少し、出かけてまいります』
夜も遅い時刻であった。
普段なら、妾が一人で外へ出ようなどとはせぬ時間である。主様は居間から妾をご覧になった。
『こんな時間に?』
『はい。知人が、助けを求めております』
千尋から届いた式神は短かった。
場所と、二人の名。隔離が進んでいること。そして、救援を求めていること。
『すぐに戻りまする』
影へ移ろうとした妾へ、主様がおっしゃった。
『タマちゃん、ちょっと待って』
足を止める。
主様は妾をご覧になったまま、ほんの少し黙られた。何かを確かめておられるような、遠くを見るような間であった。
『……そっか』
小さく呟かれる。
そして、差し出された掌には、先ほどまでなかった小さな鈴があった。細い紐が付いている。
『これ、持っていって』
『これは』
『お守り』
主様は紐を指でつまみ、鈴を手から下げられた。
『紐を持って、こうやって鳴らせばいいよ。まず一回。二人を出したら、あと三回ね』
妾は両手で受け取った。
『承知いたしました』
主様は、もう一度妾をご覧になった。
『まずは二人を出してあげて』
『はい』
『後で、閉じとくから。まずはこれだけね』
あの時、胸の内に灯ったものを、妾は誰にも申し上げてはおらぬ。
あの檻が妾を捕らえ得たかどうかなど、今となってはどうでもよい。
主様は妾が向かう先を知り、妾が戻ってくるためのものを持たせてくださった。
護られておる。
そう思えたことが、妾には何より嬉しかった。
*
「タマちゃん?」
声に呼び戻される。
「……失礼いたしました」
「ううん」
主様は、崩れたコンクリートの一角をご覧になっていた。鉄筋が一本、斜めに露出している。
「あ、これ使えるかな」
近づかれる。
「タマちゃん、これ取り出せる?」
「お任せくださいませ」
鉄筋の根元へ手を掛ける。少し力を入れれば、周囲のコンクリートが小さく崩れた。
妾は鉄筋だけを抜き出す。長さは、妾の背丈より少し短いほどである。
「はい」
「ありがとう」
主様は受け取られた。
鉄筋一本を手に施設跡を何歩か歩き、やがて何もない地面の前で止まられる。
「えーっと……どこらへん……あ。ここだ」
「ここなのでございますか」
「みたい」
妾には、特別なものは感じられぬ。
主様は鉄筋を地面へ垂直に立てようとなさった。
当然ながら、立たぬ。
「あ」
手を離しかけ、すぐに支え直される。
「そりゃそうか」
妾は口元を押さえた。
「笑った?」
「滅相もございませぬ」
「今ちょっと笑ったでしょ」
「気のせいにございまする」
主様は鉄筋を支えたまま、少し考えられた。
「僕以外が支えるのは大丈夫、と……うん。タマちゃん、ごめんだけど、これ、まっすぐ支えられる?」
「もちろんにございます」
妾は主様の手から鉄筋を受け取り、地面へ垂直に、動かぬよう支える。
ただ、それだけのことである。
されど、主様が妾をお頼りになった。それだけで少々、頬が緩む。
「動かさないでね」
「はい」
主様は鉄筋の上端へ手を置かれた。
とん、と一度。
とん、と二度。
とん、と三度。
それから、両手を合わせられる。
ぱん。
乾いた柏手が、沢へ響いた。
妾の手の中から、鉄筋が消える。
「……あ」
落ちたのではない。影へ入ったのでもない。
初めからそこに何もなかったように、手の中だけが空になった。
同時に、ごくわずかに残っていた、名を付けることもできぬ違和感が、すっと消えた。
主様が一度うなずかれる。
「うん。これで大丈夫」
「閉じたのでございますか」
「うん。あの棒、閂の代わりにできたから。これでもう閉じたね」
妾は、先ほどまで鉄筋を支えていた手を見る。
何も残っておらぬ。
「ありがとうございます、主様」
「ん?」
「この場所を、閉じてくださって」
主様は少し不思議そうになさった。
「うん。でも、タマちゃんも手伝ってくれたじゃん」
そして。
「ありがとう。助かったよ」
その一言で、先ほどよりもずっと胸が満たされた。
「……はい。お役に立てましたなら、何よりにございます」
*
用は終わった。
主様は階段を上りながら、空を見上げられた。
「まだ時間あるね」
「左様でございますな」
「終わったし、どこか一緒に出かけようか」
足が、一瞬止まりそうになった。
「……よろしいのでございますか」
「うん。せっかく休みだし」
主様は、ごく普通におっしゃる。
「どこ行こうか」
妾の胸の内では、先ほど閉じた異界のことなど、早くも遠くなり始めていた。
「主様」
「ん?」
「一度、家へ戻ってもよろしいでしょうか」
「いいよ」
妾は、なるべく平静にうなずいた。
*
家へ戻る。
主様が階下で待ってくださる間に、妾は二階へ上がり、戸を閉めた。
影へ手を差し入れ、先日、千尋と共に選んだ衣を取り出す。
華美すぎず、されど、いつもの装いとは少し違う。
鏡の前で袖を通す。
髪は片側へ寄せる。髪留めは変えぬ。
あの日、主様が気づいてくださったものだから。
「……よし」
千尋の真似をして、小さく呟いてみる。
似合っておるか、妾自身にはよく分からぬ。
されど、妾が選んだ。千尋と共に見て、妾が着たいと思ったものを。
それでよいと、そう教えられた。
階段を下りる。
主様が玄関近くで待っておられた。
「あ」
こちらをご覧になる。
「お待たせいたしました」
「ううん」
主様の視線が、妾の衣へ、髪へ、そしてもう一度、顔へ戻る。
「その服、初めて見るね」
「はい」
妾は逃げぬように、主様を見た。
「いかがでございましょう」
問うてしまった。
もう、後には引けぬ。
主様は妾をもう一度ご覧になった。
「うん、似合っ……」
言葉が止まる。
妾は続きを待った。目を逸らすことなど、できようはずもない。
主様は、ほんの少しだけ考えるように間を置かれた。
それから、柔らかく笑われた。
「……綺麗だよ」
胸の内で、何かが大きく跳ねた。
欲しかったのは、たった一言であった。
かわいいと、そう言っていただけることも、今までと変わらず嬉しい。
されど今日は、この姿の妾を見て、主様が選んでくださった、その言葉が。
どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけを申し上げる。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
主様が玄関を開けられる。外の光が入ってくる。
妾は、その隣へ並んだ。
行き先はまだ決まっておらぬ。
それでよい。
次に千尋と会ったなら、一つ、礼を申さねばならぬことが増えた。
主様が歩き出される。
妾も、そのお傍を歩いた。




