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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第二部 届くコトバ
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終章 お出かけの前に

 沢の音は、あの夜と変わらぬように聞こえた。

 されど、妾には分かる。あの時、この場所を覆っていたものは、もうない。

 階段は歩いたぶんだけ近づき、壁は壁のまま、水は水のまま流れている。機関の者たちもすでに引き上げ、臨時に置かれていたものも片付けられていた。

 主様は古びた施設跡を見回してから、一度うなずかれた。


「うん。誰もいないね」


 妾はその隣に立つ。

 今日は昼である。あの夜のような慌ただしさもない。


「主様」

「ん?」

「妾には、もう閉じておるように感じられまする」


 あの鈴が消えた後、捕らえる働きは消えた。向こう側へ引こうとする気配もなくなった。

 機関の者たちも調べた末に、この場所を閉鎖済みとして扱った。妾にも異論はなかった。


「うん。こっち側は閉じてるよ」


 主様はそうおっしゃってから、少しだけ首を傾げられた。


「でも、つながりがまだ残ってるみたい」

「……つながりが」

「薄く、かな。向こう側に引っかかってる感じ」


 主様のご説明は、いつもながら簡潔である。

 されど、その言葉を聞いて、妾はあの夜の玄関先を思い出した。


     *


『主様、急用ができました。少し、出かけてまいります』


 夜も遅い時刻であった。

 普段なら、妾が一人で外へ出ようなどとはせぬ時間である。主様は居間から妾をご覧になった。


『こんな時間に?』

『はい。知人が、助けを求めております』


 千尋から届いた式神は短かった。

 場所と、二人の名。隔離が進んでいること。そして、救援を求めていること。


『すぐに戻りまする』


 影へ移ろうとした妾へ、主様がおっしゃった。


『タマちゃん、ちょっと待って』


 足を止める。

 主様は妾をご覧になったまま、ほんの少し黙られた。何かを確かめておられるような、遠くを見るような間であった。


『……そっか』


 小さく呟かれる。

 そして、差し出された掌には、先ほどまでなかった小さな鈴があった。細い紐が付いている。


『これ、持っていって』

『これは』

『お守り』


 主様は紐を指でつまみ、鈴を手から下げられた。


『紐を持って、こうやって鳴らせばいいよ。まず一回。二人を出したら、あと三回ね』


 妾は両手で受け取った。


『承知いたしました』


 主様は、もう一度妾をご覧になった。


『まずは二人を出してあげて』

『はい』

『後で、閉じとくから。まずはこれだけね』


 あの時、胸の内に灯ったものを、妾は誰にも申し上げてはおらぬ。

 あの檻が妾を捕らえ得たかどうかなど、今となってはどうでもよい。

 主様は妾が向かう先を知り、妾が戻ってくるためのものを持たせてくださった。

 護られておる。

 そう思えたことが、妾には何より嬉しかった。


     *


「タマちゃん?」


 声に呼び戻される。


「……失礼いたしました」

「ううん」


 主様は、崩れたコンクリートの一角をご覧になっていた。鉄筋が一本、斜めに露出している。


「あ、これ使えるかな」


 近づかれる。


「タマちゃん、これ取り出せる?」

「お任せくださいませ」


 鉄筋の根元へ手を掛ける。少し力を入れれば、周囲のコンクリートが小さく崩れた。

 妾は鉄筋だけを抜き出す。長さは、妾の背丈より少し短いほどである。


「はい」

「ありがとう」


 主様は受け取られた。

 鉄筋一本を手に施設跡を何歩か歩き、やがて何もない地面の前で止まられる。


「えーっと……どこらへん……あ。ここだ」

「ここなのでございますか」

「みたい」


 妾には、特別なものは感じられぬ。

 主様は鉄筋を地面へ垂直に立てようとなさった。

 当然ながら、立たぬ。


「あ」


 手を離しかけ、すぐに支え直される。


「そりゃそうか」


 妾は口元を押さえた。


「笑った?」

「滅相もございませぬ」

「今ちょっと笑ったでしょ」

「気のせいにございまする」


 主様は鉄筋を支えたまま、少し考えられた。


「僕以外が支えるのは大丈夫、と……うん。タマちゃん、ごめんだけど、これ、まっすぐ支えられる?」

「もちろんにございます」


 妾は主様の手から鉄筋を受け取り、地面へ垂直に、動かぬよう支える。

 ただ、それだけのことである。

 されど、主様が妾をお頼りになった。それだけで少々、頬が緩む。


「動かさないでね」

「はい」


 主様は鉄筋の上端へ手を置かれた。

 とん、と一度。

 とん、と二度。

 とん、と三度。

 それから、両手を合わせられる。


 ぱん。


 乾いた柏手が、沢へ響いた。

 妾の手の中から、鉄筋が消える。


「……あ」


 落ちたのではない。影へ入ったのでもない。

 初めからそこに何もなかったように、手の中だけが空になった。

 同時に、ごくわずかに残っていた、名を付けることもできぬ違和感が、すっと消えた。

 主様が一度うなずかれる。


「うん。これで大丈夫」

「閉じたのでございますか」

「うん。あの棒、閂の代わりにできたから。これでもう閉じたね」


 妾は、先ほどまで鉄筋を支えていた手を見る。

 何も残っておらぬ。


「ありがとうございます、主様」

「ん?」

「この場所を、閉じてくださって」


 主様は少し不思議そうになさった。


「うん。でも、タマちゃんも手伝ってくれたじゃん」


 そして。


「ありがとう。助かったよ」


 その一言で、先ほどよりもずっと胸が満たされた。


「……はい。お役に立てましたなら、何よりにございます」


     *


 用は終わった。

 主様は階段を上りながら、空を見上げられた。


「まだ時間あるね」

「左様でございますな」

「終わったし、どこか一緒に出かけようか」


 足が、一瞬止まりそうになった。


「……よろしいのでございますか」

「うん。せっかく休みだし」


 主様は、ごく普通におっしゃる。


「どこ行こうか」


 妾の胸の内では、先ほど閉じた異界のことなど、早くも遠くなり始めていた。


「主様」

「ん?」

「一度、家へ戻ってもよろしいでしょうか」

「いいよ」


 妾は、なるべく平静にうなずいた。


     *


 家へ戻る。

 主様が階下で待ってくださる間に、妾は二階へ上がり、戸を閉めた。

 影へ手を差し入れ、先日、千尋と共に選んだ衣を取り出す。

 華美すぎず、されど、いつもの装いとは少し違う。

 鏡の前で袖を通す。

 髪は片側へ寄せる。髪留めは変えぬ。

 あの日、主様が気づいてくださったものだから。


「……よし」


 千尋の真似をして、小さく呟いてみる。

 似合っておるか、妾自身にはよく分からぬ。

 されど、妾が選んだ。千尋と共に見て、妾が着たいと思ったものを。

 それでよいと、そう教えられた。

 階段を下りる。

 主様が玄関近くで待っておられた。


「あ」


 こちらをご覧になる。


「お待たせいたしました」

「ううん」


 主様の視線が、妾の衣へ、髪へ、そしてもう一度、顔へ戻る。


「その服、初めて見るね」

「はい」


 妾は逃げぬように、主様を見た。


「いかがでございましょう」


 問うてしまった。

 もう、後には引けぬ。

 主様は妾をもう一度ご覧になった。


「うん、似合っ……」


 言葉が止まる。

 妾は続きを待った。目を逸らすことなど、できようはずもない。

 主様は、ほんの少しだけ考えるように間を置かれた。

 それから、柔らかく笑われた。


「……綺麗だよ」


 胸の内で、何かが大きく跳ねた。

 欲しかったのは、たった一言であった。

 かわいいと、そう言っていただけることも、今までと変わらず嬉しい。

 されど今日は、この姿の妾を見て、主様が選んでくださった、その言葉が。

 どうしようもなく嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 ようやく、それだけを申し上げる。


「じゃあ、行こうか」

「はい」


 主様が玄関を開けられる。外の光が入ってくる。

 妾は、その隣へ並んだ。

 行き先はまだ決まっておらぬ。

 それでよい。

 次に千尋と会ったなら、一つ、礼を申さねばならぬことが増えた。

 主様が歩き出される。

 妾も、そのお傍を歩いた。

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