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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第二部 届くコトバ
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第十章 次の約束

 職員証の縁に、淡い光が返ってきた。

 幸徳井千尋はそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。赤でも、強い警告色でもない。いつもの、通常の呼び出しに返る色だった。


「……よし」


 机の向こうから、倉橋修司が顔を上げる。


「何がだ」

「通りました」

「誰に」

「タマモさんです」


 修司は一瞬だけ黙った。


「私用か」

「半分は」

「残り半分は」

「お礼です」

「それも私用だろ」

「機関からの謝意もあります」

「なら最初からそう言え」


 千尋は職員証をしまった。

 捕獲門の件から数日。診察も終わり、報告も出した。現場の閉鎖確認も済んでいる。

 あの夜と同じ「結び」を使ったのに、今度は届いたかどうかで息を詰める必要がない。そのことが、少し嬉しかった。


     *


 待ち合わせは、市内の静かな喫茶店にした。仕事の面会に使う分室ではなく、人目はあるが隣席の話までは聞こえない程度の店である。

 先に着いた千尋が飲み物を頼んで待っていると、入口のベルが小さく鳴った。振り向けば、タマモが店へ入ってくるところだった。


「お待たせしたかの」

「いえ。私も今来たところです」


 口にしてから、千尋は少し笑った。本当に今来たところなのに、妙に取り繕ったように聞こえた。


「何じゃ」

「いえ、何でも」


 タマモは不思議そうにしながら席へ着いた。

 今日は人の姿だ。派手ではない現代の服を着て、手首にはいつもの革の輪がある。


「身体はもうよいのか」

「はい。検査も終わりました。少し疲れやすかったくらいで」

「倉橋もか」

「先輩も大丈夫です。翌日から普通に働こうとして止められてましたけど」

「愚か者じゃな」

「そこは私も同意です」


 千尋は笑った。

 こんな話を、こうして普通にできる。それだけでも、あの夜がもう過ぎたのだと思えた。


     *


「まず、これは機関からです」


 千尋は姿勢を正した。


「今回の救援と現場対応について、正式にお礼を。タマモさんの協力がなければ、私たちは戻れませんでした」


 タマモは一度うなずいた。


「受け取っておこう」


「それから」


 千尋は少し息を吸った。


「これは、私からです。ありがとうございました」


 今度は頭を下げる。

 仕事上の言葉ではない。届いたかも分からなかった式神を受け取り、あの場所まで来てくれたことへの礼だった。


「もうよい。顔を上げよ」


 言われて、千尋は顔を上げる。


「でも」

「何じゃ」

「本当に、助かったので」


 タマモはしばらく千尋を見てから、茶へ手を伸ばした。


「ならば、一つだけ言っておこうかの」

「はい」

「登録の折のことを覚えておるか」

「登録?」


 一瞬考える。

 登録の日。千尋が推薦者欄へ自分の名を書いた時のことだ。


「あれが何か?」

「お主には、ただの手続きであったかもしれぬ」


 タマモは手首の革の輪へ指を添えた。


「されど妾には、大事な借りであった」


 千尋は瞬きをする。


「主様のお名を、妾のために書かずに済んだ。妾自身の名で外と話をつけられるようになった。そのために、お主は名を貸した」

「いや、でも」


 千尋は慌てて手を振った。


「あれ、私の仕事ですし。先輩が手続きの形を決めて、私は推薦者になっただけで」

「お主にとって何であったかと、妾にとって何であったかは別じゃ」


 返されて、千尋は口を閉じた。それは、そうなのかもしれない。


「だから助けた、ってことですか」

「それだけではない」


 タマモは即座に答えた。


「助けを求める声が届いた。間に合うのであれば、行く。それで十分であろう」


 千尋は少しだけ笑った。


「だったら、なおさら困るんですよね」

「何がじゃ」

「私の借りの方が大きすぎません?」


 命だ。推薦者欄へ名前を書くのとは、どう考えても釣り合わない。


「では」


 タマモは茶を一口飲んだ。


「貸し借りなど、数えるのをやめればよい」

「……ずいぶん思い切った解決ですね」

「今、妾が決めた」

「そういうことなら、私も数えるのをやめます」

「うむ」


 思わず笑う。

 タマモも、ほんの少し口元を緩めた。それで、何かが一つ軽くなった。


     *


 話が途切れたところで、千尋は鞄からスマートフォンを出した。


「そうだ。もう一件」

「仕事か?」

「違います」


 画面を開き、保存しておいた服の画像を並べる。


「前に話してた、あれです」

「……おお」


 タマモが少し身を乗り出した。

 登録の日、修司が席を外した後。ずいぶん真剣な顔で聞かれたのだ。


『今の世では、男は、どのような装いを好むものかの』


 あの時は、質問が大きすぎると答えた。男全体の好みなど分かるはずがない。まして、主様が何を好むかなど、千尋にはもっと分からない。


「一応、いくつか見つけてきました。でも、先に言いますね」

「何じゃ」

「主様がどれを好きかは、私には分かりません」

「うむ」


 タマモは素直にうなずいた。


「なので、主様に好かれそうな服を当てるんじゃなくて、タマモさんが着てみたい中から選びましょう」

「妾が?」

「はい」


 千尋は画面を横へ送る。


「前に話してた時も、結局は主様にちゃんと見てもらいたいって話だったじゃないですか」

「……そうじゃな」


 タマモの返事が、少しだけ小さくなった。


「だったら、自分で気に入ってる方がいいです。その方が、見てほしいって思えるでしょうし」


 画面に、落ち着いた色の服を出す。

 派手ではない。身体の線を強く出しすぎず、それでも大人の女性らしい形。襟元の違うものや、薄手の上着を合わせたものも見せていく。


「これは?」

「悪くないの」

「こっちは」

「少し若すぎぬか?」

「タマモさん、見た目の年齢なんて好きにできますよね」

「それとこれは別じゃ」


 真顔で返されて、千尋は吹き出した。


「そこは気にするんですね」

「主様のお傍に立つ姿じゃぞ」

「なるほど。重要ですね」

「当然じゃ」


 何枚か見比べる。

 タマモは思っていたより慎重だった。華やかならよいわけではない。目立てばよいわけでもない。普段の自分から離れすぎるのも嫌らしい。


「髪は、前みたいに片側でまとめるの、いいと思います」

「髪留めもか?」

「それは残しましょう」


 千尋はうなずいた。


「主様、あれに気づいてくれたんでしょう?」

「……うむ」


 その時のことを思い出したのか、タマモの顔がほんの少し柔らかくなる。


「なら、それはタマモさんの今の形として残して、服の色と形だけ少し変える」

「なるほどの」


 タマモは画面を覗き込み、千尋も隣から一緒に見る。


     *


「実物を見た方が早いですね」


 しばらくして、千尋が言った。


「写真だと、生地の感じも分かりにくいですし」

「店へ行くということか」

「はい。休み、合う日あります?」


 タマモは少し考える。


「妾はいつでも構わぬ」

「それはうらやましいですね。私は勤務表がありますから」

「千尋は好きな時に休めぬのか」

「普通はそうなんです」


 予定を確認する。

 次の休み。時間。待ち合わせ場所。

 今度は緊急指定ではない。隔離も、救援も、残り時間もない。


「じゃあ、この日で」

「承知した」


 千尋は予定を登録した。


「連絡、前日に入れますね」

「結びでよいぞ」

「はい。普通のやつで」


 普通の。

 その言葉が、今は妙に嬉しかった。


     *


 店を出る前、タマモが立ち上がった。


「千尋」

「はい?」

「先ほどの話じゃが」

「どれです?」

「貸し借りを数えぬ、という話じゃ」


 千尋は少し身構えた。


「撤回ですか?」

「いや」


 タマモは首を振る。


「次に妾が何か困った時は、話くらいは聞いてもらおうと思うてな」

「もちろん」


 千尋は考えるより先に答えていた。


「できることなら手伝います」

「それでよい」


 タマモが満足そうにうなずく。


「では、次は服じゃな」

「はい。そっちは命懸けじゃないので、気楽に行きましょう」

「主様にお見せするものじゃぞ。妾には重大事じゃ」

「……そこまで言われると、私も緊張するんですけど」


 タマモが笑い、千尋も笑った。

 次に交わした約束は、誰かを助けるためのものではない。

 ただ、服を見に行くための約束だった。

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