第九章 閉鎖を確認
応援が旧取水施設跡へ着いた時、倉橋修司はまだ階段の踊り場に座っていた。
立てないわけではない。立つなと言われているだけだ。
幸徳井千尋にも、応援に来た職員にも、そしてタマモにも。
「歩けます」
「歩ける人は、さっき立とうとして止められません」
「お前は黙ってろ」
「はいはい」
返事だけは軽い。
千尋も顔色はよくなかった。
それでも、受け答えは戻っている。
修司はそれを確認してから、沢の下へ視線を向けた。
揺らぎがあった場所には、もう何も見えない。
*
応援班が二人の状態を確かめる傍ら、現場確認も始まった。
持ち込んだ観測具を以前の記録と同じ位置へ置き、簡易の札を数か所へ配る。地脈の流れ、空間の偏り、術を向けた際の返りを、出力を抑えて前回と同じ条件で確かめる。
何も返ってこなかった。
「どうです」
「距離は普通だ」
千尋が聞く。
「さっきみたいに、奥が伸びたりは?」
「ない」
階段は階段だった。
数段下りれば、数段ぶん近づく。
沢の音も一定だ。
術を使っても、空間がこちらを向くような感触はない。
「観測値、初回より静かです」
応援の職員が言った。
「揺らぎの反応なし。捕獲時に出ていた偏りも拾えません」
「地脈側は?」
「正常に戻っています」
修司は息を吐いた。
閉じた。
少なくとも、今こちら側で確認できる範囲では。
「現場記録は残しておいてください。今夜の値と、前回までの値を並べたい」
「了解」
修司は言ってから、タマモを見る。
少し離れた場所に立っている。
救助を終えた後も帰らず、こちらの確認が済むのを待っていた。
「タマモさん」
「何じゃ」
「あなたの方では?」
「先ほど申した通りじゃ」
タマモは、何もない空間へ目を向ける。
「妾に分かる範囲では、もう働いておらぬ。こちらへ何かを引こうとする気配もない」
「分かりました」
断言しすぎない。
それでいい。
機関の判断は、機関の観測で出す。
*
現場を引き上げたのは、日付が変わってからだった。
二人はそのまま地方事務所へ戻され、応援に来ていた医療担当から簡単な診察を受けた。
目立った外傷はない。
術を使った反動と疲労。
意識低下。
それから、異界化した空間の影響。
最後の一つについては、まだ名前の付けようがない。
「今日はもう報告書、明日にしません?」
「第一報だけは残す」
「先輩、そういうところですよ」
「何がだ」
「いえ」
千尋も結局、隣の机に座った。
紙の鳥を外へ通す前までに書いた手帳が、透明な袋へ入れて置かれている。
途中から文字は乱れている。
最後の数行は、自分で書いたのか読みにくいほどだった。
「そこまで残したのは助かった」
修司が言うと、千尋は少しだけ目を丸くした。
「褒めました?」
「事実を言った」
「そういうことにしときます」
*
翌朝。
正式な聞き取りが始まった。
修司が先に、時系列を並べる。
詳細観測開始。
術への偏りを確認。
即時撤退。
退路の変質。
結界展開。
通常通信の断絶。
現世との接点の維持。
千尋による式神送信。
その後の意識低下。
そして。
「最初に戻った感覚は、音でした」
千尋が言う。
「鈴の音。一回」
「私も同じです」
修司も確認する。
「その時点では、タマモさんが到着した瞬間も、檻を開けたところも認識していない。気づいた時には影で支えられて、外へ引き出されていた」
記録担当が書き留める。
「鈴は?」
「紐付きの小型。タマモさんが手にしていた」
修司は答えた。
「救出後、本人が三回鳴らした。三音の後に鈴は消失。ほぼ同時に現世側の歪み、捕獲作用、空間の異常が消えた」
「回収物は」
「ない」
細かな光になって消えた。
残骸も。
紐も。
何もない。
*
タマモへの確認は、別に行った。
修司と千尋も同席する。
質問は必要な範囲だけだった。
「昨夜の鈴について、記録できる範囲で教えてください」
担当者が尋ねる。
タマモは少し考えた。
「お守りじゃ」
「あなたの術具、という理解でよろしいですか」
「妾が使うために持っておった。それ以上の由来は、今回の協力に必要な話ではなかろう」
少なくとも、虚偽ではない。
由来については答えない、という線を引いている。
「作用については?」
「一度鳴らして、あれの働きを止めた。二人を出した後、三度鳴らして閉じた」
修司は、昨夜の光景と照らす。
そこは一致している。
「作動原理は」
「知らぬ」
タマモは簡単に答えた。
「使い方は知っておった。それで足りたのでな」
担当者は、それ以上追わなかった。
今回の聞き取りで必要なのは、鈴の由来ではない。何が起き、何をし、現場に何が残ったか。修司も、確認すべきなのはそこまでだと考えていた。
*
問題は、その先だった。
修司は会議室の机に並べられた資料を見る。
今回の記録。
先の軒貸し事件。
そして。
別地点で起きた、能力者と協力妖の共同失踪。
「同じものですか」
千尋が聞く。
修司は首を振った。
「そこまでは言えない」
少なくとも、先の軒貸し事件と同じ型ではない。
軒貸し事件では、向こう側から術や力がこちらへ流れ込み、現世側へ足場を増やしていた。
今回は流れが逆だった。
こちらにいる能力者を捉え、周囲ごと向こうへ引こうとしていた。
「見た目は似てても、向きが違う」
「反応もですか」
「ああ。少なくとも同型じゃない」
同一起源かどうかまでは分からない。
ただ、同じ異界事象という言葉だけで一つにまとめる理由もない。
「じゃあ、こっちは」
千尋が共同失踪の資料へ目をやる。
「可能性は増えた」
修司は答えた。
当時、二人とも帰ってこなかった。
協力妖には危険察知と離脱の実績があった。
そのため、逃げる間もないほど強い何かに遭遇した、という見立てが強かった。
「でも、強い相手に正面から負けたんじゃなくて」
「逃げるための力を使えなくされた可能性がある」
昨夜、自分たちがそうだった。
力が消えたわけではない。
だが、考える。組む。動く。逃げる。
その一つ一つを、順に奪われた。
「生きたまま、連れていかれた可能性も」
「ある」
修司は答えた。
「可能性が出ただけだ」
千尋がうなずく。
「今も生きてる、とは言えない」
「ああ」
タマモも同じことを言っていた。
だが、新しい見方は得た。
過去の最後の通信。
観測値。
現場に残っていた記録。
もう一度、別の前提で見直せる。
*
報告の最後に、千尋の送信判断について確認が入った。
「第一報の宛先を、当直ではなく特殊協力者へ変更した理由は?」
千尋が口を開く前に、修司が答えた。
「私の指示です」
千尋が横を見る。
「正確には、最も早く到達できる相手を選べと指示しました。宛先をタマモさんに決めたのは幸徳井です」
「判断根拠は」
「通常応援の到達時間では、結界維持が間に合わないと判断したためです」
修司は続ける。
「幸徳井は、タマモさんが通常の道路移動を必要としないことを以前の現場で確認していました。連絡手段も、登録証との結びと式神が成立済みだった」
担当者が千尋を見る。
職員証の履歴にも、隔離中の緊急指定と、現世側へ戻った後に通信が成立した時刻は残っていた。
「その判断で間違いありませんか」
「はい」
千尋はまっすぐ答えた。
「助けてくれそうだから、ではありません。間に合う可能性が一番高かったからです」
修司は黙って聞いた。
「結果として」
担当者が記録へ目を落とす。
「救援は成立した」
「はい」
修司が答えた。
「幸徳井の判断が、私たち二人を救いました」
今度こそ、千尋がはっきりこちらを見た。
「……先輩」
「何だ」
「いえ」
口元が少しだけ上がっている。
*
会議を終えて廊下へ出る。
千尋が横を歩く。
「先輩」
「何だ」
「タマモさんのこと、ちょっと見直しました?」
修司は足を止めなかった。
「何をだ」
「ほら。前に、呪いだって言ってたじゃないですか」
「言ったな」
「撤回します?」
「しない」
千尋が露骨に肩を落とす。
「そこはしないんですか」
「あれはあれだ」
主様へ向けた、あの底の見えない情念。
そこへの警戒は何も変わっていない。
「でも」
修司は続けた。
「それだけで、あの人を全部説明できるとも思わなくなった」
千尋が少し黙る。
「昨日、来たからですか」
「呼ばれたから来た。俺たちを助けるために」
今回の件は、主様に関わる案件ではなかった。
機関に属していないタマモに、救援へ来る義務もない。
それでも、呼ばれたから来た。
「警戒する必要があることと、筋を通す相手だってことは別だ」
「それ、本人に言います?」
「言わん」
「ですよね」
千尋が笑った。
*
数日後、現場の確認結果が正式にまとまった。
空間の異常なし。
捕獲作用なし。
術への偏りなし。
地脈の異常なし。
再作動なし。
今回の地点については、閉鎖を確認。
必要な現場処理を終えた後、継続監視は解除する。
修司は報告書の最後に目を通す。
閉じた。
今回の現場は、それでいい。
ただし、新しく開いたものもある。
過去の失踪記録。
これまでとは違う見方。
生きたまま異界へ運ぶ仕掛けが、実際に存在したという事実。
それは、今回閉じた門とは別の仕事として残る。
修司は報告書を閉じた。
事件は終わった。
調査は、まだ終わっていなかった。




