第八章 庭の端に掠る騒ぎ
リーン。
最初に戻ってきたのは、音だった。
幸徳井千尋は、それが何の音なのか考えようとした。
けれど、考えるより先に、冷たさを感じた。
頬に。
指先に。
夜の空気が触れている。
――寒い。
そのことが、妙に嬉しかった。
寒いと分かる。
自分の身体がどこにあるのか、分かる。
「……っ」
息を吸う。
喉が痛い。
沢の音がした。
遠くない。
水が石に当たり、流れていく。
知っている音だった。
「幸徳井」
声がする。
修司の声。
すぐ近く。
「……せん、ぱい」
自分の声も出た。
掠れている。
それでも、出た。
*
目を開ける。
最初は、何も合わなかった。
暗い。
光が滲む。
身体が浮いているような感覚がある。
違う。
支えられている。
黒いものが。
腕の下。
背中。
脚。
身体を落とさないように、いくつもの細い影が絡んでいた。
「動かぬ方がよい」
聞き覚えのある声。
千尋は、ゆっくり顔を上げた。
「……タマモ、さん」
そこにいた。
現代の服を着た大人の女の姿。
髪が夜気に揺れている。
その足元から伸びた影が、千尋と修司の身体を支えていた。
「来て……」
「話は後じゃ」
タマモは短く答える。
いつもの調子だ。
それが。
今はひどく安心した。
千尋は周囲を見る。
さっきまでいた場所。
いや。
いたはずの場所が。
薄い膜の向こうに見える。
結界の光。
細い。
消えかけている。
影に支えられた身体が、その膜から少しずつ離れていく。
戻されているのだ。
こちら側へ。
「先輩」
「いる」
修司の声。
反対側を見る。
彼も影に支えられていた。
顔色は悪い。
だが、目は開いている。
「結界は」
「まだ残ってる」
修司が息を整えながら答えた。
視線は、向こう側へ向いたままだ。
「……でも、止まってる」
止まっている。
千尋も、その意味を少しずつ理解した。
さっきまで。
こちらを押し潰すように狭まっていたものが。
今は。
動いていない。
*
タマモの右手に。
何かが下がっていた。
細い紐。
その先に。
小さな鈴。
千尋は目を細める。
「それ……」
問いかける前に。
タマモが二人を支える影を動かした。
「足をつけられるか」
「たぶん」
「たぶんでは困るの」
影が千尋の足元をゆっくり下ろす。
靴底が。
濡れたコンクリートへ触れた。
力が入らない。
膝が折れそうになる前に、影が腰を支える。
「……すみません」
「構わぬ」
修司も同じように降ろされる。
彼は片膝をつき、すぐに立とうとした。
だが、タマモに止められた。
「無理をするでない」
「……助かります」
修司が言った。
タマモは答えず。
向こうを見る。
千尋もつられて見る。
薄い膜のような境界。
歪んだ施設跡。
距離の合わなかった階段。
自分たちを囲っていた。
あの場所。
タマモが、鈴を下げた右手を持ち上げる。
紐を。
指先でつまむ。
千尋は。
息を止めた。
あの音だ。
意識の底から、自分を引き戻したのと同じ音。
リーン。
ひとつ。
リーン。
ふたつ。
リーン。
みっつ。
三つの音が。
夜の沢へ順に響いた。
鈴が。
最後の音を残したまま。
細かな光になった。
「え」
千尋が声を上げる。
掌ほどの光。
紐。
鈴。
全部が。
ほどけるように消えていく。
同時に。
境界が。
縮んだ。
薄い膜が。
一度だけ大きく波打つ。
向こう側へ続いていた奥行きが。
折り畳まれる。
景色が。
元の距離へ戻っていく。
階段。
壁。
沢へ続く道。
そして。
何もない。
「……消えた」
千尋が呟く。
修司は。
すぐには答えなかった。
座り込んだまま。
じっと。
揺らぎのあった場所を見ている。
「反応は」
「今は、ない」
修司の声は低い。
「さっきまでの圧もない。距離も戻ってる」
千尋は職員証へ手をやった。
今度は。
反応した。
「あ」
縁に。
淡い光。
「地脈、戻ってます」
「当直へ入れろ」
「はい」
*
千尋は端末を取り出した。
今度は繋がった。
「幸徳井です。旧取水施設跡。倉橋と二名、無事です」
声が少し震えた。
「現場で異常発生。空間隔離。現在は停止。揺らぎも消失しています。応援をお願いします」
向こうから、いくつか確認が返る。
「はい。見える範囲では大きな外傷はありません。意識低下あり。術的干渉を受けました。位置は予定地点付近。上の踊り場まで退避して待機します」
通話を切る。
「来ます」
「どれくらい」
「車まではそんなにかからないと思います。でも、ここまで歩くので」
「ならば、上へ戻るか」
修司が言い、立とうとする。
「先輩」
「何だ」
「今、無理するところじゃないです」
「……分かってる」
少なくとも、千尋には分かっている顔には見えなかった。
タマモが修司を見る。
「千尋の言う通りじゃ」
「二対一ですか」
「数の問題ではない」
修司が小さく息を吐いた。
「分かりました」
ようやく諦めた。
*
階段の上側にある、少し広い踊り場まで戻る。
タマモの影に支えられながら、千尋も修司もどうにか歩いた。
座れる場所を見つけ、千尋はコンクリートの縁へ腰を下ろした。
沢の音が普通に聞こえる。
それだけで、まだ妙な気分だった。
「タマモさん」
呼ぶ。
「うむ」
「来てくれたんですか」
聞いてから、何を当たり前のことを、と自分で思う。
タマモは沢の方を見た。
「呼ばれたのでな」
それだけ言って、少し間を置く。
「妾の庭の端に、少々掠る騒ぎであったのでな」
千尋は瞬きをした。
「庭の端」
「細かいことは気にするでない」
「いや、気になりますけど」
「幸徳井」
修司に止められる。
「今はやめとけ」
「はい」
それでも、少しだけ笑えた。
*
しばらくして、呼吸が落ち着いた。
指も動く。
頭の中はまだ重いけれど、さっきのように考えたことが途中で抜ける感じはない。
千尋は揺らぎのあった方を見る。
「タマモさん」
「何じゃ」
「あれは……何だったんですか」
タマモはすぐには答えなかった。
沢の下、もう何も見えない場所へ目を向ける。
「檻じゃな」
「……檻?」
「あちら側へ、連れ込むための」
千尋は背筋が冷えるのを感じた。
「向こうへ……私たちを?」
「うむ」
修司が顔を上げる。
「結界ごと潰そうとしてたんじゃないんですか」
「壊すよりも、包む方へ力が向いておった」
タマモは片手を上げ、指を一つ折る。
「外へ出ようとすれば、そこを塞ぐ」
もう一つ。
「考える力を鈍らせる」
さらにもう一つ。
「己の力を、己の思うように使えぬようにする」
そして手を下ろした。
「少なくとも、妾には殺すために力を向けておるようには見えなんだ」
千尋は自分の掌を見る。
さっき、ペンを拾おうとして指が動かなかった。
「捕まえるため……」
「そう見えた」
タマモは言った。
「自由を奪い、意識を奪い、己の理で動く余地を奪う。捕らえたものを、捕らえたままにしておくための檻じゃ」
修司が静かに息を吐いた。
「術が消されたわけじゃなかった」
「そうじゃろうな」
「組もうとすると、順序が抜けた」
「力が残っておっても、使えねば同じことよ」
千尋は顔を上げた。
「じゃあ」
口にして、一度止まる。
「前に、消えた人たちも」
修司が千尋を見る。
だが、止めなかった。
「同じ仕掛けで捕まったなら、生きたまま……?」
タマモは少しだけ目を細める。
「連れ込まれた時には、そうであった可能性はある」
千尋の胸が跳ねる。
けれど、タマモは続けた。
「今も生きておるかは、別の話じゃ」
「……はい」
分かっている。
期待だけで決めてはいけない。
「連れていかれた後は?」
「さあての」
タマモは首を振った。
「檻は、あちらへ運ぶためのものに見えた。着いた後に何をされるかまでは、妾にも分からぬ」
千尋は膝の上の手を握った。
*
修司が揺らぎの消えた場所を見る。
「タマモさん」
「うむ」
「今は、閉じてると思いますか」
タマモも同じ場所を見る。
しばらく何も言わなかった。
「妾に分かる範囲では、もう働いておらぬ」
修司がタマモを見る。
「分かる範囲では?」
「今はこちらへ作用しておらぬ、ということじゃ」
それ以上、タマモは断言しなかった。
修司も追及しない。
「分かりました」
機関の人間が来れば、調べる。
記録を取る。
さっきまで何があったのか。今は何が消えたのか。
それは、これからの仕事だ。
千尋はふと、タマモの手を見る。
何もない。
さっきの小さな鈴も、紐も、消えてしまった。
「あの」
「何じゃ」
「さっきの鈴って」
タマモの目がこちらへ向く。
「お守りじゃ」
それだけ。
「誰の――」
「幸徳井」
修司の声。
千尋は口を閉じた。
「……はい」
以前、主様の死について踏み込みすぎたことを思い出した。
聞かなくていいこともある。
タマモは千尋を見て、少しだけ口元を緩めた。
それ以上は、何も言わなかった。
千尋も、もう聞かなかった。
*
遠くで人の声がした。
「先輩」
「ああ」
懐中電灯の光が、さらに上の階段で揺れている。
応援が来た。
千尋は立とうとして、やめた。
今度は、ちゃんと待つことにした。
沢の水は、何事もなかったように流れ続けていた。




