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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第二部 届くコトバ
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24/51

第八章 庭の端に掠る騒ぎ

 リーン。

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 幸徳井千尋は、それが何の音なのか考えようとした。

 けれど、考えるより先に、冷たさを感じた。

 頬に。

 指先に。

 夜の空気が触れている。


 ――寒い。


 そのことが、妙に嬉しかった。

 寒いと分かる。

 自分の身体がどこにあるのか、分かる。


「……っ」


 息を吸う。

 喉が痛い。

 沢の音がした。

 遠くない。

 水が石に当たり、流れていく。

 知っている音だった。


「幸徳井」


 声がする。

 修司の声。

 すぐ近く。


「……せん、ぱい」


 自分の声も出た。

 掠れている。

 それでも、出た。


     *


 目を開ける。

 最初は、何も合わなかった。

 暗い。

 光が滲む。

 身体が浮いているような感覚がある。


 違う。


 支えられている。


 黒いものが。

 腕の下。

 背中。

 脚。

 身体を落とさないように、いくつもの細い影が絡んでいた。


「動かぬ方がよい」


 聞き覚えのある声。

 千尋は、ゆっくり顔を上げた。


「……タマモ、さん」


 そこにいた。

 現代の服を着た大人の女の姿。

 髪が夜気に揺れている。

 その足元から伸びた影が、千尋と修司の身体を支えていた。


「来て……」

「話は後じゃ」


 タマモは短く答える。

 いつもの調子だ。

 それが。

 今はひどく安心した。


 千尋は周囲を見る。

 さっきまでいた場所。

 いや。

 いたはずの場所が。

 薄い膜の向こうに見える。


 結界の光。

 細い。

 消えかけている。


 影に支えられた身体が、その膜から少しずつ離れていく。


 戻されているのだ。


 こちら側へ。


「先輩」

「いる」


 修司の声。

 反対側を見る。

 彼も影に支えられていた。

 顔色は悪い。

 だが、目は開いている。


「結界は」

「まだ残ってる」


 修司が息を整えながら答えた。

 視線は、向こう側へ向いたままだ。


「……でも、止まってる」


 止まっている。

 千尋も、その意味を少しずつ理解した。

 さっきまで。

 こちらを押し潰すように狭まっていたものが。

 今は。

 動いていない。


     *


 タマモの右手に。

 何かが下がっていた。

 細い紐。

 その先に。

 小さな鈴。


 千尋は目を細める。


「それ……」


 問いかける前に。

 タマモが二人を支える影を動かした。


「足をつけられるか」

「たぶん」

「たぶんでは困るの」


 影が千尋の足元をゆっくり下ろす。

 靴底が。

 濡れたコンクリートへ触れた。


 力が入らない。


 膝が折れそうになる前に、影が腰を支える。


「……すみません」

「構わぬ」


 修司も同じように降ろされる。

 彼は片膝をつき、すぐに立とうとした。

 だが、タマモに止められた。


「無理をするでない」

「……助かります」


 修司が言った。

 タマモは答えず。

 向こうを見る。


 千尋もつられて見る。


 薄い膜のような境界。

 歪んだ施設跡。

 距離の合わなかった階段。

 自分たちを囲っていた。

 あの場所。


 タマモが、鈴を下げた右手を持ち上げる。


 紐を。

 指先でつまむ。


 千尋は。

 息を止めた。


 あの音だ。

 意識の底から、自分を引き戻したのと同じ音。


 リーン。

 ひとつ。


 リーン。

 ふたつ。


 リーン。

 みっつ。


 三つの音が。

 夜の沢へ順に響いた。


 鈴が。

 最後の音を残したまま。

 細かな光になった。


「え」


 千尋が声を上げる。

 掌ほどの光。

 紐。

 鈴。

 全部が。

 ほどけるように消えていく。


 同時に。


 境界が。

 縮んだ。


 薄い膜が。

 一度だけ大きく波打つ。


 向こう側へ続いていた奥行きが。

 折り畳まれる。


 景色が。

 元の距離へ戻っていく。


 階段。

 壁。

 沢へ続く道。


 そして。

 何もない。


「……消えた」


 千尋が呟く。


 修司は。

 すぐには答えなかった。

 座り込んだまま。

 じっと。

 揺らぎのあった場所を見ている。


「反応は」

「今は、ない」


 修司の声は低い。


「さっきまでの圧もない。距離も戻ってる」


 千尋は職員証へ手をやった。

 今度は。

 反応した。


「あ」


 縁に。

 淡い光。


「地脈、戻ってます」

「当直へ入れろ」

「はい」


     *


 千尋は端末を取り出した。

 今度は繋がった。


「幸徳井です。旧取水施設跡。倉橋と二名、無事です」


 声が少し震えた。


「現場で異常発生。空間隔離。現在は停止。揺らぎも消失しています。応援をお願いします」


 向こうから、いくつか確認が返る。


「はい。見える範囲では大きな外傷はありません。意識低下あり。術的干渉を受けました。位置は予定地点付近。上の踊り場まで退避して待機します」


 通話を切る。


「来ます」

「どれくらい」

「車まではそんなにかからないと思います。でも、ここまで歩くので」

「ならば、上へ戻るか」


 修司が言い、立とうとする。


「先輩」

「何だ」

「今、無理するところじゃないです」

「……分かってる」


 少なくとも、千尋には分かっている顔には見えなかった。


 タマモが修司を見る。


「千尋の言う通りじゃ」

「二対一ですか」

「数の問題ではない」


 修司が小さく息を吐いた。


「分かりました」


 ようやく諦めた。


     *


 階段の上側にある、少し広い踊り場まで戻る。

 タマモの影に支えられながら、千尋も修司もどうにか歩いた。


 座れる場所を見つけ、千尋はコンクリートの縁へ腰を下ろした。


 沢の音が普通に聞こえる。

 それだけで、まだ妙な気分だった。


「タマモさん」


 呼ぶ。


「うむ」

「来てくれたんですか」


 聞いてから、何を当たり前のことを、と自分で思う。


 タマモは沢の方を見た。


「呼ばれたのでな」


 それだけ言って、少し間を置く。


「妾の庭の端に、少々掠る騒ぎであったのでな」


 千尋は瞬きをした。


「庭の端」

「細かいことは気にするでない」

「いや、気になりますけど」

「幸徳井」


 修司に止められる。


「今はやめとけ」

「はい」


 それでも、少しだけ笑えた。


     *


 しばらくして、呼吸が落ち着いた。

 指も動く。

 頭の中はまだ重いけれど、さっきのように考えたことが途中で抜ける感じはない。


 千尋は揺らぎのあった方を見る。


「タマモさん」


「何じゃ」


「あれは……何だったんですか」


 タマモはすぐには答えなかった。

 沢の下、もう何も見えない場所へ目を向ける。


「檻じゃな」

「……檻?」

「あちら側へ、連れ込むための」


 千尋は背筋が冷えるのを感じた。


「向こうへ……私たちを?」

「うむ」


 修司が顔を上げる。


「結界ごと潰そうとしてたんじゃないんですか」

「壊すよりも、包む方へ力が向いておった」


 タマモは片手を上げ、指を一つ折る。


「外へ出ようとすれば、そこを塞ぐ」


 もう一つ。

「考える力を鈍らせる」

 さらにもう一つ。

「己の力を、己の思うように使えぬようにする」

 そして手を下ろした。

「少なくとも、妾には殺すために力を向けておるようには見えなんだ」


 千尋は自分の掌を見る。

 さっき、ペンを拾おうとして指が動かなかった。


「捕まえるため……」

「そう見えた」


 タマモは言った。


「自由を奪い、意識を奪い、己の理で動く余地を奪う。捕らえたものを、捕らえたままにしておくための檻じゃ」


 修司が静かに息を吐いた。


「術が消されたわけじゃなかった」

「そうじゃろうな」


「組もうとすると、順序が抜けた」

「力が残っておっても、使えねば同じことよ」


 千尋は顔を上げた。


「じゃあ」


 口にして、一度止まる。


「前に、消えた人たちも」


 修司が千尋を見る。

 だが、止めなかった。


「同じ仕掛けで捕まったなら、生きたまま……?」


 タマモは少しだけ目を細める。


「連れ込まれた時には、そうであった可能性はある」


 千尋の胸が跳ねる。

 けれど、タマモは続けた。


「今も生きておるかは、別の話じゃ」


「……はい」


 分かっている。

 期待だけで決めてはいけない。


「連れていかれた後は?」

「さあての」


 タマモは首を振った。


「檻は、あちらへ運ぶためのものに見えた。着いた後に何をされるかまでは、妾にも分からぬ」


 千尋は膝の上の手を握った。


     *


 修司が揺らぎの消えた場所を見る。


「タマモさん」

「うむ」

「今は、閉じてると思いますか」


 タマモも同じ場所を見る。

 しばらく何も言わなかった。


「妾に分かる範囲では、もう働いておらぬ」


 修司がタマモを見る。


「分かる範囲では?」

「今はこちらへ作用しておらぬ、ということじゃ」


 それ以上、タマモは断言しなかった。


 修司も追及しない。


「分かりました」


 機関の人間が来れば、調べる。

 記録を取る。

 さっきまで何があったのか。今は何が消えたのか。

 それは、これからの仕事だ。


 千尋はふと、タマモの手を見る。


 何もない。

 さっきの小さな鈴も、紐も、消えてしまった。


「あの」

「何じゃ」

「さっきの鈴って」


 タマモの目がこちらへ向く。


「お守りじゃ」


 それだけ。


「誰の――」

「幸徳井」


 修司の声。


 千尋は口を閉じた。


「……はい」


 以前、主様の死について踏み込みすぎたことを思い出した。

 聞かなくていいこともある。


 タマモは千尋を見て、少しだけ口元を緩めた。


 それ以上は、何も言わなかった。


 千尋も、もう聞かなかった。


     *


 遠くで人の声がした。


「先輩」

「ああ」


 懐中電灯の光が、さらに上の階段で揺れている。


 応援が来た。


 千尋は立とうとして、やめた。


 今度は、ちゃんと待つことにした。


 沢の水は、何事もなかったように流れ続けていた。

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