第七章 届ける相手
誰に。
幸徳井千尋は、手の中の紙の鳥を見た。
薄く、軽い。
普段なら、指先から離せば勝手に行く。今は、その行き先を決めるだけで妙に時間がかかった。
「幸徳井」
「分かってます」
倉橋修司の声が飛ぶ。
急かしているわけではない。
時間がないだけだ。
千尋は紙の鳥へ目を落とす。
本来なら、まず当直へ送る。調査地点、異常発生、救援要請。それが一番正しい。
――でも。
千尋は結界の外を見た。
景色が薄い。沢の音はもうほとんどしない。修司の結界は、さっきより狭い。
「当直には、予定、出してますよね」
「ああ」
「戻らなかったら」
「確認は来る」
予定終了を越え、終了報告がなければ機関は動く。それは分かっている。
だが応援は、車でここまで来て、管理柵を越え、沢沿いを歩き、階段を下りなければならない。
そのうえ、今の自分たちがいる場所へ入れるかどうかも分からない。
千尋は唇を噛んだ。
「間に合わない」
修司は答えなかった。
否定もしなかった。
*
頭に浮かんだのは、下流の水路で聞き取りを終えた帰りに見た三毛猫だった。
『帰り、送りますよ』
『構わぬ』
そう言って、足元の影へ沈んだ。
音もなく。車も道も使わず。
『では、またの』
消えた。
千尋は職員証を握り直した。
登録の後、通常の呼び出しと式神を一度ずつ試した。どちらも届き、返事も来た。
同じ市内にいて、連絡を届ける手段もある。
そして届きさえすれば、あの人はここまで来るのに道を使わない。
「先輩」
「何だ」
「タマモさんに送ります」
修司がこちらを見る。
「理由は」
「間に合う可能性が一番高い」
千尋は答えた。
「機関の応援は必要です。でも、今すぐここへ来られるかは分からない。タマモさんなら、届けば少なくとも車でここまで来る時間はいらない」
一拍置いて、修司がうなずいた。
「送れ」
「はい」
それだけだった。
*
千尋は職員証を引き出した。
タマモの登録証と結んだ「結び」を、緊急指定へ切り替える。
指先で短い術を通したが、受信確認は返らない。
予想どおりだった。
今いる場所から、カードだけでは外へ届かない。
ならば、この結びを宛先として式神へ載せる。
外へ抜けたところで、タマモへ届けばいい。
紙の鳥へ、短い伝言を重ねる。
長い文は要らない。そもそも、今の頭で長く組める気がしない。
場所。二人。隔離。救援。
必要なものだけ。
『旧取水施設跡。倉橋・幸徳井。隔離進行。救援を求む』
千尋は一度読み返した。
主語も。
挨拶も。
理由もない。
それでいい。
職員証に残るタマモとの結びを、式神の行き先へ重ねる。
普段なら、こんな使い方をする必要はない。
カード同士で呼べる。
だが今日は、内側では返りがない。
外へ出た瞬間に、緊急の呼び出しと伝言の両方が届くように組む。
「できそうか」
「やります」
千尋は答えた。
式神を掌へ乗せる。
小さな紙の鳥。
白い。
頼りない。
それでも。
これまで何度も使ってきた。
「先輩」
「何だ」
「ちょっと、狭くないですか」
「狭いな」
「通ります?」
「通せ」
千尋は笑いそうになった。
こんな時でも。
先輩は先輩だった。
「了解」
*
修司が残している細い接点へ。
紙の鳥を近づける。
空気が。
重い。
式神の先が。
一度、押し戻される。
「っ」
千尋は指を添えた。
強く押すのではない。
形を崩さない。
通る向きを合わせる。
紙の嘴。
頭。
翼。
少しずつ。
光の線の向こうへ入る。
「そのまま」
「はい」
修司の声。
低い。
苦しそうだ。
千尋は見なかった。
見ると。
手が止まりそうだった。
式神の半分が。
向こうへ出る。
その瞬間。
紙の鳥が。
ふっと。
軽くなった。
「抜けた」
沢の音が。
一瞬だけ。
戻った気がした。
鳥が。
飛ぶ。
暗い施設跡の向こうへ。
見えなくなる。
千尋は息を吐いた。
「届いた?」
「分からん」
「ですよね」
受信確認はない。
こちら側から。
確かめる方法はない。
ただ。
外へ出た。
それだけは分かった。
*
「もう一体」
「待て」
千尋が次の紙へ手を伸ばしたのを。
修司が止めた。
「今の間にも狭まった」
「でも」
「二通目を作る時間で、こっちが切れたら意味がない」
千尋は接点を見る。
さっきまで。
紙の鳥一体が通れた。
今は。
光の線が。
糸みたいに細い。
「記録」
「はい」
千尋は端末へ手を伸ばした。
反応しない。
なら。
手帳。
紙。
書けるもの。
時刻。
観測。
術の反応。
退路の変質。
結界。
式神送信。
字が。
少し曲がる。
「……眠い」
「寝るな」
「分かってます」
眠い。
というのとも違う。
考える。
それ自体が。
面倒になってくる。
目を閉じた方が。
楽だ。
「幸徳井」
「はい」
修司の声がする。
近い。
でも。
遠い。
「返事しろ」
「してますよ」
したつもりだった。
声が出たかは。
分からない。
手帳から。
ペンが落ちる。
拾おうとして。
指が動かない。
結界の光が。
まだある。
細い。
でも。
消えていない。
千尋は。
さっき飛んでいった。
小さな紙の鳥を思った。
届いて。
タマモさん。
どうか。
そこまで考えて。
何を頼みたかったのか。
一瞬。
分からなくなった。
暗くなる。
最後まで残ったのは。
紙の鳥が。
外へ抜けた感触だけだった。




