第六章 外とのつながり
沢の音が、ほとんど聞こえなくなった。
倉橋修司は、結界の縁から目を離さなかった。
外側に見えている景色は、まだ旧取水施設跡のままだ。崩れた壁も、階段も、濡れたコンクリートも見えている。
だが、どれも距離が合わない。
見えている景色と、自分たちの立つ場所が、もう地続きではなくなりつつある。
「端末は?」
「反応なしです」
幸徳井千尋が答える。
携帯端末だけではない。機関の通信も位置確認も、外側からの返答がない。
「圏外、って感じじゃないです」
「だろうな」
修司は短く答えた。
電波が届かないだけなら、まだ分かる。
今は、外に向けて投げたはずのものが、外へ届いた感触そのものを返してこない。
「連絡、試します?」
「まだいい」
千尋が職員証へ手をかけるのを止める。
「先に、外へ通る場所を探す」
「……はい」
結界は残っている。それが何より重要だった。
修司は、自分たちの周りへ張った線を見る。最初は数メートルあった範囲が、今は少し狭い。
「押されてます?」
「ああ」
外から何かが殴っているわけではない。術を削る攻撃が飛んでくるわけでもない。
ただ、こちら側である範囲が少しずつ減っている。
「嫌なやり方ですね」
「同感だ」
修司は指先を動かす。
結界の一部を厚くする。
別の一部を薄くする。
全部を守ろうとすれば、先に力が尽きる。
「先輩」
「何だ」
「これ、吸われてるんですかね」
「力が?」
「はい」
修司は少し考えた。
力そのものが抜けている感覚ではない。
まだ術は使える。
だが、新しく組もうとした時、順序が一瞬だけ頭から抜ける。
「違う」
修司は答えた。
「抜かれてる感じじゃない」
「え?」
「術を組む順序が、頭から抜ける。身体も遅い。……使う側を鈍らせてる」
自分で言って、それが一番近い気がした。
指を動かし、術式を思い出す。その当たり前の動作が、少しずつ重くなる。
身体も。
考えることも。
外へ向ける意識も。
「……それ、まずくないです?」
「まずいな」
千尋が乾いた笑いを一つ漏らした。
すぐに消えた。
「どれくらい持ちます」
「聞くな」
「聞きますよ」
「分からん」
嘘はつかなかった。
千尋も、それ以上は聞かなかった。
*
修司は結界の形を変えた。
円ではなく、少し歪んだ楕円。千尋の側を広く、自分の背後を狭くして、外へ触れている部分を一か所だけ残す。
「先輩、それ」
「触るな」
千尋の足元近く。
光の線が、ごく細く外へ伸びている。
先ほどまでは沢の方角だった。
今は方角そのものに意味があるのかも怪しい。
それでも。
その先だけ。
何かが違う。
「音がします」
「何の」
「水」
千尋が目を閉じる。
「沢の音。すごく小さいですけど」
修司も耳を澄ます。
聞こえた。
一瞬だけ。
水が石へ当たる音。
「ここだ」
修司は結界を固定した。
余計な線を削る。
守る場所を減らす。
その一点だけを残す。
「人は無理だな」
「ですよね」
隙間とも呼べず、穴でもない。身体を通せる幅などない。
ただ、現世とのつながりだけが、切れ切らずに残っている。
「でも」
「何です?」
「お前の紙なら通るかもしれん」
千尋が顔を上げた。
「式神」
「はい」
「薄いやつ。連絡用」
「作れます」
「一体でいい」
修司は息を吐いた。喉が渇いている。
こんな時に、どうでもいい感覚だけが妙に鮮明だった。
「誰に送ります?」
「一番早く来られる相手を選べ」
千尋が少し黙る。
「機関じゃなくても?」
「今は肩書きより時間だ」
修司は答えた。
「考えろ。誰なら、間に合う」
千尋の目が細くなる。
修司はそれ以上言わなかった。
判断まで奪う気はない。
*
結界の外側で。
壁の一部が消えた。
壊れたのではない。
見えなくなった。
代わりに、暗い何かがある。
奥行きが分からない。
「先輩」
「見なくていい」
修司は声を強めた。
「紙を作れ」
「はい」
千尋が懐から細い紙を取り出す。
指が動く。
折る。
重ねる。
いつもなら迷わない作業だ。
今日は、一度。
手が止まった。
「幸徳井」
「大丈夫です」
すぐに続ける。
小さな鳥の形。
修司は外との接点を押さえ続ける。
頭の奥が鈍い。
結界を一枚足そうとして。
何を足すつもりだったか、一瞬分からなくなった。
「……くそ」
声に出た。
千尋がこちらを見る。
「先輩」
「こっちはいい」
よくない。
だが。
今はそれでいい。
「まだ外へ通る」
修司は、細い接点を示した。
「今のうちに援軍を呼べ」
千尋が紙の鳥を握る。
修司はもう一度だけ言った。
「外へ出せ。今ならまだ通る」




