第五章 戻るはずだった道
夜十時を少し回ったころ、沢沿いの駐車スペースには、倉橋修司たちの車しかなかった。
昼間に来た時とは、同じ場所でも見え方が違う。木々の隙間は黒く、沢の音だけが近い。
幸徳井千尋が助手席から降り、首から提げた職員証を服の上へ出した。
「思ったより暗いですね」
「山際だからな。足元見ろよ」
「はい」
修司は車のドアを閉める前に、端末を取り出した。
地方区分の共通当直へ短い連絡を入れる。
「倉橋、幸徳井。現着。予定どおり観測開始。終了予定は二十三時前後。変化を認めた場合は中止して撤収する」
返答を確認して、端末をしまう。
千尋が懐中電灯を点けた。
「二十三時を過ぎたら、当直が確認に入るんでしたよね」
「ああ。だから終わったら必ず連絡する」
「了解です」
修司は管理柵の鍵を開けた。
金属の軋む音が、夜の沢へ妙に大きく響いた。
*
旧取水施設跡までは、車を降りてから少し歩く。
沢沿いの細い道を進み、古い階段を下りる。ひび割れたコンクリートも、初回調査の時に見たままだ。
千尋が先日の記録と照らし合わせながら、足元を照らす。
「この時間帯に、反応が少し強かったんですよね」
「ああ。ただし、夜だから動くとは限らん」
「同じ条件を一つずつ合わせる」
「そういうことだ」
現場に着く。
壁の一部が崩れた小さな施設跡。その奥に、何もないはずなのに、目を凝らすと輪郭だけがずれて見える場所がある。
最初に来た時より大きくなったようには見えない。
音もない。
何かが出てくる気配もない。
「見た感じは、前と同じですね」
「見た感じはな」
修司は足元へ目を落とした。
事前に決めていた位置へ、千尋を下げる。
「幸徳井、お前は踊り場」
「了解」
数段下の踊り場。
そこなら、修司の作業位置を見渡せる。
何かあれば、すぐ後ろの階段から戻れる。少なくとも、そういう配置のつもりだった。
「式神は?」
「準備できてます。まだ出しません」
「それでいい」
修司は施設跡の中央寄りへ進んだ。初回より近い。
今回は、ただ眺めるだけではない。揺らぎの境界がどこまで広がっているか、術へ何を返すのか、周囲の空間が現世側のものとして安定しているか。そこまで確かめる。
「始めるぞ」
「はい」
修司は指を組んだ。
足元へ細い線が走る。
一つ。
二つ。
古いコンクリートの上を、淡い光が囲むように伸びていく。
派手な術ではない。
調査範囲を外からの影響で崩されないよう、こちら側の状態を保つための結界である。
線が閉じる。
空気が、少しだけ重くなった。
「反応?」
「まだ」
千尋が答える。
修司は一段階、術を深くした。
結界の内側へ細い探りを通す。
揺らぎそのものへ触れない。
周囲をなぞり、返ってくる違和感だけを見る。
最初は何もなかった。
「……先輩」
「分かってる」
千尋の声が低くなる。
揺らぎの見え方が変わった。
風でもない。
光でもない。
今まで正面を向いていたものが、わずかにこちらへ顔を向けたように。
ずれの筋が、修司の立つ位置へ寄る。
「記録」
「取ってます」
修司は術を止めた。
その瞬間。
揺らぎが元へ戻る。
――ように見えた。
「撤収する」
「もうですか?」
「条件に入った」
術の使用に合わせて、明確な偏りが出た。
そこまで見えれば十分だ。
続ける理由はない。
「はい」
千尋も迷わなかった。
式神を出すこともない。
二人とも、来た時の道へ戻ろうとした。
修司が先に一歩下がる。
二歩。
三歩。
「……先輩」
「止まれ」
修司は足を止めた。
階段が。
遠い。
さっきまで千尋が立っていた踊り場は、数歩の距離だったはずだ。
それが今は、細い廊下の向こうにあるように見える。
千尋自身は、その途中にいる。
距離がおかしい。
「動くな」
千尋が止まる。
修司は背後を見る。
旧施設の壁。
沢へ続く開口部。
そこも、少し遠い。
見えている。
だが、奥行きが合わない。
「先輩、これ」
「ああ」
何かが出てきたのではない。
こちらが――こちら側ごと、ずれている。
「撤退、続けます?」
「続ける。走るな」
一歩ずつ。
修司は千尋の位置へ寄る。
足元の感触は普通だ。
ひび割れも。
砂も。
落ちた枯葉も。
それなのに、歩いても距離が縮まらない。
「……同じところ踏んでません?」
「下見るな。前を見ろ」
千尋の声に、わずかな焦りが混じる。
修司は結界を広げた。
自分一人を囲っていた線を、千尋のところまで伸ばす。
淡い光が床を走る。
その瞬間。
遠くなっていた階段の向こうから、沢の音が一段小さくなった。
「幸徳井、こっちへ」
「はい」
千尋が修司の側へ寄る。
今度は距離が縮んだ。
結界の内側だけは。
まだ、こちらの距離で動いている。
「外が、伸びてる……?」
「違うかもしれん」
修司は、揺らぎがあった場所を見る。
もう、そこだけがおかしいわけではなかった。
施設跡の壁。
階段。
沢へ続く暗がり。
全部が、薄い膜の向こうにあるように見える。
「来た道は?」
「見えてます」
「戻れると思うか」
「……いいえ」
千尋は答えた。
修司も同じ判断だった。
撤退の指示は出した。
すぐに動いた。
それでも。
戻るはずだった道が、もう、こちら側の道ではなかった。
*
結界の外で。
何かが、ゆっくり閉じ始めていた。
修司は両手を上げる。
線を重ねる。
千尋の足元まで、確実に囲う。
「先輩」
「中にいろ」
光の縁が一度だけ強くなる。
その外側で、夜の景色が薄く歪んだ。
「ここから先は、勝手に動くな」
「はい」
沢の音が。
また少し。
遠くなった。




