第四章 登録証と、聞きたいこと
「先に確認しておきます」
幸徳井千尋は、机の上に重ねた書類を一枚めくった。黒いボールペンと、記入用の薄い用紙がタマモの前に置かれている。
「前にお話しした、協力者登録です」
「うむ。頼みを断る自由はあるのじゃな」
「はい。それは変わりません」
向かいに座るタマモは、今日は現代の大人の女性の姿だった。
先日の確認で見た華やかな妖姿ではない。
手首には、いつもの革の輪。
それを見ると、千尋は少しだけ肩の力が抜けた。
「妾の名で、話を済ませられることが増える」
「そうです」
「主様へ、確認を取りに行かずとも」
「必要な範囲では」
タマモは書類へ目を落とした。
そこを確かめたかったのだろう。
「ならば、よい」
タマモは机の上のペンを取った。
「どこへ書けばよい」
*
登録名の欄で、タマモの手は止まらなかった。
タマモ
片仮名で、三文字。
白い用紙の上に、その名だけがはっきりと残る。
姓の欄は空欄である。
「姓は作らなくていいんですか」
千尋が確認すると、修司が答えた。
「必要ない。単名の登録例はある」
「妾の名は、これじゃ」
タマモは自分で書いた文字を見た。
「主様よりいただいた。わざわざ別のものを足す気はない」
「ですよね」
千尋は指先で次の欄を示した。
住所。
連絡方法。
家族、同居人。
そこで、タマモは少しだけ考えた。
「家族ならば、おる」
「はい」
千尋は項目を確認する。
「外部の身元確認者は……」
「それは必須じゃない」
修司が言った。
「妖の登録で、人間社会側に保証人がいない例はいくらでもある。機関内の推薦者で代えられる」
タマモの指が、書類の一角で止まった。
「ここに」
細い指先が、空欄を示す。
「主様のお名を、書かねばならぬのかと思うた」
「書かなくていい」
修司はすぐ答えた。
「緊急連絡先も、本人希望で未登録にできる」
「そうか」
それだけだった。
けれど、タマモの肩がわずかに下がったのを、千尋は見た。
「じゃあ、推薦者の方は」
千尋が次の欄を見る。
修司も見た。
それから、こちらを見た。
「幸徳井。お前で出しておけ」
「私ですか?」
「今まで一番やり取りしてるだろ」
「それは、そうですけど」
「嫌なら俺でもいいが」
千尋はタマモを見た。
タマモもこちらを見ている。
試すような目ではなかった。
「……私でよければ」
「構わぬ」
「じゃあ、私が」
千尋はペンを受け取り、推薦者欄へ自分の名前を書く。
幸徳井千尋。
たったそれだけである。
仕事上の手続き。
それでも、書き終えた時、タマモが小さく頭を下げた。
「世話になる」
「いえ。担当ですから」
「それでもじゃ」
千尋は、何となく背筋を伸ばした。
*
本人確認は、思ったより簡単だった。
机の上には、掌ほどの薄い板が置かれている。表面には、紙の札を思わせる細い線が刻まれていた。
「顔写真は?」
「姿を変えられる方には、あまり意味がないので」
千尋が答えると、タマモは板を見た。
「これで、猫の姿でも今の姿でも、同じタマモさんだと確認できます」
「妾の力そのものを調べるものではないのじゃな」
「はい。本人確認だけです」
タマモは修司も見た。
修司がうなずく。
「目的外で使うものじゃない」
「ならばよい」
タマモが板へ手を置いた。
掌の下から、刻まれていた細い線が一度だけ淡く光る。
すぐに消えた。
「終わりです」
「これだけか」
「これだけです」
「人の手続きは、もっと長いものかと思うておった」
「長いところは長いですよ」
「余計なこと言うな」
修司に止められ、千尋は口を閉じた。
*
登録証が用意されたのは、数日後だった。
見た目は、少し厚みのあるICカードに近い。
表に、タマモの名。
小さな識別紋。
必要な情報だけが記されている。
「これが、登録証です」
千尋が机越しに差し出すと、タマモは両手で受け取った。
「ほう」
「普通の身分証を全部これ一枚で代わりにできるわけじゃないですけど、こちらがお願いした現場で本人確認が必要になった時なんかは使えます」
「十分じゃ」
「それと」
千尋は首から下げていた自分の職員証を外し、登録証の隣へ置いた。
「これ、連絡にも使えます」
「札ではないのか?」
「昔は札だったそうです」
横で修司が言った。
「今でも現場じゃ、結び札って呼ぶ。機能をカードに入れただけだ」
「結び札」
タマモが登録証を裏返した。
「何を結ぶ」
「連絡先です」
千尋は自分の職員証を指先で押さえる。
「私の職員証と、タマモさんの登録証。両方が同意した状態で結びを入れておけば、簡単な呼び出しができます」
「声が聞こえる?」
「そこまでは。呼び鈴みたいなものです」
修司が指を一本立てた。
「普通か、急ぎか。その程度が分かる。詳しい用件は式神を送る」
「なるほど」
「試しますね」
千尋が自分の職員証へ指を添えた。
短い術式。
机の上で、二枚のカードの縁が順に淡く青くなった。
タマモが目を細める。
「これが呼び出しか」
「はい。普通の連絡です。急ぎなら色が変わります」
「いつでも妾の居場所が分かるのか?」
「いいえ」
千尋は首を振った。
「届く範囲にいるか、応答できるか。そのくらいです。ずっと追いかけるものじゃありません」
「ならばよい」
タマモは登録証を指先で挟んだ。
「ところで、これを持ち歩くのか」
「そうですね。猫になる時、困ります?」
千尋が聞いた。
「いや」
タマモは登録証を手のひらに置いた。
その手の下、机へ落ちた影が少しだけ濃くなる。
カードの端が、すっと黒い面へ沈んだ。
そのまま全部が消える。
千尋は反射的に机の下を見た。
何も落ちていない。
「……そこに入るんですか」
「うむ」
「財布とかも?」
「入る」
「荷物も?」
「大抵のものは」
修司が腕を組んだ。
「……便利そうだな」
タマモは少し考えた。
「まあ、便利ではあるな」
なぜか、少し嬉しそうだった。
*
一通りの説明が終わると、修司は腕時計を見た。
「俺は車を回してくる」
「あ、はい」
「幸徳井。残り、頼む」
「分かりました」
扉が閉まる。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていった。
千尋は机の上の書類をまとめる。
「これで今日は終わりです。何か、分からなかったところあります?」
「いや」
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
タマモも立ち上がる。
それから。
「千尋」
「はい?」
初めて、名前だけで呼ばれた。
千尋は書類を揃えていた手を止め、少しだけ目を見開いた。
「一つ、聞きたいことがある」
「登録のことですか?」
「いや」
タマモは、ほんの少し視線をそらした。
先日の確認では、あれほど堂々としていたのに。
「今の世では」
「はい」
「男は、どのような装いを好むものかの」
「……男の人?」
「うむ」
「あ」
千尋は気づいた。
「ご主人の?」
タマモが黙る。
否定はしない。
「……そうじゃ」
声が少しだけ小さかった。
千尋は、口元が緩みそうになるのを止めた。
あの。
未来永劫、お傍に。
そう言った相手について。
今は、服の相談をしている。
「ええと」
千尋は、いったん引いた椅子へ座り直した。
「男の人って言っても、好みは人によりますよ」
「そうなのか」
「そりゃそうですよ。派手なのが好きな人も、シンプルなのが好きな人もいますし」
「むう」
「普段、何か言われません?」
「かわいいとは、よく」
「かわいい」
「猫の姿では、特に」
「なるほど」
千尋は頬杖をつきかけて、仕事場だったと思い直し、手を膝へ戻した。
「人の姿だと?」
「髪を変えれば、お気づきになる」
「いいじゃないですか」
「寒そうであれば、上着を持てとおっしゃる」
「……ちゃんと見てますね」
「されど」
タマモの手が、長い髪へ触れた。
「もう少し、違うお言葉をいただいてみたい」
千尋は、その手を見た。
先日の確認で、あれほど迷いなく「未来永劫、お傍に」と口にした相手が。
今は、その主様に少し違う言葉をもらいたくて悩んでいる。
強いのも、怖いところがあるのも変わらない。
けれど、それとは別の顔が、今は目の前にあった。
「じゃあ」
千尋は笑った。
「ご主人の好みを当てるより、タマモさんに似合うものから考えません?」
「妾に?」
「はい。タマモさん自身が気に入ってないと、落ち着かないでしょう」
「それで、主様にもよいと思っていただけるか」
「そこは保証できません」
「できぬのか」
「できませんよ」
千尋は笑った。
「でも、一緒に考えるくらいならできます」
タマモは少し考えた。
「……頼めるか」
「もちろん」
今度は、千尋の方が素直に答えた。
*
数日後。
千尋は自席で職員証の結びを使い、通常の呼び出しを送った。
カードの縁が青く光る。
しばらくして、応答が返った。
「届いた」
机の下で、小さく拳を握る。
続けて、短い式神を作った。
『こちら幸徳井です。連絡試験です。届いたら一言返してください』
紙の鳥が窓辺から飛び出す。
夕方。
戻ってきた式神には、短い返事が付いていた。
『承知した』
それだけ。
なのに、千尋は少し嬉しかった。
「両方、通ったか」
隣の机から、修司が言った。
「はい」
「なら、記録しておけ」
「了解です」
千尋は式神を畳んだ。
机の端には、旧取水施設跡の新しい観測計画が置かれている。
前回、わずかに向きが偏ったように見えた揺らぎ。
次は、条件を整えて、もう少し詳しく見る。
夜間の反応も確かめる予定だった。
千尋は予定表へ目を落とした。
今のところ。
そこでは、まだ何も起きていない。




