第三枝章 撫でる手と髪留め
主様のお膝には、少しばかり傾斜がある。
油断すると、妾の後ろ脚がずり落ちる。されど、そのたびに主様の手が添えられるので、特に困ることはない。
「タマちゃん、落ちるよ」
心得ております。
妾は三毛の尾をゆるりと動かし、差し出された手首へ頬を寄せた。
二階の居室で、主様はパソコンの画面に向かい、両手でゲームパッドを持っておられる。
画面の中では、人の姿をしたキャラクターが、先ほどから同じ壁際を行ったり来たりしていた。
「ここ、何かありそうなんだけどなあ」
主様の親指がスティックを倒す。
画面の中の人物が、また壁際を端から端まで歩いてゆく。
何があるのかは存じませぬが、妾はここにおります。
もう一度、頬を寄せる。
主様はゲームパッドから片手を離し、妾の耳の付け根を掻いてくださった。
ああ、そこにございます。
「タマちゃんは、かわいいね」
「にゃあ」
返事は、いささか締まりを欠いた。
こちらの姿では致し方あるまい。人の言葉を使うこともできるが、今は喉から出る音に任せておきたかった。
指が耳の後ろから首筋へ下り、革の首輪に触れる。その先の、小さな葉をかたどった飾りが揺れた。
妾は顎を上げた。
「そこがいいんだ」
はい。
まことに、よくお分かりで。
画面の人物が止まった。主様は妾を撫でながら、しばらくそのまま座っていてくださった。
壁の向こうで、小さく物音がした。階下では冷蔵庫が低く鳴っている。窓の外から車の走る音が届き、遠ざかる。
そのどれにも、今の妾が出向く用はなかった。
主様の指が動く。その間だけ、目を閉じる。
こうしていれば、幾らでも時を過ごせた。
*
翌日の午後、妾は洗面所の鏡の前に立っていた。
今日は、人の姿である。
主様の前で普段使う、大人の女の姿。髪を片側へ寄せ、耳の下で小さく留めてみる。
留めた位置を、指一本ぶん上げた。
戻した。
鏡の中の女も、同じように首を傾げた。
外へ出る際に威を示す装いなら、迷うことはない。されど、ここは主様と暮らす家である。袖を引きずるような衣では、夕餉の支度にも具合が悪い。
襟元の収まりを直し、薄い色の上着を羽織る。
手首には、昨日まで首にあった革の輪がある。葉の飾りを外側へ向けると、幾分、心が落ち着いた。
廊下の向こうから、階段を下りる足音がした。
妾は鏡から離れた。
「お茶をお淹れいたしましょうか」
「あ、ありがとう。僕がやるよ。タマちゃんも飲む?」
「では、ご一緒に」
主様は台所へ向かいかけ、ふと、妾をご覧になった。
目が合う。
「髪、まとめたんだね」
「……はい」
気づいてくださった。
妾はほんの少し、顔の向きを変えた。髪留めが見えるように。
「今日は、誰かと会うの?」
「いえ、そのような予定はございませぬが」
「そっか。出かけるなら、夕方は少し冷えるみたいだから。その上着、持っていくといいよ」
そうおっしゃって、主様は台所でやかんへ水を入れ始めた。細い水音が響く。
妾は上着の端をつまんだ。
これは、持って出るために選んだのではない。
今、ここで。
貴方様に見ていただこうと。
「タマちゃん?」
「……何でもございませぬ」
「そう?」
主様が二つの湯飲みを出される。その一つを受け取り、妾は食卓へ運んだ。
やがて湯気の立つ茶が入り、二人で向かい合って座る。
主様は買い物のメモを広げ、時折冷蔵庫の方へ目をやりながら中身を確かめておられた。
「卵は、まだあったよね」
「三つ、残っております」
「じゃあ、今日は買わなくていいかな」
ごく普通のお話をする。
妾の湯飲みからも、主様の湯飲みからも、同じように湯気が立つ。
それを眺めていると、先ほど口にできなかった言葉が、ますます言い出しにくくなった。
主様は、ちゃんと妾を見てくださった。
髪にも気づかれた。寒さまで気にかけてくださった。
何が足りぬというのか。
妾は茶を一口飲み、隣へ回って主様の肩へ、そっと頬を寄せた。
「どうしたの。今日は甘えたい日?」
手が伸びてきた。
いつものように頭へ触れかけて、髪留めの手前で止まる。
「せっかく整えたのに、崩しちゃうね」
「構いませぬ」
返事は、考えるより早く出た。
主様は笑って、留めた髪を避けながら、頭を一度だけ優しく撫でてくださった。
嬉しい。
これは、少しも偽りではない。
されど、その手に頬を寄せながらも、妾の中には先ほどの続きが残っていた。
今日は、髪にも、衣にも、少しばかり心を配ったのでございます。
かわいいとおっしゃっていただければ、それだけで浮かれてしまう身ではありますが。
ほかのお言葉を、望んではなりませぬか。
*
主様が買い物へ出られた後、妾は食卓を拭き、湯飲みを片付けた。
洗面所の鏡を、もう一度のぞく。
髪は、ほとんど乱れていなかった。
留め具の脇へ指を添え、主様の手が触れた場所を確かめる。
思い返すと、頬が緩む。
……これでは、先へ進まぬ。
妾は手を下ろした。
もっと華やかな衣ならばよいのか。髪の色を変えれば、驚いてくださるであろうか。
鏡に映る髪を見つめ、やめておいた。
主様はきっと気づかれる。そして、何かあったのかと案じてくださる気がした。
姿を変えることはできる。
されど、主様が何を見て心を動かされるかは、妾が決められることではない。
そこで、先日の娘の顔が浮かんだ。
主様のことを尋ねた折には、ずいぶんと不用意な口を利いた。されど、こちらの答えを聞こうとはしておった。
あの娘なら、今の世の装いについても、妾よりよほど詳しかろう。
次に話をする折、少し尋ねてみるのもよい。
どのように聞けばよいであろうか。
「今の世では、男は……」
鏡に向かって言いかけ、口を閉じる。
男なら誰でもよいわけではない。
主様に。
主様だけに、もう少し。
妾は髪留めを直した。外しはしなかった。
次にあの娘と会う日が、少しばかり待ち遠しくなった。




