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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第二部 届くコトバ
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第三枝章 撫でる手と髪留め

 主様のお膝には、少しばかり傾斜がある。

 油断すると、妾の後ろ脚がずり落ちる。されど、そのたびに主様の手が添えられるので、特に困ることはない。


「タマちゃん、落ちるよ」


 心得ております。

 妾は三毛の尾をゆるりと動かし、差し出された手首へ頬を寄せた。

 二階の居室で、主様はパソコンの画面に向かい、両手でゲームパッドを持っておられる。

 画面の中では、人の姿をしたキャラクターが、先ほどから同じ壁際を行ったり来たりしていた。


「ここ、何かありそうなんだけどなあ」


 主様の親指がスティックを倒す。

 画面の中の人物が、また壁際を端から端まで歩いてゆく。

 何があるのかは存じませぬが、妾はここにおります。

 もう一度、頬を寄せる。

 主様はゲームパッドから片手を離し、妾の耳の付け根を掻いてくださった。

 ああ、そこにございます。


「タマちゃんは、かわいいね」

「にゃあ」


 返事は、いささか締まりを欠いた。

 こちらの姿では致し方あるまい。人の言葉を使うこともできるが、今は喉から出る音に任せておきたかった。

 指が耳の後ろから首筋へ下り、革の首輪に触れる。その先の、小さな葉をかたどった飾りが揺れた。

 妾は顎を上げた。


「そこがいいんだ」


 はい。

 まことに、よくお分かりで。

 画面の人物が止まった。主様は妾を撫でながら、しばらくそのまま座っていてくださった。

 壁の向こうで、小さく物音がした。階下では冷蔵庫が低く鳴っている。窓の外から車の走る音が届き、遠ざかる。

 そのどれにも、今の妾が出向く用はなかった。

 主様の指が動く。その間だけ、目を閉じる。

 こうしていれば、幾らでも時を過ごせた。


     *


 翌日の午後、妾は洗面所の鏡の前に立っていた。

 今日は、人の姿である。

 主様の前で普段使う、大人の女の姿。髪を片側へ寄せ、耳の下で小さく留めてみる。

 留めた位置を、指一本ぶん上げた。

 戻した。

 鏡の中の女も、同じように首を傾げた。

 外へ出る際に威を示す装いなら、迷うことはない。されど、ここは主様と暮らす家である。袖を引きずるような衣では、夕餉の支度にも具合が悪い。

 襟元の収まりを直し、薄い色の上着を羽織る。

 手首には、昨日まで首にあった革の輪がある。葉の飾りを外側へ向けると、幾分、心が落ち着いた。

 廊下の向こうから、階段を下りる足音がした。

 妾は鏡から離れた。


「お茶をお淹れいたしましょうか」

「あ、ありがとう。僕がやるよ。タマちゃんも飲む?」

「では、ご一緒に」


 主様は台所へ向かいかけ、ふと、妾をご覧になった。

 目が合う。


「髪、まとめたんだね」

「……はい」


 気づいてくださった。

 妾はほんの少し、顔の向きを変えた。髪留めが見えるように。


「今日は、誰かと会うの?」

「いえ、そのような予定はございませぬが」

「そっか。出かけるなら、夕方は少し冷えるみたいだから。その上着、持っていくといいよ」


 そうおっしゃって、主様は台所でやかんへ水を入れ始めた。細い水音が響く。

 妾は上着の端をつまんだ。

 これは、持って出るために選んだのではない。

 今、ここで。

 貴方様に見ていただこうと。


「タマちゃん?」

「……何でもございませぬ」

「そう?」


 主様が二つの湯飲みを出される。その一つを受け取り、妾は食卓へ運んだ。

 やがて湯気の立つ茶が入り、二人で向かい合って座る。

 主様は買い物のメモを広げ、時折冷蔵庫の方へ目をやりながら中身を確かめておられた。


「卵は、まだあったよね」

「三つ、残っております」

「じゃあ、今日は買わなくていいかな」


 ごく普通のお話をする。

 妾の湯飲みからも、主様の湯飲みからも、同じように湯気が立つ。

 それを眺めていると、先ほど口にできなかった言葉が、ますます言い出しにくくなった。

 主様は、ちゃんと妾を見てくださった。

 髪にも気づかれた。寒さまで気にかけてくださった。

 何が足りぬというのか。

 妾は茶を一口飲み、隣へ回って主様の肩へ、そっと頬を寄せた。


「どうしたの。今日は甘えたい日?」


 手が伸びてきた。

 いつものように頭へ触れかけて、髪留めの手前で止まる。


「せっかく整えたのに、崩しちゃうね」

「構いませぬ」


 返事は、考えるより早く出た。

 主様は笑って、留めた髪を避けながら、頭を一度だけ優しく撫でてくださった。

 嬉しい。

 これは、少しも偽りではない。

 されど、その手に頬を寄せながらも、妾の中には先ほどの続きが残っていた。

 今日は、髪にも、衣にも、少しばかり心を配ったのでございます。

 かわいいとおっしゃっていただければ、それだけで浮かれてしまう身ではありますが。

 ほかのお言葉を、望んではなりませぬか。


     *


 主様が買い物へ出られた後、妾は食卓を拭き、湯飲みを片付けた。

 洗面所の鏡を、もう一度のぞく。

 髪は、ほとんど乱れていなかった。

 留め具の脇へ指を添え、主様の手が触れた場所を確かめる。

 思い返すと、頬が緩む。

 ……これでは、先へ進まぬ。

 妾は手を下ろした。

 もっと華やかな衣ならばよいのか。髪の色を変えれば、驚いてくださるであろうか。

 鏡に映る髪を見つめ、やめておいた。

 主様はきっと気づかれる。そして、何かあったのかと案じてくださる気がした。

 姿を変えることはできる。

 されど、主様が何を見て心を動かされるかは、妾が決められることではない。

 そこで、先日の娘の顔が浮かんだ。

 主様のことを尋ねた折には、ずいぶんと不用意な口を利いた。されど、こちらの答えを聞こうとはしておった。

 あの娘なら、今の世の装いについても、妾よりよほど詳しかろう。

 次に話をする折、少し尋ねてみるのもよい。

 どのように聞けばよいであろうか。


「今の世では、男は……」


 鏡に向かって言いかけ、口を閉じる。

 男なら誰でもよいわけではない。

 主様に。

 主様だけに、もう少し。

 妾は髪留めを直した。外しはしなかった。

 次にあの娘と会う日が、少しばかり待ち遠しくなった。

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