第三章 未来永劫、お傍に
幸徳井千尋は、少し考え違いをしていたらしい。
能力について確認する。
そう聞いていたから、何か一つか二つ、実際に見せてもらうのだと思っていた。
場所は、機関の分室にある小さな訓練区画だった。外からは見えず、壁と床には簡素な防護の線が走っている。
周囲には結界もある。
壊れて困るものも、ほとんど置かれていない。
そこまでは、想像どおりだった。
違ったのは。
「……わあ」
思わず声が出た。
さっきまで現代の服を着た大人の女性だったタマモが、数歩先で、まるで別の時代から抜け出してきたような姿で立っている。
長い髪。
艶やかな着物。
高く結い上げた髪の間から、猫の耳がのぞく。
背後には、尾。
袖口や帯の色まで華やかなのに、立っているだけで妙に隙がない。こちらを見る目つきまで、先ほどよりずっと古い。
「何じゃ」
「いえ、その。思ってたより、すごくて」
「何がじゃ」
「見た目が」
倉橋修司が横で息を吐いた。
「幸徳井」
「褒めてるんですよ」
「分かっておる」
タマモは袖を少し持ち上げた。
「こうしておいた方が、相手も妾をただの猫とは思わぬのでな」
「その姿じゃないと、能力が使えないわけでは?」
「ない」
「ですよね」
先日の記録に、猫の姿のまま相手を動けなくした例がある。
確認のために聞いただけだ。
千尋は膝の上の記録へ目を落とした。
「今日は、できること全部を見せてもらう場ではありません」
修司が、訓練区画の壁際に立ったまま言った。
「今後こちらから協力を頼む場合、何を頼んでも構わないのか、逆に頼まれてもやらないことがあるのか。その線を確認したい」
「よかろう」
タマモは素直にうなずいた。
「妾にも、断ることはある」
「例えば?」
「主様に関わること」
早い。
千尋は顔を上げた。
修司は特に反応しなかった。
「主様について調べよ、連れてこい、話をさせよ。そのような頼みを聞くつもりはない」
「それは、こちらも頼まない方針です」
「ならばよい」
「ほかには?」
タマモは少し考えた。
「妾の力で、他の者を無理に従わせよと言われても断る」
「できるんですか」
「できる」
千尋は、ペン先を止めた。
「……できるんですね」
「できることと、することは別じゃ」
「はい」
その言い方は、前にも聞いた気がした。
分かることと、分からないこと。
できることと、すること。
タマモの中では、その境が妙にはっきりしている。
「影の術は?」
「使う」
「前に見せてもらった、動けなくするものも?」
「必要ならばな」
タマモの足元で、影がゆっくり伸びた。
床を這った黒い筋が、千尋たちから離れたところに置かれていた木の棒へ絡む。
持ち上がる。
棒は床から離れたまま、倒れることなく宙で止まった。
その横に、小さな青白い火が一つ浮く。
「怪火も扱える」
炎は静かに揺れていた。
近づけば熱はある。
だが、すぐ脇の木の棒へ燃え移る様子はない。
「これ、本当に燃えるんですよね」
「触れてみるか?」
「遠慮します」
タマモは少し笑い、火を消した。
影も床へ戻り、木の棒が元の位置へ静かに下りる。
「相手の考えてることを読む、とかは」
「できぬ」
今度は即答だった。
「気配や、力の動きならば分かる。顔や声を見れば、怯えておるか、怒っておるか程度は察せよう。されど、頭の中をそのまま読むことはできぬ」
「意外です」
「何がじゃ」
「いや、何でもできそうなので」
「できぬこともある」
タマモはそう言った。
千尋は、その言葉をそのまま記録した。
*
確認は、しばらく穏やかに進んだ。
変身。
影。
炎。
防護。
できることを一つずつ掘り下げるのではなく、機関側が何を頼む可能性があるかという話に合わせて、必要な範囲だけ聞く。
問題は、その後だった。
「古い記録では、猫の妖に、死者へ関わるものもありますよね」
千尋が言った。
修司の視線が横から来た。
少し迷ったが、確認項目には入っている。
「火車とか」
「知っておる」
「タマモさんも、そういうことは?」
「できる」
また、答えは簡単だった。
「できるが、行わぬ」
「どうしてですか」
「主様の品位に関わる」
千尋は瞬きをした。
「品位?」
「妾が何をしても、妾だけのこととは思わぬのでな」
タマモは袖の内へ手を入れた。
「主様より名をいただき、主様の家で暮らしておる。ならば、妾の振る舞いで主様まで下卑た者に見られるような真似はしたくない」
千尋は、少しだけ声を落とした。
「じゃあ、必要でも?」
「必要の意味による」
「例えば……」
言葉を選ぶ。
「どうしても、亡くなった人からしか分からないことがある、とか」
「死者を動かせば、その者の記憶まで都合よく戻るわけではない」
「そうなんですか」
「妾の術ではな」
タマモは淡々としていた。
「動かせるからとて、その者が生き返るわけでもない」
「じゃあ」
千尋は、そこでやめればよかった。
後からなら、そう思う。
「もし、大切な人が亡くなったとしても?」
空気が変わった。
照明は同じ明るさで、空調の音も消えてはいない。
結界も壊れていない。
それでも、身体だけが先に「まずい」と理解した。
息が浅くなる。
握っていたペンが、急に細く頼りなく感じる。
数歩先にいるだけの女が、ひどく大きく見えた。
「幸徳井」
修司の声が飛んだ。
千尋は口を閉じた。
タマモの目が、まっすぐこちらを見ている。
怒鳴られてはいない。
それが余計に怖かった。
「主様の死を」
低い声。
「軽々しく口にするでない」
「……すみません」
謝る。
すぐに。
タマモは何も返さなかった。
修司が千尋とタマモの間へ半歩だけ出る。
「こちらの聞き方が悪かった。そこまで踏み込む確認は必要なかった」
しばらくして。
胸の上へ乗っていたものが、少しずつ退くように、圧迫感が薄れた。
タマモが、ゆっくり息を吐いた。
「……妾も、少々、力が漏れた。すまぬ」
「いえ」
千尋は首を振った。
まだ心臓が速い。
「私が悪いです」
タマモは、それ以上責めなかった。
髪の間の猫耳が、わずかに伏せられる。
その仕草だけが、妙に普通に見えた。
「ただ」
千尋は、口を開く前に修司を見た。
修司は眉を寄せた。
やめておけ。
たぶん、そう言っている。
千尋も、今度は聞き方を選んだ。
「……それくらい、大切なんですね」
タマモは答えなかった。
怒ったわけではない。
少し遠くを見るような顔になった。
「当然であろう」
やがて、そう言った。
「妾がここにおるのは、主様がおられるからじゃ」
「ずっと、おそばに?」
「うむ」
今度の声は、静かだった。
「その時が来たならば、共に」
千尋には、その言葉の意味を全部は測れなかった。
タマモは、こちらを見る。
「妾は、未来永劫、主様のお傍に」
怖い。
そう思った。
同時に。
先ほどまで伏せられていた睫毛が上がり、まっすぐこちらを見るその姿を、ひどく艶やかだとも思った。
*
帰りの車では、しばらく誰も話さなかった。
修司が運転している。
千尋は助手席で、膝の上の鞄を抱えていた。フロントガラスの向こうを、夕方の街灯と店の明かりが流れていく。
「……すみませんでした」
「本人に言っただろ」
「先輩にも」
「次から気をつけろ」
「はい」
車内に、方向指示器の音が数回続く。
赤信号で車が止まった。
「でも」
「まだ言うか」
「違いますって」
千尋は窓の外を見た。
「あれだけ大事に思ってもらえるの、ちょっと羨ましいなって」
修司は返事をしなかった。
「もちろん、さっきのは怖かったですけど」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話です?」
信号が青になる。
車がゆっくり動き出す。
修司は前を見たまま言った。
「あれを、綺麗な忠義だの、一途な思いだので片づけるな」
「……そんなにですか」
「本人が自分で止められてるうちはいい」
修司の声は、いつもと変わらなかった。
「だが、行き着く先まで考えたら」
少し間があった。
「呪いだよ」
「……え?」
千尋は、それ以上すぐには聞き返せなかった。
窓の外を、街の明かりが流れていった。




