第二章 何も起きていない
沢沿いの旧取水施設跡までは、車で行ける。
ただし、それは入口までだった。
「ここから歩きます」
倉橋修司が車の扉を閉める。
幸徳井千尋も鞄を肩へ掛け直し、錆の浮いた管理用の柵へ向かった。門扉は片側が傾き、鎖も鍵もない。色の褪せた注意表示だけが残っている。
脇からでも通れる。施設としてはとうに廃止され、危険な設備は撤去済みだった。
その先は、舗装の剥がれた細い道だった。
木々の間から沢の音が聞こえる。日陰に入ると空気が少し冷たく、階段は湿っていて端に苔が付いていた。
「帰り、暗くなると嫌ですね」
「今日はそこまでいない」
「分かってます」
「転ぶなよ」
「子どもじゃないですって」
言いながら、千尋は足元を見た。
滑りそうな場所には、確かに気をつける。
修司は数歩先を歩きながら、曲がり角のたびに周囲へ視線をやっていた。
千尋を見ているわけではない。
道の幅。
分岐。
戻る際に使える場所。
そういうものを確かめている。
いつものことだった。
*
揺らぎは、施設の奥にあった。
古い配管の残る通路を抜けた先。崩れかけたコンクリート壁の前で、空気の一部だけがわずかに歪んでいる。
目を凝らさなければ、陽炎にも見える。
「前日の観測記録と、位置は同じです」
千尋は十分に距離を取り、乾いた床のところへしゃがんだ。鞄から細長い紙を一枚取り出す。
指先で折る。
一度。
二度。
小さな鳥の形にして、息を吹きかける。
紙の鳥が、掌の上で身震いした。
「行って」
式神は地面すれすれを飛んだ。
揺らぎへ近づきすぎない位置まで進み、円を描く。
戻る。
もう一度。
今度は少し高い位置。
また戻る。
千尋は、そのたびに紙の色と、羽の折れ具合を確かめた。
「反応は?」
「微弱。前回とほぼ同じです」
「無理に近づけるな」
「はい」
今日は精密観測ではない。
最初から、そう決めている。
離れた位置から見る。
弱い式神を使う。
変化があれば、深入りせず戻る。
修司も大きな結界は張っていない。二人の立つ場所を囲うように、最低限の守りだけを置いている。
それでも、千尋の式神が三度目に同じ場所を通った時だった。
揺らぎの端が、紙の鳥を追うようにわずかに膨らんだ。
「あれ」
「止めろ」
修司の声に、千尋はすぐ指を引いた。
式神が向きを変えて戻ってくる。
揺らぎは、それ以上追わず、ゆっくり元の形へ戻った。
「今、動きました?」
「そう見えた」
「私もです」
「記録」
「はい」
千尋は膝の上で記録端末を開いた。
時刻。
式神の位置。
使った力。
風向き。
一つずつ書き込む。
「もう一度、同じことします?」
「今日はしない」
「ですよね」
修司は揺らぎを見たまま答えた。
「反応だったのか、見え方だったのかも分からない。確認のために条件を上げて、何が起こるか分からんものを起こす必要はない」
千尋は式神を手元へ戻した。
紙の鳥を開く。
白かった紙の端に、水を吸ったような薄い染みが一つ残っていた。
それ以上の変化はない。
「何も起きませんね」
「ああ」
修司は短く答えた。
沢の音だけが、壊れた壁の向こうから続いている。
その言葉には、安心した響きがなかった。
*
二日後。
今度は施設ではなく、下流の水路脇だった。
コンクリートの水路には浅い水が流れ、石積みの隙間から草が伸びている。タマモが話を通した相手と会うためである。
待ち合わせ場所へ着くと、石積みの上に三毛猫が座っていた。
その隣に、濡れた藻を丸めたような小さなものがいる。
黒っぽい身体に対して、目だけが妙に大きい。
「こちらじゃ」
タマモが前足を上げた。
「沢と水路を行き来しておる。人に呼ばれる名は持たぬそうじゃ」
「そういうこった」
藻の塊が、石の上で少し身体を揺らした。
「別に隠してるわけじゃねえ。今まで必要がなかっただけだ」
「なるほど」
声はしわがれていた。
千尋は水路の縁へ寄りすぎない位置でしゃがむ。
「この上の古い施設のあたり、通りますか?」
「通る」
「最近、変わったものを見ませんでした?」
「見た」
即答だった。
「いつ頃から?」
「さあな。暖かくなってからだ」
「通った時、何かされました?」
「別に」
「近づいても?」
「近づいちゃいねえ」
藻の妖は、大きな目を細めた。
「嫌な感じの日もあるからな」
修司が聞く。
「日によって違う?」
「見え方が違う。何もねえ日にゃ、ただ空気が変なだけだ。水が濁ったみてえに見える日もある」
「その日は、避ける?」
「そりゃな」
「誰かが近くで術を使っている時は?」
「知らん」
そこで、藻の妖は少し考えた。
水路を流れる水が、石に当たって小さく音を立てる。
「ただ、この前は上に人がいた」
千尋と修司の視線が合う。
「人?」
「お前らみてえなのじゃねえ。散歩か何かだ。すぐ帰った」
「何か起きた?」
「何も」
また、その答えだった。
何も起きていない。
被害もない。
通った妖も、その場にいた人間も、少なくとも確認できる範囲では無事。
なのに、時々だけ見え方が変わる。
観測をした場所へ、向きが寄ったようにも見えた。
「ほかに、この辺りを通る者は?」
タマモが尋ねる。
「いる。今度会ったら聞いとく」
「頼む」
「貸し一つな」
「何を望む」
「今度、下の水路の石、どかすの手伝え」
「見てから決める」
「固えなあ」
藻の妖は笑い、石積みの隙間へ身体を落とした。
水面が一度だけ膨らみ、水音が変わる。
それきり、姿は見えなくなった。
「……交渉、慣れてますね」
千尋が言うと、タマモは石積みの上で尾を一度動かした。
「頼み事に、ただで応じる者ばかりではない。それでよい」
「石、どかすんですか?」
「流れを塞いでおるならばな。見もせず約束はせぬ」
「なるほど」
修司は、聞き取りの内容を手帳へまとめていた。
「少なくとも、通っただけでは反応しない例が複数ある」
「人も妖も、ですね」
「こちらの初回観測でも動かなかった」
千尋は、先日の記録を思い出した。
「でも、式神の位置へ寄ったようには見えた」
「あれが反応ならな」
「次は、もう少しちゃんと測ることになります?」
「その前に記録を合わせる。式神に残った染みも含めてな」
「分かりました」
修司は手帳を閉じた。
「急ぐ理由はまだない」
タマモが石積みから地面へ軽く飛び下りた。
「妾に聞ける範囲では、その程度じゃ。ほかにも話が入れば知らせよう」
「ありがとうございます」
「うむ」
「帰り、送りますよ」
千尋は何気なく言った。
ここまでは車で来ている。
タマモがどこから来たのかは聞いていなかったが、市内だという話は知っていた。
ところが、タマモは首を傾げた。
「構わぬ」
「でも、ここ、駅からも遠いですよ」
「問題ない」
タマモの足元で、地面に落ちた影が濃くなった。
千尋は一瞬、それが頭上を雲が横切ったせいかと思った。
違った。
影が、水へ垂らした墨のように足元から広がる。
三毛猫の前足が、その黒い面へ沈んだ。
「え」
「では、またの」
続いて身体が沈む。
背中。
尾の先まで。
音もなく、姿が消えた。
広がった影だけが縮み、やがて周囲と同じ濃さへ戻る。
千尋は数秒、その場所を見つめた。
「……車、いらないんですね」
「見れば分かる」
「いや、そうですけど」
思わず、タマモが消えた場所へ近づく。
普通の地面だった。
しゃがんで指先を近づけても、何も起こらない。
「これ、移動ですよね」
「そうだろうな」
「どこまで?」
「本人に聞け」
「次、聞いていいですかね」
「必要ならな」
修司は先に車へ向かった。
千尋も後を追う。
数歩歩いてから、もう一度だけ振り返った。
タマモが消えた場所には、水路沿いの石と影があるだけだった。
今日も。
現場では、何も起きなかった。
聞き取りでも、被害は見つからなかった。
それでも。
「安全、ではないんですよね」
千尋が言うと、修司は足を止めずに答えた。
「まだ、確認できてない」
今は何も起きていない。
それだけだった。




