第一章 静かな場所の相談
幸徳井千尋が、その名前をもう一度見たのは、昼休みが終わる少し前だった。
内閣府特殊事象統合管理局――内部では「特事」と略される。その地方事務所で、千尋は特殊事象捜査官としてこの街を担当していた。
事務室には空調の低い音が続き、向かいの机では倉橋修司が紙の資料をめくっている。千尋の前の画面には、先日の旧旅館跡での一件に関する報告が開かれていた。
タマモ。
三毛猫。
人型への変化を確認。
妖力は高位。
近隣の妖との接触多数。
救助活動への協力。
そして、名称照合。
千尋は表示された検索結果へ目を留めた。
該当記録なし。
名称近似。
玉藻前。
所在不明。
「やっぱり、これしか出ないんですよねえ」
向かいの机で書類を読んでいた修司が、紙面から顔を上げた。
「何がだ」
「タマモさんです。条件を変えても、結局これだけで」
「昨日も見ただろ」
「見ましたけど」
千尋は画面を指した。
「高位の妖なら、何かしら残っててもよさそうじゃないですか」
「現行記録にないだけだ。古い記録と文献はまだ当たってる」
「そうなんですけどね」
「それと、名前が似てるって話は別だ」
「能力もすごいですし」
「だからって、同一個体にはならん」
修司は手元の書類へ視線を戻した。
「記録にないことは調べる。照合もする。だが、材料がないうちから正体を決めるな。本人が名乗ってるのはタマモ。それ以上でも以下でもない」
「はい」
返事をしながら、千尋は表示を閉じた。
分かってはいる。
第一接触の頃より、材料は増えた。それでも、玉藻前と断定できる材料が増えたわけではない。
むしろ、知れば知るほど、既存の何か一つへ押し込む方が危ないのではないか。
そんな気もしている。
「今日聞くのは、そこじゃないからな」
「分かってますって」
「ならいい」
修司が書類を揃えて立ち上がった。
「行くぞ」
*
待ち合わせに選んだのは、市内にある小さな分室の一室だった。
普段は資料の受け渡しや、外部の協力者と短い打ち合わせをするときに使う場所である。曇りガラスの窓から白い光だけが入り、外から中を覗くことはできない。
中央に机が一つ。
椅子が四つ。
壁際には書類棚があるだけで、話し声が途切れると空調の音まで耳につくような静かな部屋だった。
千尋たちが先に着いてから、十分もしないうちに扉が軽く叩かれた。
「どうぞ」
修司が答える。
扉を開けて入ってきたのは、大人の女だった。
落ち着いた色の服。長い髪。
手首には、見覚えのある革の輪があり、小さな葉の飾りが付いている。それがなければ、街ですれ違っても同じ相手だとは気づかなかったかもしれない。
「待たせたかの」
「いえ。こちらも今来たところです」
千尋が答えると、タマモは机を挟んだ向かいの椅子へ腰を下ろした。
「それで。今日は、何を聞きたいのじゃ」
話が早い。
修司は持ってきた地図を机の中央へ広げた。折り目を伸ばし、赤い印を指で示す。
「相談があります」
市街地から少し外れた、沢沿いの場所である。
「ここで、小さな空間の揺らぎが観測されています」
「揺らぎ」
タマモの視線が、修司の指先から赤い印へ落ちる。
「先のものと同じか?」
「そこが分かりません」
修司は即答した。
「似て見える部分はある。ただ、観測の返り方が違います」
「返り方?」
千尋が身を乗り出し、地図の印の脇を指でなぞった。
「前に見たものは、向こうからこちらへ力が染み出してくるような反応でした。今回は……うまく言えば、こちら側を見ているような」
「見ている?」
「正確には、観測を返した位置へ、少しだけ向きが寄ることがあるんです」
タマモは地図から顔を上げた。
「危険は?」
「今のところ、直接の被害は確認されていません」
修司が言った。
「だからこそ、分からない」
「何も起きておらぬ、か」
「ええ。何も起きていないことと、安全だと分かったことは別です」
タマモは小さくうなずいた。
そこは納得したらしい。
「この沢の下には、水路が続いています」
千尋は沢から市街地側へ伸びる線を指で追った。
「人には見えない通り道もあるようで。そちら側で、何か見たり聞いたりした者がいないかと思いまして」
「妾に聞けと」
「はい」
千尋は少し姿勢を正した。
「先日の件で、タマモさんが周辺の妖から話を集めていたことは、記録に残っています。こちらだけで探すより、話を聞いてもらえる相手がいるなら、その方がいい」
「妾が答えを知っておるとは限らぬぞ」
「承知しています」
修司が答えた。
「分からないものは、分からない。それで構いません。こちらは現場を調べます。あなたには、あなたが話せる相手へ聞いてほしい」
しばらく、タマモは修司を見ていた。
やがて、椅子の背へ少し身を預け、腕を組む。
「よかろう」
千尋は、息を少しだけ吐いた。
「助かります」
「ただし、妾が遠方まで探し回るつもりはないぞ」
「今回は、この市内と周辺だけで十分です」
「ならばよい」
修司は地図の端へ、別の資料を重ねた。
「それと、もう一つ」
タマモの目が、紙の束へ移る。
「今後も、こうして協力をお願いすることがあるかもしれません」
「ほう」
「前回は、緊急時の臨時協力として処理しています。今回も、それで動けないわけではない。ただ、毎回それをやると、外の施設や警察、行政が絡んだ時に説明が増える」
「妾を、お主らのところへ入れたいという話か?」
「違います」
修司は首を振った。
「所属でも雇用でもない。協力を頼める相手として、あなた自身を登録する制度があります」
タマモの表情は変わらなかった。
「それで、何が変わる」
「あなたに何かをお願いした案件について、誰が依頼したか、どこまで動いてもらうか、こちら側で説明しやすくなります。本人確認も、あなた自身の名前でできる」
修司は一拍置いた。
「未登録のままだと、状況によっては、同居している方へ確認をお願いする余地が残ります」
タマモの目が、わずかに細くなった。
「それをせぬと、主様に何か頼むことになるのか」
「必ずではありません」
修司は答えた。
「ただ、あなた自身の名で確認を終えられる方が、こちらも主様へ触れずに済みます」
短い沈黙が落ちた。
タマモの指先が、机の上へ置いた地図の端で止まっている。
千尋は口を挟まなかった。
タマモが主と呼ぶ相手について、こちらから直接接触しない。前の一件で、そう決めている。
その境界を守れるなら、登録制度には意味がある。
「……ならば、その話は聞いておこう」
タマモが言った。
「今日ここで決めなくても構いません」
「うむ」
それ以上は進めなかった。
今日の本題は、揺らぎの方である。
*
修司は別の一枚を取り出し、地図の脇へ置いた。
そこには、過去の失踪記録があった。
「今回の場所とつながっている証拠はありません」
最初に、そう断った。
「以前、別の地点で、こちらの能力者と協力していた妖が一緒に消えています」
「二人ともか」
「はい。正確には、一人と一体」
千尋が答える。
「協力していた妖は、危険を察して離れるのが得意だったそうです。だから当時は、相当に強い何かに押さえ込まれた可能性も考えられていました」
「今は違うと?」
「分かりません」
修司が言った。
「ただ、今回のような揺らぎを調べる以上、こういう記録も見直しています」
タマモは資料へ手を伸ばさなかった。
机越しに、離れたまま文字を追っている。
「お主らの知る揺らぎは、どういうものが多い」
「何かが出てくるもの。こちらから感情や力のようなものを吸うもの。前回みたいに、こちらへ足場を作るもの」
「今回のものは」
「まだ、どれとも言えない」
タマモは目を伏せた。
「妾にも、分からぬ」
淡々とした答えだった。
けれど、千尋には少し安心できた。
分からないことを、分かったようには言わない。
力の強さと、知っていることの広さは同じではない。
「ただ」
タマモが地図の沢を指した。
「この辺りを通る者に、心当たりはある。直接知らぬ者でも、取次ぎはできよう」
「お願いします」
「お主らは現場を見よ。妾は話を聞く」
役割が分かれた。
修司が地図を折り目に沿って畳む。
「では、まずそれで」
タマモも椅子を引いて立ち上がった。
「次に会う時には、何か一つくらい増えておればよいな」
「こちらも、そのつもりです」
扉を開ける前に、タマモが振り返った。
「主様のところへは」
「行きません」
修司が答える。
タマモは一度だけうなずいた。
「ならばよい」
扉が閉まる。
足音が廊下の向こうへ遠ざかり、それが聞こえなくなってから、千尋は椅子へ背を預けた。
「……やっぱり、主様のことになると分かりやすいですね」
「口に出すなよ」
「今いないじゃないですか」
「そういう問題じゃない」
修司は机の上の資料を重ねた。
千尋も、自分の地図を畳む。
まだ、何も解決していない。
ただ、人の側で見るものと、妖の側で聞くものが分かれた。
答えがあるなら、その間に落ちているかもしれない。
まずは、そこからである。




