序章 影使い
まだ、今の家へ越してくる前のことである。
夕食を終えたあと、妾は主様と並んで台所に立っていた。流しでは細い水音が続き、洗い終えた食器が水切り籠の中で白く光っている。
主様が洗い、妾が拭く。
はじめは、すべて妾にお任せいただければよいと思っていたのだが、主様はなかなか譲ってくださらない。
「二人でやった方が早いでしょう」
そう言われてしまえば、妾に異論はなかった。
むしろ、たいへん結構である。
主様がお洗いになった皿を受け取り、水気を拭って棚へ戻す。ただそれだけのことでも、二人でしているとなれば心持ちは違う。
「次、これお願い」
「はい」
小皿を受け取る。
その間に、主様は流しへ残っていた次の器へ手を伸ばされた。濡れた指先が、皿の縁に触れる。
「あ」
短い声。
白い皿が指先を離れ、流し台の縁をかすめた。
床へ落ちる。
その前に。
足元へ伸びていた妾の影が、するりと持ち上がった。黒い面が皿の下へ滑り込み、床から少し浮いたところで受け止める。
皿は割れなかった。
影の上で、かすかに揺れただけである。
「……危のうございました」
妾は息をついた。
影を持ち上げ、皿を主様の手元へ戻す。主様は両手で受け取ると、皿、それから足元の影へと視線を落とされた。
「今の、タマちゃん?」
「はい」
「影?」
「左様にございます」
妾は答えた。
問われたことへ、偽る理由はない。
役目を終えた影は、もう床へ平たく戻っている。
「影って、動かせるの?」
「使えまするが」
「へえ……」
恐れられた様子はなかった。
代わりに、声が少し弾んだ。
「影使いかあ」
主様は、皿を今度こそしっかりと持ち直された。
「なんか、カッコいいね」
妾は瞬きをした。
「……格好よい、のでございますか?」
「うん。そういうの、漫画とかアニメであるでしょう。影を伸ばしたりさ」
主様は濡れた手を流しの上で軽く振り、それから思い出すように続けられた。
「影の中に物をしまえたり。影から影へ移動したり。そういうの、便利そうだし」
「便利、でございますか」
「便利そうだし、カッコいい」
どうやら、後の方が大切らしい。
妾は足元へ目を落とした。
台所の明かりを受け、主様と妾の影が床へ並んで伸びている。今しがた皿を受け止めたものと、見た目は変わらぬ。
「主様は、そのようなものがお好みなのでございますか」
「好きっていうか……うん、好きかな」
少し考えてから、主様は笑われた。
「タマちゃんにも似合いそう」
――似合う。
妾に。
主様が、そうおっしゃった。
「……左様でございますか」
「うん」
主様はそれ以上、何かを求めてはこなかった。
影でこれをせよとも、あれをせよともおっしゃらない。皿をもう一度水で流し、今度は慎重にこちらへ差し出される。
「はい、次」
「……はい」
受け取った。
手元が、少しばかり忙しい。
皿を落とさぬよう、いつもより丁寧に布を動かした。
*
片づけが済んだあと。
主様が湯を沸かしておられる間に、妾は一人、台所の隅へ立った。小さなやかんが火にかけられ、まだ静かなまま温まり始めている。
足元へ目をやる。
影が伸びている。
妾は、先ほど使った布巾を指先でつまんだ。
「影の中に、物を……」
床の影へ近づける。
布の端が、音もなく沈んだ。そのまま手を離すと、布巾はするりと影の内へ消えてゆく。
「ほう」
出そうと思えば、すぐに戻せる。
指を向けると、沈んだ場所から布巾の端が現れ、何事もなかったように妾の手へ収まった。
なるほど。
悪くない。
「タマちゃん、お茶できたよ」
背後から、主様の声がした。湯の沸いた音も聞こえる。
「ただいま参ります」
布巾を元の場所へ掛ける。
今日のところは、それでよい。
影使い。
主様がお気に召すならば。
そのように見えるのも、悪くはあるまい。




