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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第二部 届くコトバ
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序章 影使い

 まだ、今の家へ越してくる前のことである。

 夕食を終えたあと、妾は主様と並んで台所に立っていた。流しでは細い水音が続き、洗い終えた食器が水切り籠の中で白く光っている。

 主様が洗い、妾が拭く。

 はじめは、すべて妾にお任せいただければよいと思っていたのだが、主様はなかなか譲ってくださらない。


「二人でやった方が早いでしょう」


 そう言われてしまえば、妾に異論はなかった。

 むしろ、たいへん結構である。

 主様がお洗いになった皿を受け取り、水気を拭って棚へ戻す。ただそれだけのことでも、二人でしているとなれば心持ちは違う。


「次、これお願い」

「はい」


 小皿を受け取る。

 その間に、主様は流しへ残っていた次の器へ手を伸ばされた。濡れた指先が、皿の縁に触れる。


「あ」


 短い声。

 白い皿が指先を離れ、流し台の縁をかすめた。

 床へ落ちる。

 その前に。

 足元へ伸びていた妾の影が、するりと持ち上がった。黒い面が皿の下へ滑り込み、床から少し浮いたところで受け止める。

 皿は割れなかった。

 影の上で、かすかに揺れただけである。


「……危のうございました」


 妾は息をついた。

 影を持ち上げ、皿を主様の手元へ戻す。主様は両手で受け取ると、皿、それから足元の影へと視線を落とされた。


「今の、タマちゃん?」

「はい」

「影?」

「左様にございます」


 妾は答えた。

 問われたことへ、偽る理由はない。

 役目を終えた影は、もう床へ平たく戻っている。


「影って、動かせるの?」

「使えまするが」

「へえ……」


 恐れられた様子はなかった。

 代わりに、声が少し弾んだ。


「影使いかあ」


 主様は、皿を今度こそしっかりと持ち直された。


「なんか、カッコいいね」


 妾は瞬きをした。


「……格好よい、のでございますか?」

「うん。そういうの、漫画とかアニメであるでしょう。影を伸ばしたりさ」


 主様は濡れた手を流しの上で軽く振り、それから思い出すように続けられた。


「影の中に物をしまえたり。影から影へ移動したり。そういうの、便利そうだし」

「便利、でございますか」

「便利そうだし、カッコいい」


 どうやら、後の方が大切らしい。

 妾は足元へ目を落とした。

 台所の明かりを受け、主様と妾の影が床へ並んで伸びている。今しがた皿を受け止めたものと、見た目は変わらぬ。


「主様は、そのようなものがお好みなのでございますか」

「好きっていうか……うん、好きかな」


 少し考えてから、主様は笑われた。


「タマちゃんにも似合いそう」


 ――似合う。

 妾に。

 主様が、そうおっしゃった。


「……左様でございますか」

「うん」


 主様はそれ以上、何かを求めてはこなかった。

 影でこれをせよとも、あれをせよともおっしゃらない。皿をもう一度水で流し、今度は慎重にこちらへ差し出される。


「はい、次」

「……はい」


 受け取った。

 手元が、少しばかり忙しい。

 皿を落とさぬよう、いつもより丁寧に布を動かした。


     *


 片づけが済んだあと。

 主様が湯を沸かしておられる間に、妾は一人、台所の隅へ立った。小さなやかんが火にかけられ、まだ静かなまま温まり始めている。

 足元へ目をやる。

 影が伸びている。

 妾は、先ほど使った布巾を指先でつまんだ。


「影の中に、物を……」


 床の影へ近づける。

 布の端が、音もなく沈んだ。そのまま手を離すと、布巾はするりと影の内へ消えてゆく。


「ほう」


 出そうと思えば、すぐに戻せる。

 指を向けると、沈んだ場所から布巾の端が現れ、何事もなかったように妾の手へ収まった。

 なるほど。

 悪くない。


「タマちゃん、お茶できたよ」


 背後から、主様の声がした。湯の沸いた音も聞こえる。


「ただいま参ります」


 布巾を元の場所へ掛ける。

 今日のところは、それでよい。

 影使い。

 主様がお気に召すならば。

 そのように見えるのも、悪くはあるまい。

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