終章 帰ってくる猫
その次の休み、主様は朝食の後で、少し出かけようかとおっしゃった。
「買い物でございますか」
「それも。先に、ちょっと見ておきたいところがあるんだ」
妾は、手にしていた皿を台へ置いた。
「ご一緒しても?」
「もちろん。バイクだから、行き帰りは猫でお願いね」
行き帰りだけでなくとも、主様とご一緒ならば構わぬ。
妾は片づけを済ませ、三毛猫となって玄関へ向かった。
*
カブを停めた場所から、しばらく歩いた。
家々を離れた、古い道である。
途中から草が増え、人の通った跡も薄くなる。
周りに人がおらぬことを確かめ、妾はキャリーから出た。
主様は空になったそれを持ち直し、足元を見ながら進まれる。
沢の手前で、妾は足を止めた。
古い石垣の上が、わずかに揺れていた。
幅は狭い。
目を離せば、草の葉が動いたようにも見える。
周りには、札がなかった。
人の張った守りも、見張る者の気配もない。
「主様。こちらでございますか」
「うん」
主様はキャリーを平らな地面へ置かれた。
携帯電話を取り出して画面を確かめ、それから石垣の上を見る。
「ここは、誰も管理していないみたいだから」
妾は揺れへ顔を向けた。
あの建物にあったものと、似たところがある。
だが、どうつながっているのかまでは分からない。
「また、お調べになったのでございますか」
「そう。閉じ方も出たんだけど……」
主様は、画面へもう一度目を落とされた。
何やら、困った顔である。
「少し下がっててくれる?」
「はい」
妾は道の端へ座った。
主様は石垣へ近づき、揺れの縁へ、そっと人差し指を触れさせられた。
指先には、何もついていない。
札も、道具も、持っておられぬ。
それから指を離し、足元を確かめられた。
その場で、一回、回られる。
妾は耳を立てた。
二回。
三回。
主様は元の向きへ戻り、両手を胸の前へ上げて左右に開かれた。
その手を、勢いよく打ち合わせる。
動きに合わせて、揺れの両端が寄った。
妾は腰を上げた。
二重に見えていたずれが、細くなり、そのままなくなる。
石垣の上には、草が生えていた。
先ほどまで二重に見えた茎が、一本のまま風に動いている。
主様は掌を見てから、石垣を見た。
「……本当に、これでいいんだ」
妾はそばへ寄った。
「主様。今のは」
「こうすれば閉じるって出たから、やってみたんだ」
「回る必要が、おありなのでございますか」
「手順には、そう書いてあった。理由の方は、まだ分からなくてね」
主様はしばらく黙って石垣を見つめ、それから、小さくうなずかれた。
「うん。ここは、閉じたみたい」
妾も、もう一度確かめた。
揺れを押さえる力が置かれたわけではない。
残っているものが、見つからなかった。
あの者たちが交代で守り続けているものを、主様は、今。
「ほかの場所も、そのように?」
「場所によって、やることが違うみたいだよ。とりあえず、今日はここの確認まで」
主様は携帯電話へ何かを書き込み、ポケットへ戻された。
空のキャリーを持ち上げる。
「帰りに、買い物していこうか」
妾は、揺れのなくなった場所から、主様へ顔を戻した。
「……はい」
聞きたいことは、いくつもあった。
けれど、主様は帰り道の小石をよけ、妾が歩くのを待っておられる。
妾は、そのお隣へ追いついた。
*
店の外で待っていると、主様が買い物袋を下げて戻ってこられた。
キャリーの妾へ顔を寄せ、袋の中を少し見せてくださる。
「あの惣菜、今日は売り切れだった。でも、こっちもおいしそうでね」
いつもとは違う包みが、一つ入っていた。
買い物袋と、妾のキャリー。
主様は順に収まりを確かめ、カブへ乗られた。
家へ戻ると、いつものように足を拭いてくださる。
石垣に触れた指が、今は妾の前足を支えていた。
「歩いたね。疲れた?」
妾は首を振った。
「じゃあ、先にお湯を沸かそうか」
主様が台所へ向かわれる。
妾も、人の姿になって後を追った。
*
食事を終え、片づけを済ませた頃、裏手で猫の声がした。
妾が窓を開けると、灰尾が塀の上にいた。
「急ぎではないのであろうな」
「違う。小羽が、少し飛べたってよ。それだけ伝えに来た」
灰尾の二本の尾が、塀の向こうへ下りていく。
妾は、その姿が見えなくなるまで見送ってから、窓をゆっくりと閉めた。
振り返ると、主様が椅子を少し横へずらしてくださっていた。
その隣には、もう一脚を置けるほどの空きができている。
「何だったの?」
「先日、助け出した子が、少し飛べるようになったそうにございます。それを知らせに参ったようで」
「そっか。それはよかったね」
「はい」
主様はそれ以上お尋ねにならず、湯呑みへ手を伸ばされた。
その傍らには、先ほど空けてくださった場所が、そのまま残っている。
猫の姿になれば、いつものように主様の膝へ乗れる。
けれど今は、人の姿の妾が座れるだけの場所を、主様が空けてくださっている。
人の姿ならば、お隣へ座れる。
妾は少し迷い、人の姿のまま、もう一脚の椅子を寄せた。
「今日はもう、用事はおしまい?」
「はい。今宵は、おそばに」
主様がうなずかれる。
妾はその肩へ、そっと頬を寄せた。
家には、茶の匂いがあった。
主様の服と、日に干した布の匂いも。
引っ越してきた日には、まだなかったものばかりである。
「タマちゃん」
「はい」
「もう少し、こっち。椅子から落ちるよ」
肩へ置かれた手に支えられ、妾は身を寄せ直した。
手首の小さな葉が、主様の袖に触れる。
音は、しなかった。
妾は目を閉じた。




