第一章 留守番の範囲
翌週には、主様はいつものお勤めへ戻られた。
朝、身支度を整え、玄関で靴を履く。
妾は猫の姿で少し離れて座り、そのお姿を見守った。
「じゃあ、行ってきます。留守番、お願いね」
「お任せくださいませ」
主様は妾の頭をひと撫でしてから、扉を開けた。
やがて、カブの音が遠ざかる。
妾は耳を澄ませた。
音が聞こえなくなってから、人の姿に変わる。
洗面所で手を洗い、袖をまくった。
朝の食器を洗い、洗濯物を干し、部屋を整える。
さて、留守番である。
家の中で、今するべきことは済ませた。
ならば、住処の周りも確かめておくべきであろう。
妾は再び三毛猫となり、猫用の扉を抜けた。
風には、すでに覚えた匂いが混じっていた。
隣家の煮炊き。道路の砂埃。塀際の草。
その奥に、こちらをうかがう気配があった。
「おい」
その気配の主が、物置の陰から姿を現した。
大きな灰色の猫である。毛はあちこち跳ね、片耳には古い傷があった。そして、その尾は根元から二股に分かれている。
「新入りだろう、お前」
妾は座った。
「そうであるな」
「挨拶もなしに、ずいぶん我が物顔で歩くじゃねえか」
「挨拶を望むなら、まず名乗るものではないか」
「……灰尾だ」
名乗れる程度の分別はあるらしい。
「妾はタマモ」
「人間がつけた名前か」
灰尾の目が、妾の首輪へ落ちた。
口の端が持ち上がる。
「首輪までつけられて。飼いならされたか」
妾は、少しだけ胸を張った。
「大切にしていただいておる」
「褒めてねえよ。人間の膝で丸くなるしか能のない奴が、こっちをうろつくなと言ってるんだ」
「ほう」
「その飼い主にも、よく言い聞かせ――」
妾は前足を上げ、地面へ軽く下ろした。
灰尾の影が、四つの足元で濃くなる。
その影を、地へ縫い留める。
踏み出しかけた灰尾の身体が止まった。
足を引こうとしても、肉球が地から離れない。
「な、何だ、これ」
「まず、口の利き方を改めよ」
妾は猫の姿のまま、灰尾を見上げた。
その身体には触れていない。傷もつけていない。
ただ、ここから動けぬようにしただけである。
二本の尾だけが、遅れて逃げようとしていた。
「妾がどう暮らすかについて、お主の許しを求めた覚えはない」
「ま、待――」
「我が主に何を言い聞かせるつもりであった?」
灰尾は、しばらく口を開け閉めしていた。
待ってやると、ようやく言葉になった。
「……人間を、こっちの揉め事に連れてくるなと」
妾は目を細めた。
なるほど。
言いたいことは、それか。
「それについては同意する。主様のお手を煩わせるつもりはない」
前足を上げ、術を解く。
影の色が戻っても、灰尾はすぐには動かなかった。
前足を一本、そろそろと持ち上げる。
自由に動くと分かってから、ようやくこちらを見た。
「この家に用があるなら、妾へ申せ。話は聞こう」
「……いきなり動けなくしてからか」
「先に礼を欠いたのは、お主であろう」
灰尾は耳を伏せた。
何か言いかけたが、結局は口を閉じる。
帰り際、その目がもう一度、妾の首輪へ向いた。
「何か?」
「何でもねえ」
灰尾は慌てて目をそらし、物置の陰へ消えた。
よろしい。
主様と暮らす住処の周りには、静けさが必要である。
まずは、その程度のことを知っておいてもらわねばならぬ。
*
夕方、カブの音が近づいてくると、妾は窓辺から飛び下りた。
猫の姿のまま廊下を走り、玄関の手前で座る。
鍵が回る。
「ただいま。タマちゃん、お待たせ」
主様がしゃがんでくださる。
こちらへ伸ばされた手を待ちきれず、妾は頬を寄せた。
「はいはい。先に荷物を置かせてね」
そうおっしゃりながらも、指は妾の耳の後ろを撫でてくださる。
妾は目を細めた。
灰尾には、ああ言われたが。
主様の膝で丸くなることには、相応のよさがある。
少なくとも、ほかの者へ譲ってやる気はない。




