序章 主様と妾の新しい家
妾の名は、タマモ。
我が君より授かりし名である。
今は三毛猫の姿をしている。
時にはタマとも、タマちゃんともお呼びになる。
どの名で呼ばれようと、妾は振り向く。猫の姿であれば尾も立つ。足は、どのような姿をしていようと、勝手に御許へ向かう。
少々落ち着きが足りぬとは思うが、こればかりは致し方あるまい。
主様は、妾を寂しがり屋だとおっしゃる。
それも間違いではないので、そのままにしてある。
主様は、猫がお好きである。
妾も、この三毛の毛並みで抱き上げていただくのが好きだ。
主様の腕にも、よく収まる。
さて、本日は引っ越しである。
桜の花びらが、道の隅を転がっていた。
いつものカブが止まり、主様がヘルメットをお脱ぎになる。荷台に固定されたキャリーが開くと、春の空気とともに、いくつもの知らぬ匂いが入ってきた。
湿った土。誰かの朝食。遠くの洗濯物。
目の前には、二階建ての長屋のような住まいが横に続いていた。似た造りの玄関が、いくつも並んでいる。
屋根の色には濃淡があり、雨樋にも年月の跡があった。妾たちが入る一戸は、古い扉の枠を残しながら、その周りを塗り直してある。
主様の手に抱き上げられ、地面へ下ろされる。
妾は四つ足で立ち、玄関を見上げた。
「うん、間違いない。ここが、僕らの新しい家だよ」
「にゃーん」
僕ら――
よい言葉である。
できれば、もう一度お聞きしたい。
「さ、入ろうか」
鍵が回り、扉が開く。
妾はできた隙間をするりと抜け、ひと足先に土間へ降り立った。
中は、外から見るより明るかった。
床には拭き掃除の匂いが残り、壁紙も張り替えられている。
ただ、廊下の壁際や建具には細かな傷が残り、階段の手すりも、人の手に磨かれた艶を帯びていた。
「大家さんが直してくれてるんだって。台所も、お風呂も使いやすくなってるよ」
主様が、後ろからおっしゃった。
なるほど。
長く使われてきた家を、次に暮らす者のために整えたのであろう。
しかし、隅の方に薄いものが溜まっていた。
古い暮らしの中でこぼれ、置き去りにされた澱である。
それだけなら、どこにでもある。人間は忙しく暮らすうち、目に見えぬものを少しずつ落としてゆく。
とはいえ、ここは本日より主様の住処である。
妾は胸を張った。
「にゃー!」
声に乗せた力が、廊下の奥まで走る。
隅にわだかまっていたものは、陽に当てた霜ほどの抵抗もなくほどけた。
よし。
振り返り、土間に座って主様を待つ。
「先に入られちゃったね。ちょっと待ってね。ええと、タオル、タオルっと」
主様は扉を閉め、肩のバッグを探っている。
妾の働きには、お気づきではないらしい。
それでよい。
床の隅に何が溜まっていたかなど、お知りになる必要はない。
差し出されたタオルへ、まず前足を乗せる。
一本ずつ丁寧に拭いていただき、最後に廊下へ下ろされた。
その際、指先が首輪の小さな飾りに触れた。
柔らかな茶色の革に、葉の形をしたリボンが一つ。
音の鳴るものはついていない。
『重いのは嫌だろうし、鈴もなくていいよね』
選んでくださったとき、主様はそうおっしゃった。
妾は何でもよかった。主様が妾のために選び、その手でつけてくださるなら、何でも。
それでも、妾のことを考えて選んでくださったのが、うれしかった。
我が君のもの。
これで、我が君のもの――
あのときは、しばらく同じことばかり口にしていた気がする。
「荷物は昼から到着予定だからね。それまでに……」
「床掃除、でございますか? ええ、喜んで」
主様がうなずく間に、妾は人の姿を取った。
二本の足で立つ女の身体へと姿を変え、猫の耳と尾は収める。首にあった革の輪は、小さく形を変えて手首へ沿った。
淡い色の上着と、動きやすい長いスカート。
主様と家の中で過ごすときには、たいてい、この大人の女の姿を選ぶ。
物を持つにも、掃除をするにも都合がよい。
それに、主様のお顔を近くで拝見できる。
「じゃあ、僕は二階をやるから」
「すべて妾にお任せいただいても」
「二人でやった方が早いでしょう。疲れたら休もうね」
二人で――
今日はよい言葉を、何度もお聞きする。
「……はい」
思わず、そのおそばへ寄っていた。
主様が廊下を見回している隙に、肩へそっと頬を寄せる。
「タマちゃん?」
「何でございましょう」
「まだ掃除してないよ」
「……承知しております」
離れるまでに、少々時間がかかった。
*
引っ越しの荷物を運ぶ者たちが来る前に、妾はまた三毛猫になった。
人の出入りが続く間は、キャリーの中から仕事ぶりを眺めていた。
冷蔵庫。
パソコン。
使い込まれた机。
本の入った、見かけよりずっと重い箱。
空いていた部屋へ、主様の暮らしが運び込まれてゆく。
大きなテレビはない。広いソファもない。
それでも主様は、二階の一室へ机が収まったのをご覧になり、満足そうに息をつかれた。
「これなら、ずいぶん片づくなあ」
作業が済むと、キャリーの扉が開いた。
妾は猫の足で部屋を歩き、窓辺へ行き、また主様の隣へ戻った。
部屋の真ん中には、まだ広く床が残っている。
だが、居場所はひとまず、ここでよい。
夕方には、一階をひと巡りした。
冷蔵庫の位置。食器の場所。食卓の下。
台所の奥の壁には、妾専用の小さな出入口まである。
「これ、最初からついてたんだって。タマモにはちょうどいいね」
この家では、猫も一緒に暮らしてよいと、初めから認められている。
前の住処では、それが少々難しかった。
主様が内側の留め具を外してくださる。
鼻先で押すと、薄い扉が向こうへ開き、裏手の土へ出られた。
すぐ戻ると、主様が待っていた。
「どう?」
「たいへん、よろしゅうございます」
猫の口で答えると、主様は笑った。
専用の出入口。
悪くない。
これなら、主様のお手を煩わせずに済むことも多かろう。
その夜、家の中に短い音楽が流れた。
続いて、「お風呂が沸きました」と、女の声が告げる。
主様は畳んでいたタオルを置き、声のした方へ顔を向ける。
「あ、もうお風呂沸いたんだ。便利だねえ」
少し家賃は上がったけれど、と続け、それから部屋を見回された。
「まあ、それだけのことはあるかな」
それから、食卓の隅を手のひらで軽く撫でられた。
「借りてる家だからね。大事に使おう」
妾も食卓の下から顔を上げた。
傷の残る建具も、張り替えられた壁も、昼間と同じところにある。
それでも、昼よりずっとよい。
主様の持ち物が置かれ、主様が歩き、主様が声を出した。
ここにはもう、妾たちの暮らしの匂いがし始めていた。




