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猫とボクと普通(?)の日々  作者: zaq2
第一部:タマモ
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第十一章 帰る者を、取り違えるな

 床板の隙間から噴き上がった黒いものが、そのまま床を這って戸棚へ向かった。

 妾は袖を一つ振った。

 棚と濁りの間へ境を置き、そのまま天井まで引き上げる。

 ぶつかった黒い塊が、薄く潰れた。

 別の方へ回ろうとした端も、妾は囲いの内側へ戻した。

 奥の廊下で、灰尾の声がした。


「こっちにも来てるぞ!」


 妾は空いた手を廊下へ向けた。

 床を伝わって伸びる濁りを、壁際へ寄せて止める。


「灰尾。動いておる者に、触るでない」


 小さな気配が、濁りの縁で固まっていた。

 小さく身を縮め、黒いものと重なって見える。

 妾は濁りの流れる先を塞ぎ、小さな気配の周りだけを空けた。


「名を知っておる者には、呼びかけよ。返事がなくとも、そのまま知らせるのじゃ」


 灰尾が、一つの名を呼んだ。

 返事はなかった。

 代わりに、畳の上の細い組紐が、端をわずかに動かした。


「こいつは、ここにいる。喋らねえけど、いつも俺の尾を引っ張る奴だ」


 妾は、灰尾の示す場所へ力を伸ばした。

 紐の中には、縮こまってはいるが、一つにまとまった気配がある。

 周りにまとわりつく黒いものを剝がし、紐だけを灰尾のそばへ移した。

 黒い方には、同じまとまりがなかった。

 妾に掴まれた端を捨て、近くの気配へ喰らいつこうとする。声のような響きもあったが、呼びかけるたび、同じ調子で守りの縁を叩くだけであった。

 妾は、軒貸しの袖へ目をやった。

 床下へ続く口が、まだ開いていた。


「何を溜めておった」


 軒貸しは答えず、足を動かそうとしていた。

 影を縫ったところから先へは、一歩も出られぬ。

 妾は軒貸しの袖口と、床下から濁りが噴き出す隙間を、別々に押さえた。

 中から残りを引き出し、すでに囲った濁りと合わせる。


 器になっていたのは、床下へ並べた古い壺であった。

 割れた一つから、同じ濁りが漏れ続けている。


「この壺にも、誰かを閉じ込めておったのか」

「残り滓だ。部屋に染みついたものを、集めておいただけだ」


 軒貸しは、動かぬ足を見ながら答えた。

 妾はその言葉だけで決めず、壺と、漏れたものを別々に囲った。

 盃や組紐に残っていたような、ひとつにまとまる気配は見つからぬ。器の側にも、それへ戻ろうとするものはなかった。

 端を分けても、また混ざり、近くの守りへ同じように喰らいつこうとする。

 人や妖から離れて残る怨念が、溜められた末に暴れ出したものと見えた。


 それでも、助け出す者が紛れておらぬか、確かめる必要はある。

 妾は囲いを狭めた。

 内側へ巻き込まれた気配がないことを確かめる。

 戸棚にいる者、床の上にいる者、物に宿っている者。

 守りで包んだ一つ一つと、濁りとを切り離した。


 そこで、指を閉じた。

 囲いの中で黒い塊が縮み、ほどけるように薄れていった。

 外へ抜けようとするものも、床へ染みようとするものも、残さず留める。

 最後に、壺の内側に残っていた濁りもほどけた。

 廊下で、灰尾が息を吐いた。

 妾は袖を下ろした。


     *


 男の調査員が、廊下の入口にいた。

 後ろでは、女が紙の鳥を窓の外へ放っている。


「梁のところが、供給口ですか」

「ここへ集めて、渡しておる。閉じ込められていた者たちから取っていた筋は、もう外した」


 妾は札の裏側を示した。

 男は近づき、そこへ直接触れぬ位置に守りを置いた。

 外から来た別の担当者が、梁を支える柱のそばへ札を据える。


 軒貸しが、はっと梁を見上げた。


「止めろ。それは、私の」


 声の途中で、梁の影が横へずれた。

 窓の外の塀にも、同じずれが走った。

 男が、女へ声をかけた。


「周辺の点へ。こちらからの供給は切れています。残っている作用を押さえてください」

「伝えます」


 紙片が鳥へ変わる。

 女は梁の揺れを一度見てから、すぐに手を窓の方へ向けた。

 鳥は廊下を低く飛び、開けた窓から外へ抜けた。


 妾は、小羽を灰尾の背へ移した。

 そのほかの者も、男の後ろにいる救護の者へ順に渡す。


「返事のできぬ者もおる。物だけだと思うて置いてゆくでないぞ」

「分かりました。中にいる気配も確認します」


 灰尾は背中を動かさぬよう、慎重に歩き出した。

 小羽の爪が、灰色の毛をつかんでいる。


 部屋に残るものを、もう一度確かめる。

 押し入れの隅へ隠れていた一体を見つけ、妾は手を差し出した。

 そちらも保護の者へ渡してから、軒貸しへ向き直った。

 軒貸しは、梁の札へ向けて、同じ言葉を繰り返していた。


「お主が動かしておるのではないのか」


 木肌の顔に、細かな割れが走った。


「止まれと、言っている」


 梁の向こうの揺れは、止まらなかった。


「あれは、貸しただけだ。家の隅を。広げたところは、私のものになると」


 妾は、軒貸しから梁へ目を移した。


 家の隅に貸したはずのものが、外の塀へまで伸びている。

 さらに先には、町の道があり、人も妖も暮らしている。

 妾の住処も、そこにある。


「力を得た。それで、何をしてもよいと思うたか」


 軒貸しの顔が、こちらへ向いた。


「お主に貸せるのは、お主の軒までじゃ。この地も、ここに暮らす者も、お主の持ち物ではない」


 軒貸しは、拘束された指を動かそうとした。

 妾は、その手の影も地へ縫い留めた。


「住むところを与えたのは、私だ」

「戻る道を塞いだのも、お主じゃな」


 部屋の外から、小羽の弱い声が聞こえた。

 灰尾が、もう少しで外だと答えている。


「その始末を、誰に負わせるつもりであった?」


 軒貸しは、答えなかった。


     *


 外周からの返事が届くまで、妾は軒貸しの拘束を保った。

 窓の向こうに増えかけていた揺れが、広がるのをやめた。

 梁の裏側には、まだ細い震えがある。


「周辺の変動、止まりました」


 女の報告を受け、男は管理の担当者と位置を確かめ直した。


「消えたのではありません。この状態を維持します」

「ならば、任せる」


 妾は軒貸しを見た。

 こちらを憎んでいることは、十分に分かる。

 だが、言葉を聞き、損得を考え、逃げられるかどうかを計る目であった。

 壺の中身とは、違う。


「こやつを、預かれるか」


 男は軒貸しの身体と、妾の張った拘束を確認した。


「搬送の担当が来ています。こちらの拘束へ移せるか、確認させてください」


 新たな札が、軒貸しの周りへ置かれた。

 妾は自分の力を一度に解かず、新たな拘束が効いている箇所から、少しずつ影を解いていった。

 指も、足も、動かせぬ。

 咒を繰り返しても、梁へ届かなくなった。

 それを確かめてから、妾は影を戻した。


     *


 庭へ出ると、灰尾が人間たちへ道を空けるよう声をかけていた。


「こっち、通るぞ。器は傾けるなよ」


 盃は布を敷いた箱の中にいた。

 葉の妖も、布の妖も、別々に保護されている。


 妾が姿を見せると、小羽が顔を上げた。

 灰尾の背から小さく跳び、近づいた妾の袖へ、小羽が移ってきた。

 猫の耳を見ても、身を引かなかった。


「……帰るところ、まだない」


 小さな声であった。


「今夜の分から決めればよい」


 妾は、四月にも口にした言葉を返した。


「今度は、帰ってくる先も、一緒に確かめよう」


 小羽はうなずき、袖の端へ顔を埋めた。

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