第十一章 帰る者を、取り違えるな
床板の隙間から噴き上がった黒いものが、そのまま床を這って戸棚へ向かった。
妾は袖を一つ振った。
棚と濁りの間へ境を置き、そのまま天井まで引き上げる。
ぶつかった黒い塊が、薄く潰れた。
別の方へ回ろうとした端も、妾は囲いの内側へ戻した。
奥の廊下で、灰尾の声がした。
「こっちにも来てるぞ!」
妾は空いた手を廊下へ向けた。
床を伝わって伸びる濁りを、壁際へ寄せて止める。
「灰尾。動いておる者に、触るでない」
小さな気配が、濁りの縁で固まっていた。
小さく身を縮め、黒いものと重なって見える。
妾は濁りの流れる先を塞ぎ、小さな気配の周りだけを空けた。
「名を知っておる者には、呼びかけよ。返事がなくとも、そのまま知らせるのじゃ」
灰尾が、一つの名を呼んだ。
返事はなかった。
代わりに、畳の上の細い組紐が、端をわずかに動かした。
「こいつは、ここにいる。喋らねえけど、いつも俺の尾を引っ張る奴だ」
妾は、灰尾の示す場所へ力を伸ばした。
紐の中には、縮こまってはいるが、一つにまとまった気配がある。
周りにまとわりつく黒いものを剝がし、紐だけを灰尾のそばへ移した。
黒い方には、同じまとまりがなかった。
妾に掴まれた端を捨て、近くの気配へ喰らいつこうとする。声のような響きもあったが、呼びかけるたび、同じ調子で守りの縁を叩くだけであった。
妾は、軒貸しの袖へ目をやった。
床下へ続く口が、まだ開いていた。
「何を溜めておった」
軒貸しは答えず、足を動かそうとしていた。
影を縫ったところから先へは、一歩も出られぬ。
妾は軒貸しの袖口と、床下から濁りが噴き出す隙間を、別々に押さえた。
中から残りを引き出し、すでに囲った濁りと合わせる。
器になっていたのは、床下へ並べた古い壺であった。
割れた一つから、同じ濁りが漏れ続けている。
「この壺にも、誰かを閉じ込めておったのか」
「残り滓だ。部屋に染みついたものを、集めておいただけだ」
軒貸しは、動かぬ足を見ながら答えた。
妾はその言葉だけで決めず、壺と、漏れたものを別々に囲った。
盃や組紐に残っていたような、ひとつにまとまる気配は見つからぬ。器の側にも、それへ戻ろうとするものはなかった。
端を分けても、また混ざり、近くの守りへ同じように喰らいつこうとする。
人や妖から離れて残る怨念が、溜められた末に暴れ出したものと見えた。
それでも、助け出す者が紛れておらぬか、確かめる必要はある。
妾は囲いを狭めた。
内側へ巻き込まれた気配がないことを確かめる。
戸棚にいる者、床の上にいる者、物に宿っている者。
守りで包んだ一つ一つと、濁りとを切り離した。
そこで、指を閉じた。
囲いの中で黒い塊が縮み、ほどけるように薄れていった。
外へ抜けようとするものも、床へ染みようとするものも、残さず留める。
最後に、壺の内側に残っていた濁りもほどけた。
廊下で、灰尾が息を吐いた。
妾は袖を下ろした。
*
男の調査員が、廊下の入口にいた。
後ろでは、女が紙の鳥を窓の外へ放っている。
「梁のところが、供給口ですか」
「ここへ集めて、渡しておる。閉じ込められていた者たちから取っていた筋は、もう外した」
妾は札の裏側を示した。
男は近づき、そこへ直接触れぬ位置に守りを置いた。
外から来た別の担当者が、梁を支える柱のそばへ札を据える。
軒貸しが、はっと梁を見上げた。
「止めろ。それは、私の」
声の途中で、梁の影が横へずれた。
窓の外の塀にも、同じずれが走った。
男が、女へ声をかけた。
「周辺の点へ。こちらからの供給は切れています。残っている作用を押さえてください」
「伝えます」
紙片が鳥へ変わる。
女は梁の揺れを一度見てから、すぐに手を窓の方へ向けた。
鳥は廊下を低く飛び、開けた窓から外へ抜けた。
妾は、小羽を灰尾の背へ移した。
そのほかの者も、男の後ろにいる救護の者へ順に渡す。
「返事のできぬ者もおる。物だけだと思うて置いてゆくでないぞ」
「分かりました。中にいる気配も確認します」
灰尾は背中を動かさぬよう、慎重に歩き出した。
小羽の爪が、灰色の毛をつかんでいる。
部屋に残るものを、もう一度確かめる。
押し入れの隅へ隠れていた一体を見つけ、妾は手を差し出した。
そちらも保護の者へ渡してから、軒貸しへ向き直った。
軒貸しは、梁の札へ向けて、同じ言葉を繰り返していた。
「お主が動かしておるのではないのか」
木肌の顔に、細かな割れが走った。
「止まれと、言っている」
梁の向こうの揺れは、止まらなかった。
「あれは、貸しただけだ。家の隅を。広げたところは、私のものになると」
妾は、軒貸しから梁へ目を移した。
家の隅に貸したはずのものが、外の塀へまで伸びている。
さらに先には、町の道があり、人も妖も暮らしている。
妾の住処も、そこにある。
「力を得た。それで、何をしてもよいと思うたか」
軒貸しの顔が、こちらへ向いた。
「お主に貸せるのは、お主の軒までじゃ。この地も、ここに暮らす者も、お主の持ち物ではない」
軒貸しは、拘束された指を動かそうとした。
妾は、その手の影も地へ縫い留めた。
「住むところを与えたのは、私だ」
「戻る道を塞いだのも、お主じゃな」
部屋の外から、小羽の弱い声が聞こえた。
灰尾が、もう少しで外だと答えている。
「その始末を、誰に負わせるつもりであった?」
軒貸しは、答えなかった。
*
外周からの返事が届くまで、妾は軒貸しの拘束を保った。
窓の向こうに増えかけていた揺れが、広がるのをやめた。
梁の裏側には、まだ細い震えがある。
「周辺の変動、止まりました」
女の報告を受け、男は管理の担当者と位置を確かめ直した。
「消えたのではありません。この状態を維持します」
「ならば、任せる」
妾は軒貸しを見た。
こちらを憎んでいることは、十分に分かる。
だが、言葉を聞き、損得を考え、逃げられるかどうかを計る目であった。
壺の中身とは、違う。
「こやつを、預かれるか」
男は軒貸しの身体と、妾の張った拘束を確認した。
「搬送の担当が来ています。こちらの拘束へ移せるか、確認させてください」
新たな札が、軒貸しの周りへ置かれた。
妾は自分の力を一度に解かず、新たな拘束が効いている箇所から、少しずつ影を解いていった。
指も、足も、動かせぬ。
咒を繰り返しても、梁へ届かなくなった。
それを確かめてから、妾は影を戻した。
*
庭へ出ると、灰尾が人間たちへ道を空けるよう声をかけていた。
「こっち、通るぞ。器は傾けるなよ」
盃は布を敷いた箱の中にいた。
葉の妖も、布の妖も、別々に保護されている。
妾が姿を見せると、小羽が顔を上げた。
灰尾の背から小さく跳び、近づいた妾の袖へ、小羽が移ってきた。
猫の耳を見ても、身を引かなかった。
「……帰るところ、まだない」
小さな声であった。
「今夜の分から決めればよい」
妾は、四月にも口にした言葉を返した。
「今度は、帰ってくる先も、一緒に確かめよう」
小羽はうなずき、袖の端へ顔を埋めた。




