転:世の中そんなにうまく転がっていかない
そこからの三十分は、文字通り「事件の分解」だった。
なぜ如月はコーヒーを配ったのか。なぜ自分のカップだけ、実際には一滴も飲まなかったのか。なぜ倒れるタイミングが、宮下が「毒殺」と告白した直後だったのか。なぜドアに鍵をかけたのか。
僕たちは一つ一つの行動を疑い、仮説を立て、修正させられた。その過程は、確かにスリリングだったが、どこか演習室特有の安心感もあった。なにせ、犯人も被害者も、すべては「授業の枠内」の存在なのだから。
――少なくとも、そのときまでは、そう信じていた。
「では、まとめよう」
如月は、黒板にチョークで三つの円を描いた。
「今の小芝居には、三層の意味があった。第一に、君たちの反応を見るためのテスト。誰がまず被害者のもとへ駆け寄るか。誰が出口に向かうか。誰が状況を俯瞰するか」
「僕、完全に出口に向かってましたね……」と、法学部スーツが苦笑する。
「君は合理的だ。生存率は高いだろう。その代わり、友人をなくすかもしれないがね。第二に、『殺人事件のプロローグ』というものがいかに作為的かを体感させること。倒れるタイミング一つで、事件の印象は変わる」
彼はチョークをくるりと回し、最後の円を黒く塗りつぶした。
「そして第三に――」
一拍、間を置く。
「本物の殺人未遂を、あぶり出すためだ」
教室の温度が、一度下がった気がした。
「……え?」
誰かが息を呑む。僕の心臓も、そこで初めてリアルに跳ねた。
「まず最初に言っておくが、私は今のところ無傷だ。君たちが飲んだコーヒーも、私のカップも、ここにある液体はすべて安全だ。毒物混入の事実はない」
如月は、魔法瓶を軽々と持ち上げて見せる。
「じゃあ、何が『殺人未遂』なんですか」と、宮下が震える声で訊いた。
「心配しなくていい。君じゃない」
如月は、意外なほど優しい口調で言った。
「問題の本質は、そこではない。この授業が始まる前――もっと正確に言えば、この『殺人学概論』というシラバスが公開されてから今日までの間に、私に対して『殺意』を抱いた人間が、この教室の中にいる。その人間は、今日の授業が『実験に使える』と考えた。そして実際、ある行動を起こした」
「ちょ、ちょっと待ってください」と、眠そうな男子が手を挙げる。「それ、つまり、ほんとに誰かが先生を――」
「殺すつもりだった。あるいは、少なくともダメージを与えるつもりだった。だが、そのプランはすでに破綻している」
如月は、自分のジャケットの内ポケットから、小さな透明のビニール袋を取り出した。中には、白い粉が入っている。……いや、粉にしては粒が大きすぎる。細かく砕かれた錠剤のようだ。
「これは、今朝、私の研究室の机の引き出しから見つかったものだ。ラベルの剥がれた薬瓶の中身だが、成分分析はすでに済んでいる。市販の睡眠薬だ。致死量には遠く及ばないが、コーヒーに混ぜれば人を昏倒させるには充分だろう」
ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
研究室の引き出し。薬。コーヒー。今朝。
如月は、僕たち一人一人の顔を順に見ていく。目が合うと、次の人に移る。その視線は責めるというより、観察するという色合いが濃かった。
「もちろん、これをここに置いたのが誰か、ということはすでに検討がついている。防犯カメラは便利だな。だが、私は刑事ではない。ここは大学であり、私は教員だ。だから、この場を『取り調べ室』にはしない」
そう言うわりに、この状況はほとんど密室尋問だったが。
「じゃあ、何をするんですか」と、朝倉さんが訊く。彼女の声は落ち着いていたが、膝の上の両手はぎゅっと握りしめられている。
「授業をする」と、如月はあっさり言った。「『殺人学概論』の、記念すべき第一回目だ。テーマは『未遂』。君たちには、このケース――『研究室の引き出しに睡眠薬を仕込んだ人物がいる』という状況をもとに、犯人像と動機を推理してもらう」
僕たちの顔に浮かんだ「は?」という表情を、彼は満足げに眺める。
「繰り返すが、これは授業だ。ここに警察はいない。告発も、糾弾も、断罪もない。あるのは、事実と推理と、そして選択だけだ」
如月は黒板の隅に「事実」と書き、その下に箇条書きしていく。
一:睡眠薬が如月研究室の机の引き出しに仕込まれていた。
二:研究室への入室可能者は限られている(職員と、一部の学生)。
三:本日の授業で、コーヒーが配られることは、シラバスに特に書かれていなかった。
四:今この場にいる学生のうち、少なくとも一人は、如月に個人的な接点を持っている。
「四つ目、初耳なんですが」と、法学部スーツが眉をひそめる。
「初耳にするために、言わなかったのさ」と、如月は肩をすくめる。「さて、ここからが君たちの出番だ。まずは、この四つの事実を前提として――」
そこで、彼の視線が、ふと僕のカードに落ちた。
「おや、黒川くん。君のカードには、『この事件はすでに始まっている』とあるね」
しまった。さっき小さく書いた悪ノリが、ここで拾われるとは。
「あ、えっと、それは、単に、さっきの先生のコーヒーとか、鍵とか、そういうのがもう『事件の導入』っぽいなって……」
「いや、いいね。感性として正しい。事件というのは、表面化するよりずっと前から始まっているものだ」
如月は、チョークを握り直した。
「せっかくだから、黒川くん。君はどう思う? 『この事件』は、いつどこで始まった?」
いきなり指名されて、心臓がもう一度跳ねた。全員の視線が刺さる。六人分の視線なんて、本来なら大したことはないはずなのに、「容疑者と被害者候補」の視線は重さが違う。
――いつ、どこで。
僕は、今朝からの流れを、できるだけ冷静に巻き戻した。
如月の研究室。睡眠薬。シラバス。『殺人学概論』というタイトル。そこに引き寄せられた、物好きな学生たち。
そして、「誰か」と「誰か」の間に、何かしらの関係があったこと。
「……この授業の、シラバスが公開されたとき、ですかね」
自分でも意外な言葉が、口から出ていた。
「ほう」と、如月が目を細める。「理由を聞こう」
「そのタイトルを見て、『この授業を利用しよう』と思った人がいたからです。殺人事件を起こすにせよ、未遂に終わるにせよ、『殺人学』っていう名前の講義の中でなら、何かをごまかせる、あるいは正当化できるって考えたのかなと」
話しながら、自分で怖くなってくる。これは単なる推理ゲームのはずだった。だが今、この小さなゼミ室で僕がしているのは、実在の人間の心の内側を、勝手にこじ開ける行為だ。
「それに、先生がさっき言ってましたよね。『大学生活の限られたリソースを、退屈な授業に費やさせるのも殺人の一種だ』って」
如月の眉が、わずかに跳ねた。言っていた。間違いなく。そんな悪趣味な比喩を。
「だから、『退屈な授業』を殺すために、この科目を履修した人が、少なくとも一人はいるんじゃないかなって。先生を殺したいんじゃなくて、先生が象徴してるもの――例えば評価システムとか、研究室のヒエラルキーとか、そういうのを壊したい人」
言いながら、僕の視線は、自然と一人の学生に向かっていた。
宮下。
彼女は、さっきからずっと下を向いている。ノートを取っているふりをしながら、ページは一行も進んでいない。
「……つまり、黒川くんの仮説では」如月は、静かに言った。「この授業を受けている『誰か』は、私個人ではなく、私が代表しているシステムに対して不満を抱いている。その不満を、『殺人学概論』という枠組みの中で爆発させようとした、と」
「はい。ただの推理ですけど」
僕は慌てて付け加える。だが、その「ただの推理」は、教室の空気を確実に変えてしまっていた。
朝倉さんは、何かを言いかけて口を閉じる。法学部スーツは、眉間に深い皺を刻んでいる。眠そうな男子でさえ、今は目を見開いている。
そして、宮下は――ようやく顔を上げた。
「……違う」
かすれた声だった。




