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『殺人学概論』 ――この講義では、まだ誰も死なない  作者: 御子柴 流歌


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3/4

転:世の中そんなにうまく転がっていかない



 そこからの三十分は、文字通り「事件の分解」だった。


 なぜ如月はコーヒーを配ったのか。なぜ自分のカップだけ、実際には一滴も飲まなかったのか。なぜ倒れるタイミングが、宮下が「毒殺」と告白した直後だったのか。なぜドアに鍵をかけたのか。


 僕たちは一つ一つの行動を疑い、仮説を立て、修正させられた。その過程は、確かにスリリングだったが、どこか演習室特有の安心感もあった。なにせ、犯人も被害者も、すべては「授業の枠内」の存在なのだから。


 ――少なくとも、そのときまでは、そう信じていた。


「では、まとめよう」


 如月は、黒板にチョークで三つの円を描いた。


「今の小芝居には、三層の意味があった。第一に、君たちの反応を見るためのテスト。誰がまず被害者のもとへ駆け寄るか。誰が出口に向かうか。誰が状況を俯瞰するか」

「僕、完全に出口に向かってましたね……」と、法学部スーツが苦笑する。

「君は合理的だ。生存率は高いだろう。その代わり、友人をなくすかもしれないがね。第二に、『殺人事件のプロローグ』というものがいかに作為的かを体感させること。倒れるタイミング一つで、事件の印象は変わる」


 彼はチョークをくるりと回し、最後の円を黒く塗りつぶした。


「そして第三に――」


 一拍、間を置く。


「本物の殺人未遂を、あぶり出すためだ」


 教室の温度が、一度下がった気がした。


「……え?」


 誰かが息を呑む。僕の心臓も、そこで初めてリアルに跳ねた。


「まず最初に言っておくが、私は今のところ無傷だ。君たちが飲んだコーヒーも、私のカップも、ここにある液体はすべて安全だ。毒物混入の事実はない」


 如月は、魔法瓶を軽々と持ち上げて見せる。


「じゃあ、何が『殺人未遂』なんですか」と、宮下が震える声で訊いた。

「心配しなくていい。君じゃない」


 如月は、意外なほど優しい口調で言った。


「問題の本質は、そこではない。この授業が始まる前――もっと正確に言えば、この『殺人学概論』というシラバスが公開されてから今日までの間に、私に対して『殺意』を抱いた人間が、この教室の中にいる。その人間は、今日の授業が『実験に使える』と考えた。そして実際、ある行動を起こした」


「ちょ、ちょっと待ってください」と、眠そうな男子が手を挙げる。「それ、つまり、ほんとに誰かが先生を――」

「殺すつもりだった。あるいは、少なくともダメージを与えるつもりだった。だが、そのプランはすでに破綻している」


 如月は、自分のジャケットの内ポケットから、小さな透明のビニール袋を取り出した。中には、白い粉が入っている。……いや、粉にしては粒が大きすぎる。細かく砕かれた錠剤のようだ。


「これは、今朝、私の研究室の机の引き出しから見つかったものだ。ラベルの剥がれた薬瓶の中身だが、成分分析はすでに済んでいる。市販の睡眠薬だ。致死量には遠く及ばないが、コーヒーに混ぜれば人を昏倒させるには充分だろう」


 ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。


 研究室の引き出し。薬。コーヒー。今朝。


 如月は、僕たち一人一人の顔を順に見ていく。目が合うと、次の人に移る。その視線は責めるというより、観察するという色合いが濃かった。


「もちろん、これをここに置いたのが誰か、ということはすでに検討がついている。防犯カメラは便利だな。だが、私は刑事ではない。ここは大学であり、私は教員だ。だから、この場を『取り調べ室』にはしない」


 そう言うわりに、この状況はほとんど密室尋問だったが。


「じゃあ、何をするんですか」と、朝倉さんが訊く。彼女の声は落ち着いていたが、膝の上の両手はぎゅっと握りしめられている。


「授業をする」と、如月はあっさり言った。「『殺人学概論』の、記念すべき第一回目だ。テーマは『未遂』。君たちには、このケース――『研究室の引き出しに睡眠薬を仕込んだ人物がいる』という状況をもとに、犯人像と動機を推理してもらう」


 僕たちの顔に浮かんだ「は?」という表情を、彼は満足げに眺める。


「繰り返すが、これは授業だ。ここに警察はいない。告発も、糾弾も、断罪もない。あるのは、事実と推理と、そして選択だけだ」


 如月は黒板の隅に「事実」と書き、その下に箇条書きしていく。


 一:睡眠薬が如月研究室の机の引き出しに仕込まれていた。

 二:研究室への入室可能者は限られている(職員と、一部の学生)。

 三:本日の授業で、コーヒーが配られることは、シラバスに特に書かれていなかった。

 四:今この場にいる学生のうち、少なくとも一人は、如月に個人的な接点を持っている。


「四つ目、初耳なんですが」と、法学部スーツが眉をひそめる。

「初耳にするために、言わなかったのさ」と、如月は肩をすくめる。「さて、ここからが君たちの出番だ。まずは、この四つの事実を前提として――」


 そこで、彼の視線が、ふと僕のカードに落ちた。


「おや、黒川くん。君のカードには、『この事件はすでに始まっている』とあるね」


 しまった。さっき小さく書いた悪ノリが、ここで拾われるとは。


「あ、えっと、それは、単に、さっきの先生のコーヒーとか、鍵とか、そういうのがもう『事件の導入』っぽいなって……」

「いや、いいね。感性として正しい。事件というのは、表面化するよりずっと前から始まっているものだ」


 如月は、チョークを握り直した。


「せっかくだから、黒川くん。君はどう思う? 『この事件』は、いつどこで始まった?」


 いきなり指名されて、心臓がもう一度跳ねた。全員の視線が刺さる。六人分の視線なんて、本来なら大したことはないはずなのに、「容疑者と被害者候補」の視線は重さが違う。


 ――いつ、どこで。


 僕は、今朝からの流れを、できるだけ冷静に巻き戻した。


 如月の研究室。睡眠薬。シラバス。『殺人学概論』というタイトル。そこに引き寄せられた、物好きな学生たち。


 そして、「誰か」と「誰か」の間に、何かしらの関係があったこと。


「……この授業の、シラバスが公開されたとき、ですかね」


 自分でも意外な言葉が、口から出ていた。


「ほう」と、如月が目を細める。「理由を聞こう」

「そのタイトルを見て、『この授業を利用しよう』と思った人がいたからです。殺人事件を起こすにせよ、未遂に終わるにせよ、『殺人学』っていう名前の講義の中でなら、何かをごまかせる、あるいは正当化できるって考えたのかなと」


 話しながら、自分で怖くなってくる。これは単なる推理ゲームのはずだった。だが今、この小さなゼミ室で僕がしているのは、実在の人間の心の内側を、勝手にこじ開ける行為だ。


「それに、先生がさっき言ってましたよね。『大学生活の限られたリソースを、退屈な授業に費やさせるのも殺人の一種だ』って」


 如月の眉が、わずかに跳ねた。言っていた。間違いなく。そんな悪趣味な比喩を。


「だから、『退屈な授業』を殺すために、この科目を履修した人が、少なくとも一人はいるんじゃないかなって。先生を殺したいんじゃなくて、先生が象徴してるもの――例えば評価システムとか、研究室のヒエラルキーとか、そういうのを壊したい人」


 言いながら、僕の視線は、自然と一人の学生に向かっていた。


 宮下。


 彼女は、さっきからずっと下を向いている。ノートを取っているふりをしながら、ページは一行も進んでいない。


「……つまり、黒川くんの仮説では」如月は、静かに言った。「この授業を受けている『誰か』は、私個人ではなく、私が代表しているシステムに対して不満を抱いている。その不満を、『殺人学概論』という枠組みの中で爆発させようとした、と」

「はい。ただの推理ですけど」


 僕は慌てて付け加える。だが、その「ただの推理」は、教室の空気を確実に変えてしまっていた。


 朝倉さんは、何かを言いかけて口を閉じる。法学部スーツは、眉間に深い皺を刻んでいる。眠そうな男子でさえ、今は目を見開いている。


 そして、宮下は――ようやく顔を上げた。


「……違う」


 かすれた声だった。


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