承:……とはいうものの、全く承前としない流れ
「どう? 何か思い付いた?」
カードを前にペンをくるくる回していた僕に、朝倉さんが覗き込んでくる。
「うーん、『殺人事件』って言われると、途端に何も出てこなくなるね……」
「創作経験ゼロ?」
「ミステリは読むけど、自分で書いたことはないかな」
「じゃあ、読者的視点で考えてみようよ。ここにいるメンバーの中で、いちばん『殺されそう』なのは誰?」
「それ、口に出していい発想なの?」
「出した方がきっと単位になるよ」
彼女は悪戯っぽく笑う。その軽さに、少し救われる。
「まあ、普通に考えたら、被害者は先生なんじゃない?」
僕は中央の如月を顎で指した。
「タイトルロールだし、授業の主催者だし。この中で一番『殺され甲斐』がある」
「殺され甲斐って何」
朝倉さんは笑いながら、すぐに真面目な顔つきになる。
「でも、確かに。あのテンション、誰かの地雷は踏んでそうだよね」
教室の他の三人を見る。眠そうな男子、妙にスーツが板についている法学部っぽい男子、それから、教卓に一番近い席でノートをきっちり取っている女子。たぶん真面目なタイプだ。
「じゃあ、犯人は誰にする?」
「そこの眠そうな彼とか?」
僕が小声で言うと、朝倉さんは即座に首を振った。
「ダメ。ああいう『いかにも無気力系』を犯人にしちゃうと、推理としては薄いよ。意外性がない」
「じゃあ、法学部っぽいスーツの人?」
「それもそれでベタじゃない? 『法律を逆手に取った完全犯罪』とか、読みすぎたミステリの症状が出てる」
「じゃあ……あの、真面目そうな人?」
「ああ、あの子ね」
朝倉さんは、ノート女子をじっと見る。彼女――名前はまだ知らない――は、如月の言葉を一字一句逃すまいと、視線を上げずにペンを走らせ続けている。
「一見すると『いい子』だけど、内側にストレス溜め込んでそうな感じ。動機を盛り上げ甲斐がある」
「人を素材みたいに言わないでください」
「いや、今は授業だし」
そう言って、朝倉さんは自分のカードにさらさらと何かを書き込んだ。盗み見るつもりはなかったが、うっかり視界の端に「過去のトラウマ」「理不尽な評価システム」という、やたら物騒な単語が入ってくる。
「……すごいね、プロファイリング」
「ミステリと心理学が趣味だから。黒川くんは?」
「僕は……」
僕は空白のカードを見つめる。頭の中にあるのは、典型的な推理小説のパターンばかりだ。密室、毒、入れ替わり、偽装自殺。
そのとき、ふと、如月のさっきの言葉が引っかかった。
『実際に誰も死なない。たぶんね』
あれは単に、教授特有の悪ふざけだったのか。それとも。
――まあいい。ひとまず、ここは素直に「授業の通り」に乗ってみよう。
僕はペンを取り、書き始めた。
被害者:如月一真。
犯人:現在不明(講義終了までに判明予定)。
動機:授業内容に関連した何か。
凶器:コーヒー(毒物混入)。
そして、カードの下の方に、小さく付け加える。
「※この事件は、すでに始まっている」
◇
四十分後。全員がカードを書き終えたころを見計らって、如月が手を叩いた。
「はい、そこまで。思い悩んでペンだこができた人も、三行で済ませた人も、いったん筆を置きたまえ」
カードは回収されず、各自の手元に置いたままにさせられた。如月は教卓の下から、銀色の魔法瓶を取り出す。
「さて、頭を使った後は、体もいたわらねばならない。コーヒーを淹れてきた。飲める人?」
挙手したのは、僕と、眠そうな男子と、法学部スーツと、如月自身の四人だった。朝倉さんとノート女子は「カフェイン弱いので」と首を振る。
「じゃあ、セルフでどうぞ」
如月は紙コップを回しながら、軽く注意を促した。
「熱いから、舌を殺さない程度にな」
それは一見、何の変哲もないコーヒーブレイクだった。だが、「殺人学」というタイトルの授業内でそれをやられると、途端に象徴的な儀式のように見えてくるから不思議だ。
僕は一口だけ啜った。苦味強めだが、悪くない。眠気も覚める。
「ところで、カードに『毒殺』と書いた人はいるかね?」
如月が、ふいにそう言った。
空気が、ぴりりと緊張する。僕の隣で、朝倉さんの視線が僕のカードに吸い寄せられかけて、慌てて引き戻されるのが分かる。
「……はい」
手を上げたのは、意外にもノート女子だった。
「毒物の種類までは書いていませんが、『飲み物に何かを混入する』という形で」
「ほう、君の名前は?」
「理工学部一年、宮下です」
如月は嬉しそうに頷く。
「いいねえ、宮下くん。理工学部は毒物の扱いに詳しそうだ」
「そんなことないです」
「謙遜もいいが、あまり本気にされると君の評判に関わるな。冗談だよ」
そう笑って、如月は自分のコーヒーを――飲まなかった。
紙コップのふちに唇を近づけたまま、ふと視線を落とし、次の瞬間、その表情が変わる。眉がわずかに寄り、喉元が痙攣するように震えた。
「……う」
そして、彼はその場に崩れ落ちた。
「先生!?」
朝倉さんの声が、驚くほどよく通る。僕も慌てて立ち上がった。
教室の空気が、一瞬で騒然となる。
「救急車!」「心臓発作?」
誰かが叫び、誰かがスマホを取り出す。
だが、ここは四階の奥のゼミ室で、しかもドアには鍵がかかっている。
「鍵、鍵、どこ!?」
法学部スーツがドアノブをがちゃがちゃさせる。
眠そうな男子は、なぜか一歩下がって様子を伺っている。
宮下は顔面蒼白で固まっている。
その混乱の中で、僕の頭のどこかだけが、妙に冷静だった。
――おかしい。
如月は、コーヒーを「飲んで」いない。
口をつけただけだ。にもかかわらず、あの倒れ方は、あまりにも芝居がかっている。
いや、芝居と決めつけるのも乱暴だが――。
「黒川くん」
耳元で、小声がした。朝倉さんだ。
彼女もまた、僕と同じ種類の違和感を覚えたらしい。
「これ、たぶん……」
彼女の言葉は、床に倒れていたはずの如月の声によって遮られた。
「――よし。観察眼テスト、第一問終了」
如月は、何事もなかったかのようにむくりと起き上がった。
「……は?」
教室全体から、間の抜けた声があがる。動いている。息もしている。つまり、さっきまでのは――。
「仮死状態ってやつだ。まあ、演技だがね」
如月は床に座り込んだまま、スーツの膝についた埃を払った。
「皆、いいリアクションだった。救急車を呼ぼうとした君、鍵を開けようとした君。どれも正しい。ちなみに、君たちが騒いでいる間に、私は三度ほど『本当に死んだことにしておこうかな』と思ったが、シラバスに『講師死亡の可能性あり』とは書いていないので自重した」
「……先生」と、法学部スーツが青筋を浮かべる。「それ、かなり悪質な――」
「授業だ。『殺人学概論』だ。講師が突然倒れるくらい、許容範囲だろう。でなきゃタイトル詐欺だ」
如月は立ち上がり、机の端に寄りかかった。
「さて、ここからが本題だ。今の一連の出来事の中で、『おそらく作為的だった部分』をできるだけ挙げてみてほしい。さあ、殺人事件のプロローグを解体する作業だよ」




