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『殺人学概論』 ――この講義では、まだ誰も死なない  作者: 御子柴 流歌


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起:それはいつだって突如発生する。殺意も似た様なモノなのだろうか。

 僕がこの春いちばんの誤読をしたのは、履修登録のときだった。


 A棟一階のロビー、まだ新品の学生証を首からぶらさげた一年生たちが、パソコン画面と時間割表を前にして右往左往している。


 僕ももちろんその中の一人で一般教養科目の一覧をスクロールしながら、いかにも単位が取りやすそうな授業名を探していた。




「――『殺人学概論』?」




 目に付いた文字に、思わずスクロールを止めた。


 そこだけフォントが赤くなっているとか、そういうことは当然ない。にもかかわらず、そのタイトルは画面の上で異様な存在感を放っていた。




 担当教員:如月一真

 開講曜日:金曜三限

 備考欄:少人数ゼミ形式。文理不問。犯罪心理学・ミステリ研究等に関心のある者を歓迎




「……絶対おもしろいだろ、これ」


 僕はほとんど反射でクリックし、履修対象リストに速攻で突っ込んだ。


 だってそうだろう。大学の授業で『殺人学』だ。どう考えてもエッジが効きすぎている。


 退屈な一般教養よりちょっとくらい危ない匂いのする講義のほうが、大学生活っぽいじゃないか。


 ――後で知るのだが、この判断が、僕の大学生活どころか、場合によっては生命保険の料率にまで影響を与えかねない選択だった。




     ◇




 金曜三限がやってきた。


「殺人学概論」の教室は他の教養科目とは違って、なぜか法学部棟のいちばん奥にある小さなゼミ室だった。六人掛けの長机がコの字型に配置されていて、真ん中に教員用の席。すでに何人かの学生が座っていたが、教室全体にどことなく「よくこんなの履修したな」という自意識過剰な空気が漂っている。


「ここ、いい?」


 ドアの近くの席に荷物を置こうとした僕に、少し低めの声がかかった。振り向くと、黒髪をひとつにまとめた女の子が、シラバスを片手に立っていた。ぱっと見、真面目そう――というのは偏見だけれど、少なくとも「殺人学」という文字を眺めてニヤニヤしている種族には見えない。


「あ、どうぞ」


 僕が椅子を引くと、彼女は「ありがとう」と会釈して隣に座った。


「やっぱりタイトル見て、取っちゃったクチ?」


「え?」


 いきなり核心を突かれて、思わず間抜けな声が出る。


「『殺人学概論』ですよ?」と言いながら彼女はシラバスの表紙を指でトントンと叩いた。「この字面見て、クリックしない方が少数派じゃない?」


「いや、普通はクリックしないと思うけど……」


「じゃあ、私たちは多数派の少数なんだね」


 よく分からない論理展開だったが、妙に納得させられる笑顔だった。


「黒川透。文学部一年」


「朝倉詩織。同じく一年。よろしくね、相棒」


「相棒?」


「ほら、こういう講義って、大体ペア作らされるじゃない? だったら最初から組んでおいた方が効率いいかなって」


 この時点で僕は、彼女の社交性が僕の二十四倍くらいあることを悟った。


 そのとき、ガラリとドアが開いた。


「やあやあ、勇敢な諸君。出席と生存、ありがとう」


 入ってきたのは、白衣――ではなく、灰色のジャケットにノーネクタイというラフな格好をした男だった。年齢は四十代くらい。眼鏡の奥の目がやたらと生き生きしている。


「如月一真です。今日から君たちの『殺人学』を担当する。まず名前の話からしようか」


 そう言って、男――如月准教授は、教卓代わりの机に腰掛けた。


「『殺人学概論』。タイトルだけで履修を決めた人?」


 彼は手を挙げろと言わんばかりに、こちらに手のひらを向けた。


 正直に手を上げたのは、僕と朝倉さんと、もう一人、少し眠そうな男子学生の三人だった。残りの二人は、妙な矜持からか、あるいは慎み深さからか、手を上げなかった。


「うん、正直でよろしい」如月はにやりと笑う。「まず誤解を解いておくが、ここで教えるのは『上手な殺し方』ではない。そんなものは今どき検索すればいくらでも出てくるし、その九割は嘘だ」


「……残り一割は?」隣で朝倉さんが小声でつぶやいた。


「残り一割も、君たちには関係ない。少なくとも、健全な卒業を目指す限りではね」


 如月は黒板に「殺人学」と大きく書き、その下に横線を引いた。


「ここで扱うのは、『なぜ人は人を殺すのか』『なぜ人は人を殺さないのか』、そして『どうすれば殺人を見抜けるか』だ。つまり、殺人という現象を理解するための、きわめてアカデミックな試みである」


「アカデミックにしてはタイトルが煽情的すぎませんか」と、眠そうな男子がぼそっと言った。


「マーケティングとも言う」如月は悪びれない。「大学生活の限られたリソースを、退屈な授業に費やさせるのも殺人の一種だと、私は密かに思っているからね。まあ座りたまえ。そろそろ今日の本題に入る」


 僕たちが姿勢を正すと、如月はポケットからカードサイズの紙束を取り出した。一枚ずつ配っていく。厚手の白いカード。表には何も書かれていない。


「さて。『概論』第一回のテーマは――『まだ起きていない殺人事件を推理せよ』、だ」


 教室の空気が、一瞬だけ固まった。


「まだ、起きていない……?」


「そう。未遂とも違う。計画も、動機も、犯人も、被害者も、今はまだ存在しない。あるのは、六人の学生と、一人の教授と、一つの教室。さて、ここからどうやって殺人事件を捏造するか、考えてみよう」


 如月は楽しそうに両手を広げる。


「安心したまえ。実際に誰も死なない。たぶんね。これはシミュレーションだ。君たちはそれぞれ、『近い未来にこの教室で起こりうる殺人事件』を自由に想像し、その概要を書き出してみてほしい。犯人、被害者、動機、凶器、トリック。最低でもその五つ」


「先生、それ普通に犯罪予告では……」と、教室の隅から控えめな声が上がる。


「大学公認の犯罪予告だ。こんなホワイトな場、他にないぞ。もちろん、提出されたカードは授業外には持ち出さない。私も、警察には見せない。警察が見せろと言ってきたら、そのときは君たちが頑張って逃げてくれ」


 冗談とも本気ともつかない口調で言ってから、如月は僕たちを見回した。


「では、三十分。書き終わったら、話し合おう。――ああ、それと」


 彼はふと思いついたように付け加える。


「この授業の間、教室のドアは鍵をかけておく。ここにいる全員が『容疑者』であることを、物理的に保証するためにね」


 カチャリ、とドアの鍵がかけられた音が、やけに大きく響いた。

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